「ふんわりした希望」VS「ルサンチマン」
社会学の古典なんか読んでいると、割と当たり前の事が書いてある。それは「人間の欲望は無限だけど、現実は有限である」というような事で、だからこそ、古代の哲学者なんかは節制とか、己の情念を鎮めるというのを一義にしたのだと思う。
「note」というサイトに、ベストセラー本を出した著者がエッセイを書いていて、読んでみると、「ふんわりした希望」を語っている。ベストセラー系の本に自分がよく見出すのはこの「ふんわりした希望」である。なぜかわからないけど、未来は明るい、人生は素晴らしくなる、生きる事は素晴らしい、テクノロジーがいろんな問題を解決する、社会は良くなる…という感じで、彼らは「欲望は無限だけど現実は有限」とは言わない。そのあたりは、いつも「ふんわりした希望」で覆いをかけて置いておく。
自分はこの「ふんわりした希望」というのはなんだろうと思っていた。最近、ネットでも現実でも表皮化してきた、「他者ーー排除運動」というのがある。これもこっちで名付けたものだが、とにかく、自分達の「権益」が奪われているのは、それを奪っている誰かがいるという事で、その誰かを排除・排撃するのがいいというものだ。
それで、最近思ったのが、このルサンチマン(妬みからの攻撃意志)というのは、「ふんわりした希望」が叶わない事が決定的になったが故に、起こっている怒り、妬み、排除運動ではないかという事だ。つまりーーー
「ふんわりした希望」 ⇔ 「ルサンチマン」
夢 夢からの失墜
努力、成功 叶わなかった怒り
という風に対応関係になっているのではないかという事だ。
この場合、ベストセラー本に見られる「ふんわりした希望」が裏切られると、嫌悪と排除を表面にした物語が流行る。どうもそんな風になっているような気がしている。
自分は子供の頃から、大人の言う事に疑問を感じてきたが、大人の偽善性・秩序への意志は裏返ると露悪性・排除になるように思っている。子供の頃は朝日新聞などが権威だったが、今は批判される傾向にある。この変化が何故起こったのか、よくわからないが、偽善的な希望を語る言葉は、その希望が叶わない事が各々に分かると、他人に対する怒り、妬みへと変化するように思われる。
そこで常に見逃されているのは、そもそも「夢を持つ」というような指向性そのものの限界である。純粋理性批判に似た批判というのが、こういう領域においても必要であると自分には思われる。現実の限界を越えて、人間の意志は広がる。だが、現実は意志の思う通りにならない。そこで、意志は暴走し、現実を攻撃しだす。だが、そもそも意志が夢見ているものは正しいのか。
人が「望む」という事そのものを疑わない場合、その偽善性はたやすく露悪性に繋がる。そう考えると、「日常ほっこり純文学」と「露悪的残虐系純文学」とはやはり裏表で同じではないかという気がする。真実はどっちにもない気が、自分にはしている。真実は、真実を夢見る力そのものを審査し、それの限界を探る事にあると思う。そういう意味で、自分はカントーー純粋理性批判のアンチノミー部分ーーの支持者である。