初めての……
「愛を奏でるマリア」シリーズ「PART6」にあたる作品です。
シリーズでご覧下さい。
浅いあさい眠りの中で
誰かに名を呼ばれたような気がして
”マリア……”
それはひどく懐かしい響きで
”愛しているよ”
その甘い囁きに
何故だか涙が溢れてきて
そうして彼女はその朝を迎えた……
名を呼ばれたと思ったのは夢だった。
真璃亜が開いた瞳の前には、愛しい人がまだ微睡みの中にいる。
「遙希先輩……」
思わず知らず呟きが漏れる。
そして、昨夜の出来事を思い出す。
まさしく、夢のような一夜だった。
本当に夢では……一瞬そう思ったが、躰は常になく重く、素肌のまま何も身に着けていないという現実。
しかも、心はそこはかとない、しかし確かな幸福感に包まれている。
自分が「女」になったこと。
それもまた夢のような出来事だが、しかし、昨夜よりも現実感をもって真璃亜の心に訪れている。
真璃亜は今更ながら顔が上気し、そして面映ゆい想いだった。
そして。
日向は眠っているのに、真璃亜には腕枕をしたままだ。
真璃亜はそっと静かに、日向の躰から身を離した。
改めて日向を間近に見つめる。
日向のこんな無防備な顔を見るのは初めてだった。
日向は、まるで赤子の様に安らかな表情で眠っている。
それは、真璃亜がまだ一度も見たことのない穏やかな日向の一面だった。
ずっとこの表情を見ていたい……
そう思ったが、しかし日向が目を醒まして、真璃亜に寝顔を見られていたことを知ったら、日向はバツが悪いかもしれない……
そう思い直し、真璃亜は日向を起こさないように注意しながら、ベッドの中に隠れているインナーを探し出し、身につけると、それから、ベッドサイドテーブルの上に用意されているバスローブタイプのナイティーを着た。
改めて部屋中を眺めるとこの部屋は、フランス語で「続き部屋」を意味するいわゆる「スイートルーム」であるということに、真璃亜は気づいた。
キングサイズのダブルベッドが二つ並んでいるのに、それでもかなり広々としたベッドルーム。
そして、ベッドルームに続いてその隣にまた広い部屋があり、そこにはソファやデスク、照明だけでなく、四つの椅子が囲む大きな円形のテーブルまで豪華に、やはり余裕と風格を伴い、配置されている。
果たしてここは、「クラウン・アソシアプラザホテル」の「インペリアルスイートルーム」と呼ばれる部屋である。
クラウン・アソシアは、「日向ホールディングス」系列のシティホテルだ。
そして遙希は、日向家でも本家の生まれの人間で、しかも誰在ろう、日向ホールディングスの筆頭後継者である。
とはいえ、遙希は二十歳そこそこ。真璃亜に至ってはまだ十八歳という若さだが、しかし昨夜は、そんな若輩のカップルには本来およそそぐわない、それは丁重過ぎるほどのホテルの対応ぶりだったのだ。
事実、最上階フレンチレストラン「プレンデトワール」でのフルコースディナーは、夜景を一望できるゴージャスな特別個室で日向と真璃亜の二人きり、随分落ち着いて食事と共に夜景も楽しんだ。
その折を見計らい、ホテルの総支配人と総料理長が、遙希に「ご挨拶」に伺ったくらいである。
その後、15階のバー「エストマーレ」でも二人は甘い時間を過ごした。
遙希の品格は高く、生活レベルの差はあるものの、「日向家」の存在を誇示したりなどは決してしない。
そんな遙希だからこそ真璃亜は、普段ごく自然体で遙希に接することができるのだが、昨夜は久々に、遙希が日向の家の生まれであることを、改めて思い知った。
ふと時計を見ると、まだ朝7時にもなっていない。
真璃亜は少し考えて、そして反対側の部屋へと入った。
そこは、バスルームと洗面室、トイレが独立したスペースで、その空間もまた贅沢なほど広かった。
