波瑠の夢
プロローグ
昨日に引き続き、東京は今日もすっきりしない空模様でした。まるでわたしの心を表すような薄暗い空です。信じ難いことに、もうあれから一ヶ月が経ちます。わたしから何もかもを奪い去ったあの日から。
母の実家での暮らしにはいまだに慣れません。うまく表現できませんが、まるで招かれてもいない催し物に参加しているような居心地の悪さを感じます。わたしはいまだに現実感を取り戻すことができないままに、ふわふわとした日々が過ぎていきます。いったい今までわたしはどのように生きてきたのか、さっぱり分かりません。それでも文章を書くことで、なんとか正気を保てている気がします。この日記を開いてボールペンを走らせることで、わたしは辛うじてこの世界とのつながりを維持することができています。
来週から父の親戚の住む島へ引っ越します。波瑠島という場所です。日本地図で調べてみましたが、南西にぽつんと浮かぶ予想以上に小さな島です。
島というのは不思議です。ある日、ふっと誰も気づかないまま地図上から消えてしまいそうな儚さを感じます。小さな島ですが高校はあるそうで、九月から転入することになりました。母からは、このまま東京に住むという選択肢も与えてもらったのですが、わたしは自分の意志で遠い地での生活を選びました。いくつかの理由を挙げることも出来るのですが、とにかくわたしは一度ここを離れたほうがいい気がしたのです。わたしはなにも清算せぬままに、生まれ育ったこの地を去ろうとしています。どう生きるべきかわからぬままに、故郷を去らざるを得ないのは辛いことです。ですが、このままここにいるのも辛いのです。これからは見知らぬ地で見知らぬ人々に囲まれ生きていくことになります。毎朝、見慣れぬ天井がわたしを迎えることになります。
あれから毎日お祈りをしています。祈ることしかできない自分の無力を恥じています。もう以前の自分に戻ることはできません。わたしは罪を犯しました。法律や他人ではなく、わたしがわたしを裁いたのです。罪の償い方を誰も教えてはくれません。自分でどうにかするしかないのです。わたしが生きている限り、わたしの責任というものがあります。右頬に刻まれた傷を抱きしめながら、遠い地で答えを探そうと思います。
永遠の愛を二人に、どうか安らかな眠りを。
八月十九日
1
遠くで誰かの声がする。真っ暗な空間の一点に淡い光が集中している。声は徐々に近づいてくるようだ。ぼくは声の主を知っている。知っているはずだと自分の直観が告げている。すると、局所的だった光が瞬く間に広大な空間に広がり、全方位から声が響いてきた。
「孝介……孝介」
確かに自分の名前が呼ばれた。ぼくはこの声を知っているのに、誰だかわからない。正確にはわかってはいるはずなのだが、意識することができない。心の奥で小さな苛立ちが芽生え始める。
「孝介、すまんかった」
その瞬間、電光石火で脳が理解した。
父さんだ。
「父さん、どうかしたと?」
ぼくは姿の見えない父に向かって問いかけた。
「孝介、お前には不思議な力があるとぞ」
「どんな力?」
「魂の残り香に触れる力たい」
言葉の意味がさっぱりわからなかった。魂? ノコリガ? いったいどういうことだろう。
「父さん、どこにおると? 声しか聞こえんよ」
「父さんの身体はもうどこにも存在せんとよ。いいか孝介、父さんは死んでしまったったい」
そんなはずはない。昨夜も、来週イカ釣りに行く約束をしたばかりだ。
「ぼくは死んだ人と喋りよると?」
「そう。それがお前の特別な力。この島の意思が与えたもの」
父さんが死んだ。そしてぼくはいま、死んだ父さんと話している。幾何学模様が回転する奇妙な空間は、時折ぼくと父さんが共に写る思い出の風景に変容する。ぼくは自然と込み上げてくる涙をこらえながら尋ねた。
「父さんはなんで死んだと? 痛かった?」
「交通事故やった。見通しの悪か曲がり角でな、いつも注意しとったつもりやったけど避けきれんでトラックに突っ込んでしまった。幸い即死やったけん痛みは感じらんやったけどな」
父は自分の口から自分が死んだ事故を語った。その時、ぼくは不思議な感覚に陥った。テレビゲームをしている自分、アニメ番組を見ている自分、そして夢を見ている自分。そうだ、これは夢の中だ。きっとそうに違いない。父さんの言うこともよくわからないし、そもそも父さんが死ぬはずがない。人間はそう簡単に死ぬことはないんだ。
