35.涙
どれくらいそうやって公園にいたのだろう。着いた時はあんなに明るかったのに、もう辺りは真っ暗だ。公園内の街灯なんて気休め程度にしかならない。
木の枝がかさっと揺れるたび、何かがそこにいるような気配がして落ち着かない。携帯を握り締めていた手は、いつのまにか氷のように冷えて、皮膚の感覚がなくなっていた。
わたしは一向に鳴らない携帯を、じっと見つめる。そして画面を開き、麻美の電話番号を表示させた。最後の手段だ。麻美にだけは絶対に聞けないと思っていたけれど、これしか方法が思い浮かばない。
マンションの人に吉永君ちが引っ越したって聞いたんだけど……と遠まわしに訊ねてみよう。麻美ならきっと知ってるはず。
わたしは、まだ止まらない涙を冷たい指先でぬぐい、通話ボタンを押した。何度かコールした後、お決まりのメッセージが流れる。電源を切ってるのだろうか。もう一度かけてみたけれど、やっぱり通じない。
鼻の奥がつんとしてくる。また涙がこぼれそう。麻美、お願い。電話に出て……。
何度やっても同じ。とうとう麻美とのコンタクトをあきらめたわたしは、今度はすがるような気持ちで絵里に電話をかけていた。
『はーい、あたし。優花? なんか用?』
絵里の明るい声が耳にしっかりと届く。誰もいない公園に姿の見えない仲間が増えたみたいだ。絵里、わたし、わたしね……。
『ちょっと優花? 聞いてる? どうしたの? ……ねえ、返事してよ』
絵里の声がなつかしくて、耳に心地よくて……。返事をしようと思うんだけど、ちっとも声にならなくて。
『優花、いるんでしょ? 何かあった? ねえ、なんとか言って』
「……えり。……あのね、わたし……。ううっ……」
『優花? 泣いてるの? ねえ、どうしたの? また変なヤツに絡まれてる?』
「えり、ごめ……ん。そうじゃないの。ちがうの。あのね、あの……ね。吉永君がね……」
『吉永がどうしたの?』
「いなくなったの。どこかに行ったの。荷物を全部運び出して、家にも誰もいなくて、車もなくて、それに、それに、自転車もない……」
何もかも、なくなってた。あったのは表札だけ。
『今、どこ? そこ家じゃないでしょ? 場所は? あたし今さ、アネキとそのカレシも一緒なの』
絵里に問われるがまま、隣にある小学校名を伝え、その向かいの公園にいると答えた。
『わかった。すぐに行くから、そこ、動かないで』 と言って絵里がプツっと電話を切る。
大変だ。絵里がここに来てしまう。わたしったらなんてことしちゃったんだろ。せっかく絵里がお姉さんとそのカレシと楽しく過ごしてるところだったのに。こんな風に泣きながら電話したら、誰だって心配するに決まってる。
わたしはポケットからハンカチを出して、涙を拭った。いくら絵里にでも、こんなひどい顔は見せられない。
そして今だけ、吉永君のことは忘れよう、楽しいことだけ考えて絵里を待とうとわざと作り笑いを浮かべて気持ちを奮い立たせる。涙が何度も伝った後がごわごわして、頬のあちこちが突っ張る。瞼だって重い。この暗闇だけが救いだ。これなら、絵里にもはっきりと見えないだろう。
わたしは髪を手櫛で整え、ベンチから立ち上がり、道路の方に向かった。
車のライトが近付いてくる。次第にスピードを落とし、白いセダンがわたしの前で止まった。後ろのシートから絵里がするりと降りてきた。
「優花。どうしたのよお。もうっ」
絵里がいつもの甘いコロンの香りを纏いながら、わたしに抱きついてきた。
車が軽くクラクションを鳴らし、わたし達から遠ざかっていく。
せっかく、もう泣かないって決めてたのに、絵里の姿を見たとたん、もろくも決心が崩れ去る。わたしは絵里の腕の中で、崩れるように泣き続けた。とても日本語とは思えないようなとぎれとぎれのわたしの説明を、絵里はうんうんと優しく聞いてくれた。
人間の涙ってどれくらいあるんだろって思えるくらい、泣いた。泣いても泣いても次々にあふれてきて、枯れることはない。
絵里に体を半分預けるようにして、家に向かって歩き始めた。その間、絵里はずっと携帯片手に麻美に連絡を取っているけど、やっぱり繋がらない。
「ねえ、優花。麻美はきっと何か知ってるよ。今日は繋がらないけど、明日、学校に行けばわかるって」
「うん」
「それにさ、いくら荷物を運び出したからって、引越しだとは限らないし」
わたしは絵里の話に耳を傾ける。荷物を運び出すイコール引越しだと思ってたけど、違うの?