バスタブも外国人規格なのだろう。158㎝に少し足りない真璃亜は勿論のこと、誰が全身を寝そべって入ろうともまだ十分に余りある大きさだ。
窓の外を見下ろすと、ミニカーのように見える車のテイルランプが流れている。
街は既に動き始めているようだ。
真璃亜は思い切ってインナーとナイティーを脱ぎ、きちんと畳んで洗面台の脇に置くと、とりあえず42度の熱いシャワーを浴びた。
シャワーの熱と刺激で、改めて目が醒めていく。
時間はあるだろう。ゆっくり顔と体と髪の毛を洗う。
そして、やや温度を下げて湯船を張り、一息をついた。
お湯は快適な温度で、躰も心も弛緩していく。
しかし、真璃亜は湯船の中で、裸身のその身を自分でそっと抱き締めた。
なんだか自分が自分ではない、心許ないような、そんな気がして……
日向に抱かれたことは真璃亜にとっては何よりも大きな出来事だったが、果たして日向にとってはどうなのか。
真璃亜が初めてというわけはないだろう。
日向がいつ大人になり、どんな女性を愛したのか。
でも、そんなこと何も聞けるはずがない。
真璃亜は急に不安になった。
自分が日向に愛されるだけの価値のある人間なのか。
日向との愛をこれからも育んでいけるのかどうか。
日向こそ真璃亜の愛に足り得る存在かどうかなど、真璃亜は考えもしない。
それは、裏を返せば、真璃亜の人間観が成熟している為、恋人や友人選びに失敗することがないことを意味している。
卑屈ではなく、しかし、自分に過度と言えるような自信は持たないということも、真璃亜の美点の一つだ。
こういう場合、ナーバスになるのは、やはり女性特有の性質というべきだろう。
でも、日向と肌を合わせたこと。
後悔だけは絶対しない──────
それだけは強く、確信していた。
日向を信じよう。
今はそれしか考えられない。
そう思える自分はやはり「幸せ」だと、真璃亜は思う。
真璃亜はようやくバスから上がると、ホテル仕様の白く、厚みのある大きなバスタオルで髪と体を丁寧に拭き、完備してあるボディーローションを体全体に伸ばして、再びインナーとナイティーを着た。そして、歯を磨き、アニメティグッズの化粧水でお肌を整え、クリームで潤いを与えて、髪を櫛で削る。
最後にドライヤーで髪を乾かせた。
そうだ。今のうちにメイク直しをしておこう。ポーチを入れたバッグは多分、ベッドルームのどこかにあるだろう。
そう思い、洗面室を出ようとドアを開けた瞬間、
「きゃっ!」
真璃亜は何かとぶつかった。
「……せ、先輩!? どうしてこんな場所に……?」
「朝からいきなりのご挨拶だね、真璃亜」
日向が、転びそうになった真璃亜を支えながら、そう言った。
「す、すみません……」
何故だかわからないけれども、真璃亜はとりあえず謝った。
そんな真璃亜を日向はじっと見つめている。
しかし次の瞬間。
日向は真璃亜をぎゅっと力一杯抱き締めたのだ。
「先に帰ったのかと思ったよ」
いつになく、日向は淋しげな声を出した。
「目が醒めて、隣にお前がいなくて。ベッドは冷たくて。一瞬、呆然として。……泣きたくなった」
「遙希、先輩」
日向は依然、真璃亜を強く抱き締めて離さない。
日向にもこんな弱気な一面があるとは、真璃亜は思いもかけなかった。
そう、自分はまだまだ日向のことを理解ってはいないのだと。真璃亜は痛感した。
けれど。
昨夜のことは、確実に日向の心にも変化をもたらしていた。
真璃亜にはどんな無防備な、弱く、恰好悪い面も見せられる。
無意識の内に日向は自覚しており、そのことを漠然と真璃亜も認識した瞬間だった。
「真璃亜は。いつも、いつでも遙希先輩の側にいます。……いさせて下さい。いつまでも」
真璃亜もまた本心から、そう口にしていた。
紛れもなく、それは身も心も固く結ばれた恋人たちの熱い抱擁だった。
そして。
日向は、ゆっくりと真璃亜に口づけた。