「父さん! これ夢の中やん。やけんめちゃくちゃたい」
「その通り。ここは夢の中。でもよかね孝介、目が覚めても父さんは死んどる。父さんの事故は現実のこと。父さんは孝介たちに最後のお別れば伝えにきたとさ」
ぼくは父さんの言うことを理解することはできた。しかし、目が覚めればいつもの朝がやってくるはずだと思っていた。
「孝介はまだ六歳やもんな。成長して大人になった姿ば見たかったけど、それは母さんに任せることにするけんね。孝介の思ったように生きてよかとぞ。でも出来るだけ母さんや人様に迷惑はかけんようにな。ずっと見守っとるぞ」
「うん、わかったよ! ちゃんと母さんにも優しくするよ」
もはやぼくはほとんど話を合わせるように受け答えしていた。一刻も早く、この奇妙な夢から覚めたい気持ちが強くなっていた。
「父さんは母さんと孝介っていう家族が出来て、とても幸せ者やったよ。死に方はちょっとかっこ悪かったけどな。不思議と何の後悔もなかよ。しいて言えば、家族三人でもっと旅行にでも行きたかったな。でも本当に満ち足りた人生やったぞ」
夢だと分かっていても、父さんの言葉は孝介の敏感な胸に強く響いた。
「それと母さんに伝えてほしいことがある」
「なに?」
「三つ頼むぞ。まず、なんかあったら遠慮せずうちの両親ば頼れ。次に、二階の押し入れから屋根裏に出て、そこにあるものは全部使ってよか。最後に、俺のことが落ち着いたらゆり子の好きに生きれ。死んだ人間に縛られたらつまらんぞ。孝介のこと、しっかり頼むぞ」
父さんが語り終わると、眩い光が一点に収斂し始めた。すると再び空間は闇に包まれ、ある一点だけが煌々ときらめく状態へと戻った。
「孝介、この力をどう使うかはお前次第ぞ。いまはまだ戸惑うやろうけど、時間をかけて考えてみろ。これからたくさん不思議な夢ば見るようになる。死者の言葉を届けるかどうか、孝介が決めろ」
妙に迫力のある父の声色に、ぼくは少し気圧されていた。
「うん、わかったよ。ちゃんと考えてみる」
「ごめんな。ゆり子と孝介が幸せであるように、いつまでも祈っとるけんな」
父がそう言い終えると、空間を彩る光が消滅して完全な闇となった。
2
目覚まし時計の陽気なアラームが午前八時を告げる。孝介は慣れた手つきでアラームを止め、上半身を起こした。十二月の朝、少し肌寒い室内は静まり返っている。ずいぶん奇妙な夢だった。孝介はしばらくの間、虚空を見つめていた。現実で体験したかのように、夢の中の空間や言葉が脳裏に焼き付いていた。孝介は父の言葉を反芻した。そしてベッドから飛び出し、父から託された伝言を学習机に無造作に置かれたノートに書きつけた。二階の寝室を出て木目の階段を降りる孝介に気付いたゆり子は足早に駆け寄ってきた。孝介は強すぎるくらいに母から両腕をつかまれ、反射的に後ずさってしまった。
「孝介、よう聞いて」
「うん、どがんしたと?」
「父さんが昨日事故に遭ったと。もうひどか事故でね……病院に運ばれたけど助からんかったって……」
ゆり子はこらえきれず、嗚咽を漏らしながら震える声で懸命に話し続けた。
「孝介、落ち着いてね。大丈夫やけんね、お母さんがおる。大丈夫大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるように、孝介の小さな身体を抱きながら言った。孝介は不思議と泣かなかったが、ゆり子の目から流れ落ちた涙で孝介のパジャマは湿っていた。
人が死ぬと大人たちは多忙になる。孝介は目まぐるしく玄関を出入りする人々を見て思っていた。一戸建ての我が家が突如自分の家でなくなったかのような感覚を覚えた。孝ちゃん大きなったね、と笑顔で話しかけてくる人たちをこちらも満面の笑みで返し、相手の気遣いを最小限に抑え続けた。
通夜と葬儀を終えて、はじめて孝介は父の死を実感した。日常から父の声が消えたこと、いつも座っている場所にいないこと、玄関の靴もずいぶん少なくなったように感じ、孝介は我が家の空間が拡張されたような錯覚に陥った。毎夜、小さな声ですすり泣く母の姿を目にする度に孝介も隠れて泣いた。父はもうどこにもいないのだ。もう話すことも褒められることも怒られることもできない。そう思うと涙は絶え間なくこぼれた。
