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023

 晴日の知る限り、櫻子はわりと方向音痴のはずだ。比べれば陽虎はずっと当てになるが、おそらくそういう問題ではない。

「櫻子ちゃん、おにぃ、分るんですか?」

「うん、なんとなくだけどね。陽虎の匂い? みたいなのがするの」

「栗の花みたいな?」

「花とは違うけど結構いい匂い……って違うからね! 本当に陽虎の体臭を嗅ぎ分けてるとか、そんな変態みたいなのじゃないんだから!」


 どうやら晴日のボケは通じなかったらしい。櫻子の清い心にひそかな敬意を表しつつ、晴日は推測を述べてみる。

「おにぃの体に残った霊気を感じ取ってるとかかもしれませんね。櫻子ちゃんがというより、おにぃ本人がですけど」


 先に進むにつれて付近はどんどん寂しくなっていった。とても大企業の会長が住んでいるとは思えない場所だったが、陽虎と櫻子の直感はやはり正しかった。

 まさしく豪邸が存在していた。ただし堂々たる和風建築や、外国の貴族が住んでいそうな華やかな洋館などとは趣がかなり異なる。


「家っていうか、要塞みたい。それか悪の秘密研究所」

 櫻子の洩らした感想に、晴日も同感だった。さらに付け加えるなら、こんもりと木の繁った小高い丘を背後にしているために、山中の関所といった雰囲気がある。


 高く無骨なコンクリートの塀が敷地の周囲を廻っていて、内部の様子は全く窺えない。門にはいかにも分厚そうな金属製のシャッターが降りていた。それ以外に通用口のような箇所は見当たらない。

 そのうえ監視カメラがそこかしこに設置されており、関係者以外立入禁止を威圧的に主張している。この物々しさなら、宗教の勧誘や公共放送料金の徴収だって寄り付かないに違いない。


「もっと近くに行ってみよう」

 櫻子の言葉に、晴日は驚いた。急いでブラウスの袖を引いて止める。

「やめた方がいいです。どうせ何も見えません」

 たとえ塀際まで行ったところで、壁の高さを実感するのが関の山である。カメラに姿を撮られてしまうのも上手くない。だが櫻子は頑なだった。


「晴日ちゃんには無理でも、今のわたしには分るの。あそこには絶対何かいるわ。意識を集中して探れば、陽虎の体のありかだって、もっとはっきりさせられるはず」

「だとしても危険です。こっちから分るんなら、向こうからだってこっちのことが分るかもしれないじゃないですか」


「それもそうね。じゃあ晴日ちゃんはここで待ってて。わたしと陽虎で偵察してくるから」

「待ってください。おにぃも同じ考えなんですか?」

「うーん、それは近づいた方が詳しく探れそうな気はするけどはい決まりね。敵に目を付けられないように、陽虎は大人しくしてること」

 櫻子は強引に陽虎を黙らせると、矢部邸の方を凝視した。


「肌がざわざわする。この変な感じをたどっていけば、きっと手掛かりが掴める。陽虎を元通りにしてもらわないと」

 うわ言みたいに呟きながら、櫻子が歩き出す。晴日はためらった末に、後を追おうとした。やはり止めるべきだ。だが背中に手が届くよりも先、櫻子はふいに誰かに呼ばれたみたいに面を上げた。


「え、なに? あ……」

「櫻子ちゃん!」

「櫻子!」

 櫻子の膝が崩れ落ちる。支えを失った体が倒れかかかり、どうにか寸前で踏みとどまったものの、晴日はすぐ違和感に気付いた。これは櫻子じゃない。中身が完全に陽虎に入れ替わっている。


「おにぃ、いったい何がどうなってるんですか。櫻子ちゃんはどうしたんです?」

「俺にも分らねえよ。急にここからいなくなって……違う、いなくなったんじゃなくて捕まったのか!? くそっ」

 陽虎は矢部邸の高い壁に険しい視線を飛ばすやいなや駆け出そうとした。


「おにぃ、駄目ですっ!」

「離せ晴日、櫻子を助けないと!」

 晴日は懸命にしがみついた。本来の陽虎に力ずくではかなわない。けれど櫻子ならばどうにかなる。晴日はぴたりと密着したまま、地面に着くぐらい低くお尻を落とした。


「いいですか、今おにぃが行ったって何もできません。いったん引き返すべきです」

「馬鹿言うな。櫻子を置いていけるわけねえだろ。もしあいつに何かあったらどうするんだ? お前責任取れんのか?」

 かっときた。


「じゃあもしおにぃに何かあったら、おにぃは責任取れるんですか!?」

 心の高ぶるままに怒鳴りつける。櫻子の姿をした陽虎がびくりと固まる。

「は、晴日……?」


「まったく、おにぃは考えが足りな過ぎです。相手は普通の人じゃないんですよ。櫻子ちゃんを確実に助けるためには、シャルロッテさんの力が必要です。強い人に頼るんです。それがいいです……そうしよ?」

 晴日はぐすっと鼻を鳴らした。陽虎ではあり得ない柔らかい背中に、滲んだ涙をこすりつける。


「おにぃ、もう勝手にいなくなったらやだよ。わたしを置いてかないでよ。ねぇ、お願い」

 こんなのだめ。かっこわるい。

 晴日は唇を噛んで嗚咽をこらえた。兄に泣いて駄々をこねて絵になるのは幼稚園までだ。ブスな泣き顔を見せるなんて妹の誇りに傷がつく。


「晴日」

 陽虎は晴日の腕を振りほどくと、こちらを向いて抱き寄せた。晴日は素直に身を委ねた。自分と同じ女の子の櫻子の体だから、落ち着ける。ただそれだけの理由で、このさいひさかたぶりに兄に甘えたいなんてことでは断じてない。


「俺は絶対に櫻子を助け出す。たとえ自分が死んでもな」

「……お話になりません。だいたいおにぃはもう幽霊じゃないですか」

「確かにな。だから今さらびびることなんかない。できることは全部やってやる」


「例えば、どうするんです?」

「せっかく天界人とやらが味方にいるんだ。あいつを使わない手はない。お前だってそう思うだろ?」

 晴日がおずおずと見上げると、櫻子の顔をした陽虎は力強く笑って頷いた。


「ふ、ふん、やっと分りましたか」

 晴日は不機嫌な調子でなじった。

「おにぃはいつも頭の回転が鈍いんです。だからわたしがいないと役立たずなんです。こっちはいい迷惑です」


「だったらせめて行動は早くしないとな。シャルの所に戻ろう。ぐずぐずしてて俺達まで捕まっちまったら洒落にならない」

「はいです、おにぃ」

 二人は握った手と手を引っ張り合うようにして駆け出した。囚われた陽虎の肉体と櫻子の魂を取り戻すための戦略的撤退だった。

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