壁の姿見へと真璃亜を追い詰め、なし崩しに床へと崩れ落ちて行く。
肌に触れる「鏡」は、真璃亜の背に固く、肌に冷たい。
それに反比例するかのように、日向の躰と口唇は、熱っぽかった。
しかし、真璃亜が完全に床へと崩れ落ち、座り込んでしまうと、日向はゆっくり真璃亜の自由を解放した。
「悪い。歯止めがきかなくなりそうだ」
日向は横を向きながらも、真璃亜が立ち上がるのに手を貸している。
「遙希先輩……」
日向はやはり変わった。
いや、真璃亜を女にした男の日向を、真璃亜は初めて見るのだから、それは「第一印象」と表現しても差し支えないだろう。
「もう8時も過ぎている。朝食はルームサービスでいいか?」
何事もなかったかのように日向は、再び真璃亜の顔を覗いた。
「はい」
「お前、朝はいつも何を食べているんだ?」
「えと。クロワッサンやバタートーストにミルクをコップ一杯。たまにミルクをかけたシリアルかグラノーラだったり……。オレンジかグレープフルーツのフレッシュジュースに生野菜のサラダとか。和食を頂く時は、雑穀米をお茶碗一杯、それに具沢山のお味噌汁にだし巻き卵とか……そんな感じです」
「たったそれだけか?!」
「朝からはあまり入らないんです……」
「だからそんなに痩せっぽちなんだ。その細い腕でよく、あんなベートーヴェンやバッハが弾けるものだな」
日向は何故か怒ったような、呆れたようにそう言った。
そして、ベッドルームへと戻るとサイドテーブルの中から革張りのルームサービス・リストを取り出し、それを見ながら、内線でオーダーを告げた。
「何を突っ立っているんだ?」
ベッドへ寝転んだ日向は、もう一つのベッドの傍らに立ち尽くしている真璃亜にそう問いかけた。
「え……だって。そちらは、先輩のベッドです……」
勿論、真璃亜はそのベッドで日向に抱かれたのだが、だからこそ、真璃亜には益々恥ずかしさが募り、どうしていいのかわからずにいる。
「お前は。本当に世話が焼けるな」
日向はそう言った。
「きゃっ……!」
真璃亜はまた軽い悲鳴を上げた。
日向が真璃亜の片腕を引っ張り、自分のベッドへと引きずり込んだからだ。
「この方が自然というものだろう?」
日向は真璃亜を抱き締める。
真璃亜は益々どうしていいかわからなくなり、ただ身を固くするばかりだ。
「そんなに警戒してくれるなよ。また本気で襲いたくなるじゃないか」
「そんな……!」
真璃亜は真っ赤になった。
「Sing ich Ihnen wieder etwas "Traumelei", Frulein ?」
(また「トロイメライ」でも歌いましょうか?お嬢さん)
日向の流暢なドイツ語に真璃亜はすかさず反応した。
「え?! 歌って下さるんですか?」
「おいおい、本気にするのか。この場面で」
「え、歌って下さらないんですか……」
真璃亜が見るからにがっかりしたので、
「お前は。そういうところが、本当にお前らしいな」
と、日向は苦笑する。
「どういう意味ですか」
真璃亜が口唇を尖らせると、
「仕方がないな」
と日向は呟き、息を吸った。
Hans-chen klein geht al-lein in die wei-te welt hin-ein.
(小さなハンスちゃんは一人で広い世界へと旅立つ)
Stock und Hut steht ihm gut, ist gar wohl-ge-mut.
(杖と帽子はよく似合い、ハンスちゃんは全くご機嫌だ)
A-ber Mut-ter wei-net sehr, hat ja nun kein Hans-chen mehr.
(けれどお母さんはすごく泣いている
小さなハンスちゃんはもういない)
Hans-chen klein geht al-lein in die Welt hin-ein.