数日後、唐突に孝介は忘れかけていた父の伝言のことを思い出した。あの夢からもう何日も経つというのに、いまだに鮮明に内容を記憶していた。夢というものは起床時には覚えていても日中に忘れてしまうか、数日も経つと記憶の彼方へ消え去ってしまうものだったので、やはりあの夢は特別なのだという思いが強くなっていた。
孝介は二階の自室に駆け込み、メモ書きしたノートを開いた。ひらがなだらけのその文章は、父から母への伝言を漏らすことなく書き記していた。伝言の意味にわかるものもあればわからないものもある。孝介は素直に母に伝えるべきかしばらく逡巡した。決断は思いのほか早く、勢い良く階段を駆け下りると、ソファにもたれて昼食後のコーヒーを口に運ぶゆり子の隣に腰を下ろした。
「どうかしたと?」
ゆり子は、なにやらノートを片手にやってきた息子に関心を寄せた。
「この間、父さんが夢に出てきたよ」
「この間っていつね?」
「父さんが死んだ日」
ゆり子はお気に入りである漆塗りのコーヒーカップを置くと、孝介の頭を優しく撫でた。
「夢の中で父さんと話した?」
「うん、自分が死んだことも分かっとったし、母さんへの伝言もあったよ」
「ふふ、不思議な夢ば見たとね。伝言……なんて言っとったか覚えとる?」
「うん。起きてからちゃんとノートに書いたけん。はい、これ」
孝介はノートの当該ページを開いてゆり子に差し出した。ゆり子は読みにくそうにしながらも真剣に文字を追った。どうやらすべて読み終えた様子だったが、しばらく黙りこんでしまった。ゆり子の目頭には涙が滲み、いまにも零れ落ちそうだった。そして音程の安定しない声でつぶやいた。
「好きに生きろなんて、死んだ人は気楽でよかね……」
ゆり子は胸ポケットから取り出した白いハンカチで顔を覆うと、頭だけを仰向けに倒した。ゆり子の表情は分からなかったが、それでも涙は流れ落ち頬から耳にかけて綺麗な通り道をつくった。
「でもこの屋根裏ってなんのことかね。確かに押入れから通じとるはずけど、何も置いとらんと思うとばってん。孝介、ちょっと見に行ってみようか」
ゆり子は、すべては孝介が見た夢の内容であることを忘れたかのように、伝言を素直に受け止めていた。二人は立ち上がってゆっくりと階段を上がり、突き当たりにある部屋に入った。部屋の奥にある大きな押し入れには、父の趣味だったギターやバイオリン、それらの関連機器が無造作に積まれていた。ゆり子が開き戸に両手をかけ、勢い良く引くと鈍重な音と共に扉が開いた。昼間とはいえ、押し入れの奥まで光は届かない。こういう時のためにすぐ横にある棚の中に懐中電灯を完備してあった。ゆり子は懐中電灯を手にしてスイッチを入れると、数カ月ぶりに押し入れの内部が照らされた。
「孝介、気いつけて」
「うん」
ゆり子から懐中電灯を受け取り、身体の小さな孝介が先陣を切って中へと侵入した。屋根裏への入り口までさほどの距離はなく、孝介もかつて屋根裏に登った経験があったため、目標地点は把握していた。ギターシールドやエフェクターが散乱する中、なんとか足の踏み場を確保しながら孝介は屋根裏への入り口へ辿り着いた。
「孝介が見てくれんね。母さんここにおるけん、なんかあったら言って」
ゆり子はあまり足を踏み入れたくないという風で、押し入れの入り口付近から孝介を見ていた。本当に屋根裏になにかがあるとはちっとも考えていないようだった。
孝介は正方形の扉を上に押し込むと、上半身だけをひょいと屋根裏へ乗り出した。思いのほか広い空間をひと通り見渡し、孝介の両目はある一点に焦点を当てた。その先には、ダンボール箱がひとつと小さなビニール袋があった。
「母さーん、なんかあるよー?」
「うそ! なんやろかね……持ち出せるー?」
孝介は言われる前に自力で持ちだそうと、屋根裏に完全に足を踏み入れた。屋根裏の天井は孝介の身長より少し高い程度で、孝介は立ち上がって移動することができた。埃が足裏に吸い付く感覚が気持ち悪かったが、孝介は目的物に向かって一直線に歩いた。ガムテープで密封されたダンボール箱が一つ、その横にある小さなビニール袋にはキラキラと懐中電灯の光を反射するものがたくさん入っていた。ダンボール箱は重かったので、まずは小さな袋をいつの間にか屋根裏の入り口まで来ていたゆり子に渡した。続いてダンボール箱をどうにかしようと奮闘している最中、ゆり子の上ずった声が聞こえてきた。