「だって、学校の誰もそんなこと言ってなかったでしょ? それにもし引っ越すなら一応彼女である麻美が知ってるはずじゃない? そんなそぶりちっとも見せなかったしね。そうだ!」
何か閃いたの? 絵里がポンと手を打った。
「もしかしたら……。おじさんとおばさんだけどこかに引っ越したのかもしれないけど、吉永は近くの親戚の家から学校に通うってのはどう?」
そんな都合のいい話があるのだろうか? 絵里の突飛な発想のおかげで、涙はすっかり止まったけれど、世の中そううまくはいかないと思う。
「きっとそうだよ。何もトラックが荷物を運んだからって、吉永まで一緒にどこかにいってしまうとは限らないと思うんだ。その証拠に、誰も吉永が引っ越したなんて言わないし、優花に何も連絡してこないんだよ。ね?」
絵里がわたしを見てにっこり笑う。そう言われればそんな気もする。わたしはさっきまであんなに大声をだして泣きわめいていた自分が急に恥ずかしくなった。連絡がないことが、何も心配いらないって証拠。そう思えばいいんだね?
絵里、ありがとう。絵里が来てくれてよかった。マンションの下に着いた時には、少し希望の光が見えたような気がした。
わたしのためにこんなところまで駆けつけてくれた絵里を、このまま帰すわけにはいかない。せめて夕飯だけでも一緒にと誘ってみた。でも絵里はぶんぶんと首を横に振る。
「優花、ありがと。でも、今夜はやめとく。だって、アネキがカレシをうちに連れて来るって言ってたからさ。あたしも顔出ししなきゃね。だから優花はゆっくり休んで。そして、明日、麻美に詳しく聞いてみよう。じゃあね、ばいばい」
制服のチェックのスカートを揺らしながら、絵里がくるりと反転し走り出す。
「え、絵里! 待って。バスで帰るの?」
「うん。大丈夫だって。高校までもどれば、その先は定期もあるし」
「じゃあ、バス停まで送ってく」
「いいって。すぐそこだし……って。あそこにお出ましなのは、もしかして鳴崎?」
絵里の視線の先には、カバンを肩に担ぐようにしてマンションから出てきた勇人君の姿が……。
「あれ? ゆうちゃん? それに……ほ、本城さん」
「悪かったわね、あたしで」
「そ、そんなことないよ。とんでもないです……」
絵里の姿に怯える勇人君。あれ? この二人って、いつのまにかこんな力関係になってたんだ。勇人君は、マジで絵里のこと、怖がってる。前の麻美のことがあるから、絵里には頭が上がらないんだね。
絵里に愛想笑いをした後、突然真顔になった勇人君が、わたしに詰め寄ってきた。
「それよりゆうちゃん。ホント、びっくりしたよなあ。俺も今日あいつから電話で聞いたんだけど……。あれ? もしかして、知らない? 真澄のこと」
勇人君……。何か、知ってるんだね。わたしは唇を噛み締めて、勇人君の顔をじっと見つめた。