(小さなハンスちゃんは一人で世界へと旅立つ)
「可愛い……! 「ちょうちょ」ですね!」
真璃亜は無邪気に喜んでいる。
日向の今朝の「ハミング」には歌詞がついており、そのメロディーは、日本では「蝶々(ちょうちょう)」で知られる愛唱歌だった。
「俺が幼い頃、母がよく子守唄を歌ってくれてね。中でもこれが俺のお気に入りだったらしい。物心ついた時には原曲で覚えていた。長じて、ドイツ語の「Hanschen klein」(小さなハンスちゃん)だと知ったよ」
「それは……私も。同じです。私の場合、ドイツ人の父が歌ってくれました」
ぽつりと、真璃亜は呟いた。
「真璃亜。お前。……ハーフ、だったのか?」
「はい……」
日向と真璃亜のつきあいは、この春で丸三年を迎えるが、そんな話は日向にとっても初耳だった。
しかし、日向はようやく合点がいった。
真璃亜の神秘的なすみれ色の瞳も、日本人にしては堀りの深い極めて整った顔立ちも、そして、恐らくは「真璃亜」という名の由来も。
「しかし、真璃亜。お前は函館出身のピアニスト「小野響子」氏の娘であることは承知しているが、父上は。今は……?」
日向は用心深く、言葉を選んだ。
「父は……私の幼少時に亡くなりました」
真璃亜は落ち着いて答えたが、それ以上は何も語らない。日向も何も聞かずにいた。
何が原因で亡くなったのか。どういう経緯で真璃亜の両親が結ばれ、真璃亜が生まれたのか。真璃亜はどこで生まれ、どこで育ったのか。父親の職業は何だったのか。
他ならない真璃亜のことだ。知りたいことは色々ある。
しかし、真璃亜が自ら語る気になるまでは何も聞くまい。そう日向は思う。
日向と真璃亜の二人は、お互い十代の三年間をかけてようやく夕べ、結ばれたばかりなのだ。
何もかも性急に先走るべきではない。
何より、誰にでも進んで語りたくはないことの一つや二つあって当然だ。家族の内情などプライバシーに関することなら尚更だろう。
真璃亜にとってそれは、「トラウマ」になっているのではないのか……?
日向はその時、なんとなくそう感じた。
日向の直感が当たっているかどうかは別にして、それは今、触れるべきことではない。日向は悟る想いだった。
その時。
チリンチリン・・と、ドアベルが鳴った。
「朝食だな」
その場の空気を破るベルの音に一瞬、息を吐いた日向は、ベッドから離れ、ドアへと向かった。
「先輩! こんなに沢山食べられません」
ルームサービス係が部屋を辞してから、ベッドルームから出てきたナイティー姿の真璃亜は思わず、絶句した。
「当たり前だ。手抜きの「コンチネンタル」じゃない。俺と同じメニューでオーダーしたからな」
日向はそう言うと、円形のテーブルの一席に座った。
テーブルの上には、「アメリカンブレックファースト」スタイルの朝食が二人分、並べてある。
しかしそれは、日向の嗜好だけではなく、真璃亜の好みも加味されたメニューだった。
ジュースはフレッシュグレープフルーツ、カットフルーツを添えたプレーンヨーグルトにモーニングサラダ。卵料理は半熟のオムレツに、カリカリに焼いたベーコン3枚が添えてある。籐製の籠にはモーニングロールとして、マフィンにクロワッサンが二つづつ二人分、計八つ入っていて、好みでバターと、ジャムが三種類のせられる。それに大きなコップ一杯のミルクと、ポットサービスのカップ約三杯分のホット珈琲。
「冷めるぞ。真璃亜」
「は、はい……」
真璃亜はようやく、日向の隣の席に座った。
そうして真璃亜は、日向と共にする初めての朝食に手をつけた。
しかし、果たして15分経つか経たないかで、真璃亜は音を上げた。
「先輩……、とても美味しくて。勿体ないんですけど……。もう入りません」
真璃亜は、オムレツを食していたナイフとフォークをカチャリ、とプレートの上に置いた。