「わあ! これ宝石よ宝石! あ! これダイヤじゃなかと!? なんでこがんなものが屋根裏に……もしかして父さん、お金ば宝石に変えて隠しとったとかもねえ」
宝石、という単語が聞こえたが、孝介は無視してダンボール箱を入り口付近まで押しやった。後は下にいるゆり子に受け止めてもらうしかない。
「母さーん、ちょっと重いけどダンボール運んでよー」
「はーい、いま行くよ」
久しぶりに上機嫌な母の声を聞けて、孝介は素直に嬉しかった。ゆり子が屋根裏へ顔を覗かせると、孝介はダンボール箱を半分ほど突き出した。決して身長は高くはないゆり子だが肉付きはよく、瞬発的な力は強そうだと孝介は常々感じていた。
ゆり子が慎重にダンボール箱を運び出すと、屋根裏はもぬけの殻になった。そして二人で協力して一階へ運んだ。さすがに二人とも疲れてしまい、中身を確認する前に孝介はオレンジジュースを、母はコーヒーを用意した。ソファにもたれた母は、ダイヤモンドやエメラルドなどの高価な宝石の詰まった袋を眺めて、なにやら考え事をしている様子だった。
「ダンボール開けていい?」
中身が気になって仕方がない孝介は、母の返事を待たずにガムテープに爪を引っ掛けた。人差し指の爪を何度か引っ掛けると容易に剥がれたので、勢い良く引っ張った。封を切られたダンボール箱の中には、金色に輝く長方形の物体がいくつも重なっていた。表面になにやら文字が刻まれているが、孝介には意味がわからなかった。その中のひとつを取り出してみて、予想外の重さに驚いた。孝介は仕方なく両手で箱から取り出し、ゆり子に見えるように掲げて見せた。
「こがんとがたくさん入っとるよ。これなん?」
紛れもない金地金を生まれて初めてゆり子は目にした。宝石に金地金、父は妻に内緒で実物資産を保有していたのだ。確かに父は郵便局員の仕事の傍らで、家ではパソコンに向かい株や為替などの投資をおこなっていた。資産運用に疎くたいして興味もなかったゆり子は、夫がなにやらパソコンで作業している姿を目にしつつも、深く追求することはなかった。そしておそらくは相当な儲けが出ていたのだろう。堅実な父らしく、リスク分散として資産の一部を金や宝石に変えて保管していたのだろう。ゆり子はダンボール箱の中に目をやると、少なくとも十数個の金地金が積まれていることが分かり心底驚いた。ひとつあたりの価値がどれほどのものなのか、ゆり子には想像もつかなかったが、相当な額になることくらいはわかった。ゆり子は生前の父の姿を思い描き、目頭が熱くなった。父は普段、あまり笑顔を見せる人ではなかったが、思い浮かべた父の姿は笑っていた。
「孝介、これは父さんが残してくれた財産たい。家が困らんように助けてくれたとよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ夢に出てきてくれてよかったね」
”夢”という言葉に反応したゆり子は、この一連の奇妙な出来事について考え始めた。
「夢の中で父さんからなんて言われたか覚えとる?」
「覚えとるよ。お前が死んだ人と話せるのは島が与えた特別な力だって言っとった」
母は訝しげな表情を浮かべながら、残ったコーヒーを飲み干した。
「不思議なこともあるとねえ。また変わった夢ば見たらすぐ教えること。約束ね」
「わかった」
孝介はその後も死者の夢を見続けた。そして、そのたびにゆり子に報告した。報告を受けるたびにゆり子の不安は大きくなっていった。孝介の夢に出てきた人は、波瑠島でその日に実際に亡くなった人だったからだ。このことに初めて気付いたとき、母は戦慄した。死者が自分の息子の夢に現れて伝言を残していく。孝介は、死者からの伝言を忘れないように毎回ノートに書き残していた。実は書き残さなくても何故か内容を忘れることはなかったのだが、父の夢以来、ノートへのメモは習慣となっていた。その内容は残された家族へのものであったり、自分だけの秘密であったり、この世への恨みのようなものもあった。孝介は伝言を伝えたがっていたが、ゆり子はそれを許さなかった。
孝介が十歳になる頃、ゆり子は決心した。ある夏の夜、夕食を終えた二人はソファに座ってクイズ番組を見ていた。すると、ゆり子が唐突に切り出した。
「孝介、もう亡くなった人の夢は無視してよかよ。あんたいつもちゃんと話ば聞こうとしよるやろ? もう聞かんでよかけんノートに書くのもやめなさい」
