30.ふたり
「じいちゃん、相当悪いみたいで。医者に身内を呼んでおけって言われたらしい」
おじいさん、危篤なんだ……。わたしは息をひそめて吉永君の話しに耳を傾けた。
「今夜、父さんが帰って来たら、車で長野に行く。もしじいちゃんが、その、死ぬようなことになったら……。しばらくはこっちに帰って来れない」
吉永君の声が、低く、小さく、そう告げた。
時間が……止まった。
周りの景色が一枚の絵のように、眼前に貼り付いている。公園の植え込みから猫が出てきて怪しく瞳を光らせ、ほんの一瞬こちらを見て、そのまま走り去った。沈んだばかりの太陽の上部に低く垂れ込めている灰色の雲。夕焼けはほんのわずかも残っていない。雨の匂いのする夜風がすうっと頬をかすめる。
静かに押し寄せてくる夜の帳に背中がゾクッと震えた。
「なあ、ゆう……」
こういう時って、なんて話しかけたらいいのだろう。──そうなんだ、大変だね。そんなありきたりな言葉しか思いつかない。
何も言えずに黙り込んでいると、吉永君が静かにわたしの名を呼んだ。つぶやくように。そして何かを思い出したように。それとも、これと言った理由もないのにただわたしの名前を口にしただけ、とでも言うように……。
「なに……。真澄ちゃん」
しばらく間を空けて、そっと返事をした。
「おまえ、この前言ってたよな? じいちゃんのぶどうが、日本中の果物の中で一番好きだって」
「うん、言った。だって本当なんだもん。おじいさんの作ったピオーネが、お店で買うのより、ずっと甘くて、大きくて、おいしいと思う。そうだ! 真澄ちゃんの顔を見たら、病気も早く治るんじゃないかな。おじいさん、きっと元気になるよ。また来年もおいしいぶどうが作れるってば」
吉永君がほんの少し微笑んだように見えたけど、細めた目はやっぱりどこか寂しそうで、遠くの空を見つめたままだ。
「そうだな。じいちゃんには、絶対、治ってもらわないとな。これからもずっと、あのぶどう、おまえに食わせてやりたいし……」
真澄ちゃん……。ありがと。そうだよ、大丈夫だって。おじいさん、きっと治るよ。わたしはさっき吉永君と繋いでいた右手を左手の手のひらで包むようにして胸の辺りに持ってゆき、おじいさんの具合がよくなりますようにと心の中で祈った。
吉永君の視線を感じて、ふと横を見ると……。
「ゆう、おまえの昔の夢、今も変わってないのか?」
この前、バスターミナルで見送ってくれた時に見たような、ふわっとした笑顔を浮かべて、吉永君がわたしに訊いてくる。
突然何を言い出すのかと思えば、そんなこと……。わたしがアナウンサーになりたいってことかな?
「将来の夢のこと?」
的外れな答えを言う前に、確認してみる。
「ああ」
吉永君の目がじっとこっちを見てる。やだ、緊張するよ。でもこの状況で視線を逸らすのはもっと勇気がいる。自然と回数の増えるまばたきにきまりの悪さを覚えながらも、なんとか答えた。
「う、うん。昔のまんまだよ。今でもアナウンサーになりたいって思ってる。でもさ、すっごく採用が難しいのも知ってるし、なんてったって、この顔だしね。なれるわけないのは百も承知なんだけど。いつまでも夢見る少女みたいで、おかしいでしょ?」
おじいさんの話を聞いたばかりで不謹慎かとも思ったけど、少しだけ舌を出して、肩をすくめてみる。だって、将来の夢の話だよ。面と向かって話すのは、告白するのに匹敵するくらい、とても恥ずかしい内容だと思わない?
「別におかしくはないけど。じゃあ、進学先も決めてるのか?」
吉永君は少しも茶化さず、真面目な顔をしてわたしの夢を受け止めてくれた。
「うん。A学院大学。この大学出身の有名な女子アナがたくさんいるし、家からも通えるし」
「そうか……。わかった」
えっ? わかったって、何がわかったのかな? ちなみにわたしが目指しているA学院大学はミッション系の女子大だ。吉永君にとっては何の役にも立たない情報のはずなんだけどね。
「俺が帰ってこなかったら……」
──帰ってこなかったら……って。ちょっと待って。なんなの? それって、どういう意味? おじいさんに会いに行くために長野に行くんだよね? それとも……。そうじゃないの?
わたしの心臓が俄かに鼓動を早める。
「お、おい、そんな顔するなよ」
吉永君がわたしを見て慌てる。わたし、どんな顔してたんだろ? ただ、息が止まるかと思うくらい、びっくりしたのは確かだ。
「いや、違うんだ。俺の言い方が悪かったよ。向こうにいる滞在期間が長引いても、心配するなってことさ。大園にもそれは言ってある。だから……おまえも、その、なんだな。変な奴に惑わされないように、元気でいろって、そう言いたくて」
「真澄ちゃん、なんか変。わたしには、もう帰ってこないって風に聞こえる。まさか、このまま長野に行ったきりってことはないよね? 真澄ちゃん。ねえ、教えて?」
わたしは必死になって吉永君に詰め寄った。絶対に帰ってくるという言葉を聞くまではあきらめない。
「な、何言ってるんだよ。あたりまえだろ。そんなわけない。その証拠に学校にだってそんな話はしてないからな。ただ、すぐには帰って来れないって事情もあるんだ。ぶどう園の手入れとか、いろいろな。田舎はこっちと違って、昔からのしがらみとかもあるし」
そ、そうだよね。吉永君のお父さんだってぶどう園を継ぐ気はないって言ってたんだし、みんなして向こうに行ったきりなんてことはない……はず。
わたしは、まだ心のどこかにもやもやとした物を感じながらも、彼の言ったことを信じようと自分に言い聞かせる。
その時、聞き慣れない携帯の着信音が近くで聞こえてきた。ポケットから携帯を取り出した吉永君が、ごめんと言いながら、隣で話し始める。
「わかった。すぐに帰る。……ああ、すぐ近くにいるから。じゃあ」
短く話し終えると、携帯を閉じながら吉永君が立ち上がった。
「父さんからだ。ゆう、ごめん。そろそろ帰るよ。帰ってきたら、授業のノート見せてくれる? お礼はぶどうジュースってことで」
「お礼なんて、いいよ。そんなこと気にしないで、さ、早く。ノートはしっかり取っとくからさ。気をつけて行ってきてね」
わたしは足早に先頭を切って歩き始める。すぐに追いついた吉永君が横に並んだ。でも、再びわたしの手に彼の手が重なることはなかった。
おじいさんが回復して、彼が長野から帰ってきたら、今度こそちゃんとわたしの気持ちを伝えよう。今日はそのつもりで絵里のもとを飛び出し、待ち伏せまでしていたんだもの。次は大丈夫。絶対に言える。
そして……。もしもその時、吉永君が麻美を選んだなら……。今度こそ、彼のことはきっぱりあきらめよう。
わたしは風に当たって冷たくなった右手をぎゅっと握り締めて、吉永君の歩調に合せ、帰路を急いだ。