「完食したのは、ジュースとサラダとヨーグルトだけか。ミルクにオムレツは半分以上、ベーコンも2枚残しているし、クロワッサン一個にマフィン至っては手付かずじゃないか!」
「夕べ、あんなに極上のフレンチのフルコースを頂きましたから、これ以上はとても……。それに珈琲も頂きますし……」
「珈琲は、後でゆっくり飲んでもいいだろう? ミルクの残りを飲んで、ベーコンもあと最低一枚は食べること」
「はい……」
真璃亜はまるで親か教師に怒られた子供のようにシュンとして、とりあえずミルクのコップを手にした。
日向は実に根気強かった。
真璃亜がゆっくりと時間をかけて食する間、とうに食事を済ませた日向は、珈琲片手ながら、最後まで真璃亜につきあったのだ。
日向が朝食につきあってくれるという日常にはない安心感に加え、たっぷり時間をかけたおかげで、真璃亜は、ミルクを飲み干し、残りのオムレツにベーコン、マフィン二個もなんとか食べ切ることができたのだった。
しかし日向は、改めて真璃亜に「説教」を始めた。
「すぐに毎朝これだけ食べろとは言わないが、もう少し食も躰も太らせないとな。スタミナに欠けると、より良い演奏は望めないのはわかっているだろう? とりあえず今までの食事に、ボイルでもスクランブルでもポーチでも何でもいいから卵料理と、それにハムかベーコン、ソーセージを添えろ。発酵食品のヨーグルトも必須だし、和食の時は納豆に温奴がいい。それからのシリアル類やトーストだろ? 最初は残しても仕方ないとしてもだ。その程度の自炊なら、簡単にできる筈だが」
「問題ないですが……。お菓子作りの方がもっと得意です」
小さな声で真璃亜がそう付け加えると、
「年頃なんだ。当たり前だ」
と、日向はにべもなく切って捨てた。
真璃亜は益々、シュン…となる。
「国内デビューは果たしたんだ。演奏会活動で世界各地を回る日も近い。「食」で自分の健康を守るのは基本中の基本じゃないか。もっと自覚しろよ」
真璃亜は、松朋音楽学院高等部卒業を機に、満を持してついに先日、「千堂明」指揮で「NHK交響楽団」と共演し、華々しいデビューを飾った。
三年前の「松朋音楽学院内コンクール」で優勝した際に本来なら、千堂の意向でデビューできたのだが、しかし真璃亜本人が首を縦に振らなかった。
指揮者・千堂明お墨付きの「美少女天才ピアニスト」の肩書を前面に押し出すマスコミが、真璃亜の才能如何に関わらず、遥かに多かったからだ。
真璃亜は、同時に「コンクール」も好まなかった。
楽器を「奏でる」のではなく、「競う」ということが、どうしても性に合わないのだ。
だが、コンクールの入賞歴に頼らなくても、真璃亜のピアノの実力は揺るぎなかった。
例えれば、ロシアの天才ピアニストである、あの「エフゲニー・キーシン」の「神童」時代に匹敵すると言ってよい。
にもかかわらず、真璃亜はまだまだ「学びたい」という気持ちが強かった。
だから、デビューをしても尚、ウィーン音楽院やパリのエコール・ノルマル留学を希望しているのだ。
それは、真璃亜の関心がピアノソロに限らず、十八歳にして既に、室内楽、協奏曲、作曲、そして他の楽器にまでも多岐に渡っているからである。
だからこそ真璃亜は、在学中から絶え間なくオファーのあった演奏会活動は一切封印し、松朋での三年間の高校生活に専念した。
おかげで、真璃亜の音楽の才能は、益々ブラッシュアップされた。
そして、「院内コンクール優勝」がきっかけとなり、真璃亜は入学当時、イジメに遭っていたという事実が嘘のように、沢山の良き友人に恵まれた。
「表の顔」の日向ではないが、全校生徒から慕われて、申し分のない高校生活を送ることができたのだった。
それは、真璃亜にとって人生のかけがえのない財産であり、同時に、遠回りのようだが確実に音楽の幅を広げる副因にもなったのだ。
「さてと。もう一度、歯を磨いて」
日向は独りごちた。
「真璃亜、お前も。また洗面室を使うだろ?」