「なんで? 死んだ人の伝言ば伝えんでよかと? 父さんは特別な力って言いよったよ。ほんとは全部伝えて回らんばじゃないと?」
「もうよかと! 夢の中に出てきて喋ったって誰が信じるとよ? そがんな変なことせんでよかけんもう変な夢見ても気にせんで。もう母さんにも話さんでよかけん」
「わかった……」
母の強い口調に気圧された孝介は、煮え切らない思いを抱えつつも渋々了承した。
その後、これまでの伝言を書き記したノートをゆり子に渡した。孝介の心には小さな棘が刺さっているかのような気持ち悪さが拭えなかった。しかし、時の流れが棘を洗い落とし、孝介は例の夢を見ても特段気にすることもなくなり、淡々と日常を過ごした。そして島の大多数の子どもと同じように、中高一貫教育を実践する島唯一の中学校へ入学し、特段目立つこともなく周囲に流されるように高校へと進学した。いまでも夢は見続けていたが、孝介自身も夢の中での死者との邂逅にうんざりするようになっていた。それと同時に、死はあらゆる人に突然訪れ、伝えたいことも伝えられなくなってしまう残酷なものなのだと理解するようになった。そして、それはとてつもないこの世の悲劇だと考えていた。
3
夏休み最終日というのは、学生にとって最も憂うつな一日かもしれない。この日の波瑠島の最高気温は三十五度。連日の猛暑日に参っているのは人間だけでないだろう。海辺に屯する野良猫や懸命に鳴き続ける蝉たちも、このヌメヌメとした暑さに辟易しているようだった。
高校二年生になった鳴海孝介は、野球部で培った体力のほとんどを消耗し尽くし、遊び疲れた身体に鞭を打ちながら机に向かっていた。無論おおかたの学生が直面する夏休みの課題という、本人の意志の強さを試される試練に立ち向かっている最中だった。現代文、数学、英語、物理……孝介は目の前に積み重なった課題の量と残された時間とを冷静に比較検討してみる。結果、およそ五時間で一科目こなせば間に合うとの結論が出た。とはいえ一科目あたり夏休み四十日分の量である。つまり孝介は四科目四十日分、つまり百六十日分の課題を、登校時間である八時半までにやり遂げなければいけない。残酷なことに残された時間は二十二時間半しかない。
絶体絶命四面楚歌孤立無援五里霧中因果応報。
四字熟語とは、人になにかを諦めさせるために存在するものなのか。孝介は椅子から立ち上がり、突如として正拳突きをはじめた。空手のかの字も知らない孝介だったが、とにかく目の前に積み重なる課題プリントから意識を離したかった。元来、机でじっと勉強するということが少しもできない残念な男であった。
「どう考えても無理。絶対に無理。無理なものは無理。むしろ一日で片付けるほうが課題に失礼。たいへん残念だが、やむを得ない。そういうわけだ、またの機会に会おう課題諸君」
午前十一時、早々に学生の義務を放棄した孝介はキャッチボールをやりに外へ出た。鳴海家は海から数十メートルの場所に立つ一軒家で、二階の出窓からは頻繁に出入りする漁船やロープで繋がれた個人所有のボートが見える。夕方に巻き網漁に出た船団が夜に戻ってくると、なにか問題が発生したことがわかる。近くの防波堤までの道のりには、手編みの漁網や輸送コンテナ、空のドラム缶が乱雑に置かれた空間が広がっている。いつ使うのか、あるいはもう使われないのかさえ分からない様々な漁具でごった返したこの場所は、小学生の孝介たちにとっては絶好の遊び場だった。当時の遊び仲間たちは、それぞれが各所から様々なものを盗んできては、山中にこしらえた秘密基地の充実を計っていた。漁船の船員室に忍び込み、大人向け雑誌なんかを見つけてきた奴はたちまちヒーローになれた。雨で湿りきったページがうまく開けないことで、いったいどれほどの純粋な子どもたちが苛立っただろうか。あの時代の子どもたちは、濡れたエロ本から性とはなにかを学んだと言っても過言でない。学校では教えてはくれない類の世界だった。しかも盗んだものだから授業料はゼロだ。性教育における究極の経済効率性を、子どもたち自らが発見し実践していたという事実はたいへんな功績ではなかっただろうか。と……さすがに孝介もそこまで考えてはいなかったが、エロ本なくして我が幼少期なし程度に控えめに留めておこう。
