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「歩けますか?」

「なんとか……でも」

 晴日の問いに櫻子は弱々しく頷いたものの、その場を動こうとはしない。晴日は眉根を寄せた。


「むー、困りましたね。うちに引き返すのもそれなりに手間ですし」

「あそこのコンビニで借りればいいだろ、え、うそ、やだ、そんなのできないって!」

 同じ声だが後半から激しく調子が変わっていた。まるで、というか間違いなく別人だ。最初に喋ったのが絶賛憑霊中の陽虎、焦って割り込んだのが宿主の櫻子だろう。晴日は今の台詞から導かれる状況を端的に指摘した。


「つまり櫻子ちゃんはおしっこがしたいんですね?」

 だが陽虎がくっついているせいで恥ずかしくてできないのだ。櫻子がびくりと視線を泳がせる。

「ち、違うし」

「じゃあ大きい方ですか」

「それは本当に違うっ!!」

 涙目で叫ぶ。晴日はよしよしと櫻子を落ち着かせてから、中の人に尋ねた。


「おにぃ、いったん櫻子ちゃんから離れることはできないんですか?」

「死ぬほど頑張ればやれなくもない、気もするけど」

「じゃあ櫻子ちゃんの下半身の幸せのために死ぬ気でやってください」

「……その言い方で俄然やる気が失せた、ってのを別にしても問題がある」


「言い訳はかっこ悪いです。一応聞いてあげますけど」

「シャルロッテが近くにいない状態で、この体から出たらなんか駄目そう。たぶん自分の形を保てない。すぐに散り散りになってあの世に一直線、ちょっ、そんなのダメ、ゼッタイ!」

 陽虎が話し終わるのを待たず、櫻子が慌ただしく突っ込んだ。もちろん晴日も同感だった。試すにはリスクが大き過ぎだ。少し考えてから修正案を出してみる。


「ではそこから直接わたしの方に乗り移るというのはどうでしょう」

「それってつまり、俺が」

「はい」

 陽虎が訊こうとしたことにいち早く頷く。櫻子の体を相手にファーストキスを交わすことになってしまうが、そのくらいよしとする。だが陽虎は難しい面持ちで首を振った。


「無理だと思う。上手くいくイメージが全然湧かない。あと、そろそろやばい感じなんだが」

 櫻子の顔色はもはやどんよりとしていた。堤防が決壊する瞬間はおそらくもう間近に迫っている。

「櫻子ちゃん、一ついいことを教えてあげます」

 こうなったらもう櫻子を説得するしかない。晴日は真剣な面持ちで相手の瞳を覗き込む。


「人は自分だけで生きているわけではありません。助け合いがどうとかいう比喩ではなく、生物学的な事実としてです。たとえば、櫻子ちゃんのお腹の中には何億個もの別の生き物がいます。おにぃの一つ二つが今さら加わったところで大した違いはないんです」


「俺は大腸菌かよ」

「別に乳酸菌でもいいですよ? ……だから櫻子ちゃん、ちっとも恥ずかしがることはありません。おにぃのことなんか気にせずに自然の摂理に任せましょう」

「そ、そうだよねっ。大腸菌だもんねっ」


「そうです。大腸菌です」

 晴日は重々しく頷いた。櫻子は王命を受けた戦士のように目元をきりりと引き締めた。

「陽虎は大腸菌、陽虎は大腸菌、陽虎は大ちょ……」

 そして呪文のごとく唱えながら、最寄りのコンビニ目指して歩き出す。

 勇敢なる乙女にどうか幸あれ。晴日は天に願った。


 信じれば願いは叶う。

 帰還した櫻子は深淵を覗いてきたかのように虚ろな目をしていたが、無事ミッションをコンプリートしたらしく、待っていた晴日へ気丈にも微笑みを浮かべてみせた。

 陽虎はすっかり気配を消している。もし時と場を弁えず櫻子にセクハラをかまそうものなら阿鼻叫喚の折檻決定だが、その心配はなさそうだ。


 やって来た次の便のバスに乗車する。今度は二人とも座ることができた。晴日が前で櫻子がそのすぐ後ろの席である。

 会話はさほど弾まなかったものの、代わりに問題が発生することもなく、バスはやがて商業区を過ぎて住宅地に入った。晴日達の住む辺りに比べると、町並みは古く緑が多く家は大きい。


 目的の停留所で降りたのは晴日達だけだった。ここからさらに市街から離れる方向に一キロばかり歩かねばならない。

 晴日は陽虎のスマートフォンを取り出して地図アプリを起動した。一応道順は記憶してきたが、初めて訪れる場所だ。迷って時間を無駄にしてもつまらない。


「こっち、かな。ああ、みたいだな」

「はい?」

 だが一人の声による二人のやり取りが交わされて、晴日が顔を上げた時にはもう櫻子が先に立って歩き出している。

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