「は、はい。できれば」
「俺は気にしなくていい。ゆっくり準備すればいい」
「では……お先に」
真璃亜は立ち上がり、ベッドルームへ戻るとポーチを持って、再び洗面室へ向かった。
真璃亜は高校生だったので、まだほとんど本格的なメイクはしたことがない。
しかし昨夜は、ここ日向ホールディングス系列ホテル・最上階フレンチレストランでのフルコースディナーという、日向のフォーマルな招待だったのだ。
遙希に恥をかかせるわけには、決していかない。
それでよくよく考えた末、やはりファンデーションはまだ無理があるので、普段使いのお粉をいつもより念入りにはたき、チークを軽くのせた。一際色白の真璃亜にはそれでも充分、メイクしたてのような艶と色味が出る。
更に眉を整え、この日の為に買ったごく淡いピンクのルージュをひいて、髪型をアソシアホテルの美容室でアレンジしてもらった。
そして、演奏会観賞用のフォーマルで、それはピンクのシフォンの年相応に愛らしいワンピースに身を包み、その胸元にはハープをかたどった銀のブローチを飾って、上からプレーンなオフホワイトのスプリングトレンチを羽織った。
そして、東応大学入学式の為にと、母が贈ってくれたネイビーの小振りで歳よりも大人びたオーストリッチのハンドバッグに、磨き抜いた白の本革ハイヒールという、真璃亜にとっては最上級の姿でその席に臨んだ。
その真璃亜の気配りは果たして、幸い功を奏した。
生来、美しく品のある真璃亜は、その努力の甲斐あって、どこの令嬢にも劣らない美と気品を醸し出した。
何より日向が、そんな真璃亜の気遣いとその成果に、いたく満足した。
衆目を集めながら、堂々と日向は真璃亜をエスコートすることができたし、真璃亜自身も日頃から関心の高い食事のマナーも含めて、恥をかくことは全くなかったのである。
ポーチの中に今、メイク道具は、小さなコンパクトパウダーとルージュしか入っていない。
チークは仕方ないが最初から薄付きに仕上げていたし、眉もディナーの前日に専門店でカットしてもらったばかりだ。ルージュとパウダーだけは持ってきていて、本当に良かった……と真璃亜は思う。
しかし、シャワーを浴びてしまっているし、それ以前に寝乱れていたので髪型は元通りには戻せない。
その事実にも真璃亜は、予想以上の羞恥心を覚えたが、その代わりに念入りに髪を梳いた。
元々、ストレートの髪質だ。ドライヤーで乾かしてあるので、いつもの普段の真璃亜の髪型に戻っただけだ。
そう、真璃亜は自分に言い聞かせる。
しかし。
ワンピースはどうなったんだろう……。
思い返してみて、つくづく、昨夜「エストマーレ」のバーで、白いカクテル「パール・ピアス」を飲んだ後の記憶がない。
日向は、マリアが軽く吐いたので、ワンピースをクリーニングに出したが、今朝には仕上がっていると言った。
今、真璃亜はまだ、インナーの上にナイティーを身につけているだけだ。
昨夜、裸身を晒したとはいえ、真璃亜にはその姿だけでも火が出るほど恥ずかしい。
思い切って、日向に催促してみよう……。
真璃亜はそう決意し、洗面室を出た。
「あのう……先輩」
真璃亜は、部屋のドアのところに佇んだまま、遠くに日向に声をかけた。
日向は、ベッドに寝転び、FMを聴いていた。
「なんだ? 今度はそんなところに突っ立って」
真璃亜ははっきりと気づいたが、日向は笑いを噛み殺している。
「私のワンピースは……」
「そのうちクローク係が届けてくれるさ」
「え? まだ仕上がってないんですか?」
「Nein!」
またしても日向はドイツ語で、否定の疑問文の否定ということは……。
「どうしよう……」
ワンピースはまだ仕上がってないらしい。
「本当に仕方のないお姫様だな」
日向は立ち上がり、真璃亜に近づいてきた。
「え?! きゃっ……!!」
日向が真璃亜を「お姫様だっこ」して、あっという間にベッドへ運んだのだ!