そんなかつての宝山を横目に百メートルほど歩くと、いつもの防波堤へ到着した。灼熱の陽射しとアスファルトからの反射熱で、身体が焦がされてしまいそうだったが、日々の練習で真っ黒に日焼けした身体は暑さへの耐性を備えつつあった。コンクリート造りの傾斜堤に野球ボールをぶつけると、放物線状に跳ね返ってくる。投げる強さや角度を調節することで、ただの壁がキャッチボールの相手になったり、ノックを受けているかのようにも出来る。孝介が小学生の頃、このことに気がついて以来、この壁を使った練習に夢中になった。
まず、肩慣らしとしてストラックアウトを行う。数年前に石を使って壁に掘った大小様々な円にめがけてボールを投げこむ。いちばん大きい円で直径二メートル程、いちばん小さい円はボール二つ分だ。ひとつの円につき十球入ればクリア。判定結果は当然目視である。いちばん大きな円からはじめて徐々に小さな円へ的を移す。最後の円はさすがに難しく、いまだに命中率二十%といったところだ。この日は調子がよく、三十一球で最後の円を攻略した。
一息つくため持参したスポーツ飲料に口をつけると、視界の隅に何かが映った。ふと防波堤の先に目をやると人の姿があった。この場所に人がいることは全く珍しいことではなく、むしろ絶好の釣りポイントとして子どもから老人までがやってくるような場所だった。しかしいま向こうに見えている人は、一目見たところ釣り道具を持っているわけでもなかった。コンクリートの地面に座り、海に向かって両足を投げ出している。髪の長さや横顔からするに、おそらく女性だった。しかもずいぶん若く見える。観光者だろうか? しかしすでに夏休み最終日だ。孝介は壁当て練習を続けようと何度か壁に向かってボールを投げたが、どうしても気になって仕方がなかった。
その時、孝介の頭をある不安が襲った。まさかあの人、飛び込むつもりじゃ……。一度そういう考えが頭を過ると、もう動かざるを得なかった。人見知りというわけではないが、自らすすんで人に話しかけるタイプでもない孝介だったが、事情が事情だけにボールとグローブをその場に置いて、駆け足で女性のもとへ向かった。防波堤の先にある赤い小さな灯台の真下に女性は座っていた。約二十メートル先からこちらに向かって走ってくる孝介の姿に、さすがに気付いた様子だった。女性は近づいてきた孝介の姿を一瞥しただけで、再び海を見つめ続けた。間近で見る彼女は控えめに言っても美しかった。肩まで伸びた真っ黒な髪が風に揺れている。遠くを見つめる目は意志の強さと存在の儚さを兼ね備えた魅力があった。まっすぐに伸びた鼻梁と控えめに出た顎が、横顔の美しさを際立たせている。孝介は隣に座ろうか悩んだが、立ったまま話しかけてみた。
「ここ、たまに強風吹くんで危ないですよ。落ちるとかなり深いし大変ですよ」
女性からの応答はない。
「あの……たぶんこの島の人じゃないですよね? なにかあったんですか?」
人工千人強の波瑠島では、ほとんどの島民が互いの顔はもちろんのこと、家族構成から職業、人生遍歴まで知っている。ましてや自分と同い年くらいの女性となると知らないはずはない。観光者か誰かの親戚の人だろうと孝介は推理した。すると、女性は海を眺めたままようやく口を開いた。
「田舎の人ってずいぶんお節介なのね。若い女の子がそんなに珍しいのかしら? それとも、わたしが今にもこの静かな海に身を投げ出しそうな悲劇のヒロインに見えるの?。こうしているだけで、昨日から何人もの人に話しかけられたわ」
ぶっきらぼうな口調でそう言い放つと、孝介に顔を向けた。その時、横顔では気が付かなかったが、彼女の右頬に大きな痣のようなものが見えた。右目の下から口角付近にまで広がった青紫色の痣は、見た人に少なからず強烈な印象を残した。
「あなた、この島の高校生?」
「うん、そうやけど」
訛りが全く無いその喋りに、孝介は外から来た人だと確信した。おそらくは相当遠い場所から。
「”海と自然と人間と”これってどういう意味なの?」
「え? なんそれ? 全然意味わからんけど」
「あそこのくたびれた看板に書いてあるでしょ。海と自然と人間がなんだって言いたいのかさっぱり分からなかったわ」
彼女は先程まで孝介が壁当てをしていた付近を指差しながら言った。気にしたことがなかったが、確かにそんな看板があった気がする。
「ただの標語やろうし、たいした意味はないと思う。ところで、たぶんこの島の人じゃなかよね?」
「この島の人になりに来たの。東京からはるばるね」
分りづらい喋り方をする人だな、と孝介は思った。そして、東京からと聞いて別の疑問が頭に浮かんでいた。
「つまり引っ越して来たってこと? てことは転入してくると?」
「そうよ。明日から波瑠高校の生徒になるの。二年生なんだけどあなたは?」
孝介の心は期待で高鳴っていた。
「おれも二年生。いちおう二クラスあるとけど、進路によって分かれとる。就職か進学か決めとる?」
「へえ、奇遇ね。その二択だと進学ね」
孝介は心のなかで力強いガッツポーズをした。
「おれも進学クラスやけんもしかすると一緒かもな。名前なんていうと?」
「ふふ、その疑問文の語尾おもしろくて笑っちゃう。ごめんなさいね。馬鹿にしてるわけじゃないのよ。ただ慣れてないだけ」
初めて見る彼女の笑顔に孝介もつられて笑ってしまった。悪気がないのは直観で分かった。素直に物を言うタイプらしいということも。
「あ、名前だったわね。わたしは如月葵。あなたは?」
「おれは鳴海孝介。よろしく」
葵は突然立ち上がると、青いスカートに張り付いた砂粒を手で払った。身長は孝介よりは低かったものの、百六十センチはありスタイルも良かった。葵は必要以上に孝介に歩み寄ると、両目を見つめながら言った。
「ひとつ言っておきたいことがあるの。これから同じ高校、もしかすると同じクラスになるかもしれないけど、わたしにはあまり構わないでほしいの。別に仲良くしたくないわけじゃないのよ。それは勘違いしないでね。ただ出来るだけそっとしておいてほしい。お友達にもそう言っておいてちょうだい」
「お……おう。わかったよ」
葵はそれだけ言い終えると、それ以上はなにも言わずに去っていった。孝介は葵の後ろ姿をしばらく見ていたが、先ほどの言葉をどう解釈すべきか頭を悩ませていた。少し変わっていたけど、顔は悪くないしモテるだろうな。東京からとなるとなおさら目立つぞ。構わないでほしいなんて無茶だ。しかしあの痣はどうしたんだろうか。孝介は一瞬嫌な予感がしたが、すぐに頭を切り替えた。
我に返った孝介は、気を取り直して壁当て練習へと戻った。元の場所に戻ると、ふと彼女が言っていた看板が目に入った。”海と自然と人間と”標語と共に写っている太陽の光を反射して輝く海の写真が神秘的に見えた。ずいぶん色あせているが、この看板はいつからここにあったのだろうか?
葵の姿はもうどこにも見当たらなかった。明日本当に転校してくるのだろうか? 自分はなにか幻影のようなものを見たのではないかとさえ思ったが、考えるほど馬鹿馬鹿しかったので、今日はもう練習を切り上げて歩いて家路についた。
鳴海家の夕食は孝介の大好きなカレーだった。好き嫌いの多い孝介でもカレーに紛れ込めば何でも食べられる。それでは本質的には好き嫌いが治ったとはいえないとも思うが、兎にも角にも喉を通せば良いとゆり子が思っている限り、二人に衝突の気配はまったくなかった。父が死んでから、母は食品スーパーのパートとして働くようになった。一方で、ゆり子が父の遺産をどう管理しているのか孝介は知らない。もともとお金というものへの関心が薄い孝介だった。金持ちの友人もいれば貧乏な友人もいる。全体として低所得者層が多い波瑠島では、お金がなくても楽しむ術を各々が知っていた。そして、孝介はそういう知恵が好きだった。
「母さん、最近引っ越してきた如月さんって知っとる?」
「きさらぎ? そんな人おったかねえ。誰か引っ越して来たらすぐ分かるはずけど」
母はしばらく記憶を探っているようだった。
「ふーん、なんか今日そこの防波堤で同い年の如月さんって子に会って、明日転入してくるって言いよった」
「あら、同級生になるとね。良かったねえ。島での生活は不安やろうけん、優しくせんばよ」
「わかっとる」
孝介は葵の奇妙な言動のことには触れず、食べ終えた食器を流しへ運んだ。二階へ上がると、ほとんど手を付けていない課題には目もくれず、テレビゲームを起動した。ゲームとは、無理困難な試練を前に現実逃避するにはうってつけのものだ。課題も葵のことも忘れ、結局日付が変わるまでやり続けた。さすがに目と頭に疲労を感じてきたので、風呂に入り終えるなりすぐに眠ってしまった。
4