日向が真璃亜をそのキングサイズのベッドへと横たえた。
真璃亜は起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。
日向が真璃亜をそのまま押し倒したからだ。
「せ、せん、ぱい……?」
「だから、そんなに怯えてくれるなよ」
「で、でも……」
「俺の性格は知っているだろう?」
益々イジメたくなるんだよ……そう呟いて日向は、真璃亜に口づけた。
最初はソフトだったが、徐々にそれはエスカレートしていく。
その時。
真璃亜は初めて、日向の顎にうっすらとだが、髭が生えていることに気がついた。
それは真璃亜にとって驚きであり、一種のカルチャーショックでもあった。
日向が男であったということを、今更ながら実感し、同時に、男というものは女とは異なる生き物なのだと。
抱かれながら、真璃亜の意識は段々遠くなる。
────────・・・
「あ……」
「どうした?」
真璃亜は、その時、初めて声にしていた。
「この曲……」
真璃亜はその時、枕元から流れるFMに反応したのだ。
「ベトの「皇帝」だな」
それは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」だった。
「これは……多分、ポリーニでウィーン・フィルの、あのライブ盤……」
「そうだな。言われてみれば」
真璃亜の言葉で、日向も初めて気づいた。
「去年の十一月を思い出しますね」
「ああ。二人でこれを「松朋記念堂」に聴きにいったな」
「あのチケットは、遙希先輩でなければ絶対に取れませんでした……本当に有難うございました」
「こういう時だけは、「日向」の家の生まれで良かったと俺も思うよ」
それは、昨秋の、ソリストにピアニスト「マウリツィオ・ポリーニ」を迎えた「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」の来日公演のことを指している。
ボックス席は二人で約八万円という破格のチケットだが、そういうプラチナチケットは値段的なことだけではなく、何らかのコネがなければ入手は不可能だ。
「お前も、デビューによくこの曲を選択したものだな」
それは日向の率直な感慨だった。
真璃亜はまだ少女なのでデビューに際しても、ショパンやモーツァルト、ドビュッシーあたりが望まれるきらいがあった。
そして、女だてらにしかも小さな体でと、真璃亜がベートーヴェンを選曲するには、真璃亜のピアノをまだ聴いたことのない者には懐疑的な見方も多かった。
しかし、初等部入学時にはもうベートーヴェンの全曲ソナタに取り組み、そして中等に上がる頃には真璃亜は、ラヴェルと共にべートーヴェンをライフワークにすることを既に心に決めていた。
芸術肌にありがちの気難しさこそ無縁だが、殊、ピアノに関しては、真璃亜は妥協を一切許さなかったのだ。
「……思わぬ邪魔が入ったな。ここなら誰にも邪魔はされないと思っていたのに」
日向は憮然と呟いた。
真璃亜はすっかりポリーニのライブ盤「皇帝」に意識を奪われている。
日向がアラームを見ると、もう後暫くで午前十一時という時間だ。
日向は、やれやれとベッドを離れ、洗面室へ赴いた。
「先輩……」
日向が洗面室から出てくると、真璃亜が再び不安そうな顔をして、日向に訴えた。
「私の……ワンピース。まだ、なんでしょうか」
「ああ、それか」
日向はクローゼットに近寄ると、自分のスーツとタイと共に、真璃亜のワンピースを取り出した。
「え? どうしてそこに……?」
入浴後に確かに日向は「そのうち係が届けてくれる」と言ったではないか。
だから、クローゼットは真璃亜の盲点になっていたのだ。
ところが。
「お前が入浴中に、係が持ってきたのさ」
そう事も無げに日向は言った。
「そ、そんな。ひどい! 先輩!」
真璃亜は怒りを露わにしたつもりだが日向は
「着替えないのか?」
と、悪びれもせず問うてきた。
「い、いえ。着替えます。今すぐに」
真璃亜は日向からワンピースを取り返すと
「……先輩。暫く向こうを向いていて下さい」
真璃亜はまた紅くなりながら、日向に言った。
「今更か?」
「そうです! 今更でもです!」
今度こそ真璃亜は本気で怒り出しそうだったので、日向はやはり笑いを噛み殺しながら、真璃亜に背を向けた。
「真璃亜。忘れ物はないか?」
「はい、先輩」
チェックアウトまでギリギリと言って良い時間だった。日向はそんな短い会話を真璃亜と交わしたが、ベッドルームを出ようとして、真璃亜がじっと佇ずみ、部屋を振り返っていることに気がついた。
「どうかしたのか?」
「い、いえ……何でも……」
「何でもないという顔じゃないな」
日向は鋭い。
「ここ、で……私……」
小さく呟きながら、そこで真璃亜は言葉に詰まった。
何が言いたいのか察した日向は、何も言わずに、そっと背後から真璃亜を抱き締めた。
「もう一泊するか?」
「い、いえ」
真璃亜はやはり真っ赤になりながら、首を横に振る。
「真璃亜」
しかしそう囁くと、
「せ、せん、ぱい……」
日向はそのまま真璃亜を壁際へと追い詰め、口づける。
日向はもはや躊躇しなかった。
真璃亜は半ば強引に押し倒されかけている。
日向の手が口唇が、真璃亜の丸みを帯びた滑らかなラインを辿る。
真璃亜はまた意識が遠くなりかけていたが、しかし、日向のその淀みのない一連の行為に、その時、
「……嫌!」
思いがけない強硬さで日向をはっきりと拒んでいた。
「真璃亜……?」
その真璃亜の強い拒絶に、日向が訝る。
真璃亜の中で燻ぶり続けていた或ることが、とうとう真璃亜の本能に訴えかけた、正にその瞬間だった。
やはり。
真璃亜には日向の「女性」が気になって仕方なかったのだ。
そして。
自分はこうして、子供じみた反応しかできない。
見知らぬ、存在するかどうかもわからない女性の影に嫉妬して、誰より愛する男性を拒むなんて……。
そもそも、そういう「コドモ」の自分こそが真璃亜には大きなコンプレックスだ。
日向とのたった二歳の歳の差が、真璃亜にはとてつもなく大きな隔たりのような気がしてならない。
何より日向は歳よりも遙かに成熟していて、しかも今二十歳と成人している日向は、真璃亜にとっては完全に「大人の男の人」だった。
どうしていいかわからない……
日向の「歌」に縋るにしても、三度目の正直だ。
もうねだるわけにもいかないし、第一、そうやって慰められること自体、限界まで来ている。
「ここまできて、初めての朝を台無しにはしたくないだろう。何をこだわっているんだ? 真璃亜」
まるで、真璃亜の心を読んだかのような日向の言葉に、真璃亜の瞳には涙が溢れてくる。
「……だって。ずるい……! 遙希先輩だけ、世界が広くて、何でもよくご存じなのに……私は。どうしていいのかもわからずにいるのに」
真璃亜は日向の腕から逃れようとしたが、それは当然日向が許さなかった。
「真璃亜」
日向が優しく真璃亜を抱き締める。
「俺は。勿論、全く女を知らないわけじゃない。それなりにいろいろあるさ」
日向は真摯に真璃亜を見つめていた。
「けれど真実。今、愛しているのは、お前だけだ」
「先輩……」
真璃亜は躰の力が一気に抜けた。
そして、思い切って日向の胸に飛び込んだ。
「安心したか?」
落ち着いた声で、日向は真璃亜を抱き締める。
応える代わりに真璃亜は、日向の胸の中で深く頷いた。
暫し、無言のまま二人は抱き締めあっていた。
しかし。
真璃亜がようやく顔を上げ、じっと日向の瞳を見つめている。
そして、覚悟を決めるように固く瞳を閉じると、初めて、恐る恐る日向の口唇に、真璃亜のマシュマロのように柔らかく温かな口唇を、一瞬そっと、寄せたのだ。
真璃亜は何もわからないながらも、ただ日向に全ての信頼と愛情を委ねていた。そしてのみならず、真璃亜自身が自ら行動し、それはほんのごく些細な一歩だが「大人の女性」に近づこうと決意した真璃亜の、正にその瞬間だった。
間違いなく、生まれてから一番幸福な一夜であった。
そして、目映いばかりの今朝を迎えている。
初めての夜
初めての朝
初めての……自ら交わした口づけ
それは贅沢過ぎるシチュエーションで、真璃亜にはまさしく宝石のように輝いている。
そして……。
その約一時間後、真璃亜の耳には、紛うことなき本物の宝石。
「真珠のピアス」が揺れて煌めくことを、勿論、未だ真璃亜は知る由もない──────