昨日の晴天とは打って変わって、どんよりとした厚い雲が空を覆っていた。八月中地上を照らし続けた太陽はこれから夏休みに入るのだろうか。鳴海家の五十インチテレビ画面からは『首都圏大震災から一ヶ月』というテロップと共に、政府や行政の対応を非難する声が聞こえてくる。孝介はせわしなく家中を駆けまわり、最後にテレビを消して勢い良く外へ飛び出した。
完全にうっかりしていた。立ち漕ぎで自転車を飛ばす孝介は珍しく焦っていた。目覚ましの時間を夏休み仕様のまま戻すのを忘れていたのだ。今日は母さんが早出だったため、起こしてくれる人がおらず運が悪かった。もちろん課題もやっていない。前途多難とはこのことだ。
筋肉に乳酸を溜めながら、自転車置場に着いたのが午前八時二十分。始業時間まであと十分あるが、波瑠高校にたどり着くには、鍛錬坂と呼ばれる約百メートルの急勾配の坂を登りきらないといけない。かなり体力を消耗してしまうが、全速力で登り切るしかない。野球部の練習で何百回と駆け抜けた坂だが、そのしんどさに慣れることはなかった。意を決した孝介は、病院裏の抜け道から坂の中間ポイントまで出た。これで数秒の時間を短縮できる。学生は誰もが知っているルートだ。しかしここからはひたすら走るしかない。
「おーい、孝介はーん、なにしとるんどすかあ。このままやと遅刻してまうどすえ」
走りだした孝介の隣に、見覚えのある軽自動車が急停止した。声の主は嫌というほど知っている。ボーイッシュな短髪に小動物のような愛嬌のある目で助手席から孝介の顔を覗いている。幼馴染の鈴村夏海だ。雨も降ってないのに、なんでこいつは親の車で優雅に登校しているんだ。夏海に呼び止められたせいで、遅刻はほぼ確定のものとなった。
「夏海、お前のせいで遅刻が確定したやんか。そういうことやけん、俺もその車に同乗させてもらう」
「うむ、仕方がないのう。乗せてしんぜよう。ただしジュース二本分の――」「おら孝介! 乗るんなら早く乗りやがれえ! 飛ばすぞ! かっ飛ばすぞ~。しっかり掴まってろよ!」
夏海の母にスイッチが入った。若かりし頃、なにかよからぬ集団に所属していたらしい鈴原律子の運転技術は確かだったので事故ることはないだろう。しかし想像以上の揺れに、孝介も夏海も身体をぶつけないよう姿勢を保つのが精一杯だった。途中、夏海のうぎゃ! むぎゅ! という奇声が聞こえた気がしたが気のせいだろう。白いラパンはその見た目とは裏腹に豪快に坂を登り切り、あっという間に校門前に到着した。孝介は夏海の母に礼を言って車を出た。夏海もほぼ同時に車から身体を投げ出した。
「なんとか間に合ったな。勉強もほどほどにして、なんか面白いことでもやらかせよキミタチ~。学校では目立ってナンボやで~」
なんという捨て台詞だろうか。あの親のもとでよく夏海がまともに育ったものだ。まあ夏海は夏海でもっと別の問題が……。
「まあ、ともかく間に合ってよかったな。新学期早々、遅刻してどやされるのも嫌やけんな」
「あっしは起きた瞬間から、車で送ってもらおうと決めてたでやんす。あの殺人坂を自力で登るなんて狂気の沙汰でござる。孝ちゃんみたいに鍛えとけばひょいっと登れるかもしれまへんが、あっしのこのか細いお御足、お腕、お胸、お尻では到底ムリムリ……」
そもそもどこをどう見たらか細い身体に見えるのか。ソフトボール部でそれなりに鍛えているため、筋肉は一般生徒より発達してるだろうと孝介は思った。それに胸は小さいほうが走りやすいのでは? という真っ当な突っ込みは自重した。夏海のペースに巻き込まれると、際限なく寸劇のような会話を強制される。
「ところで今日、転校生が二年に来るらしいぞ」
「ほえ~、マジっすか! 男の子? 女の子?」
夏海はこういう話題にはすぐ食いついてくる。
「女。しかも東京からでなかなか美人やぞ」
孝介はなぜかこの時、葵の痣のことはすっかり忘れていた。
「転校生美人キャラキター! その枠、絶賛空いてます! しかも我が国の首都からですと! これはなにかありそうで絶対なにかありますなあ」
余計なことは言わない方がよかったか。夏海の目が輝きはじめてしまった。
「妄想も大概にしとけよ」
「いや~、退屈な日常に窒息しかけていた我々にとって、久方ぶりの心躍る熱い展開ではないですか。まずは教室という名の酒場で情報収集でござる」
せっかくここまで一緒に来たというのに、夏海は先に教室へと駆けていった。それに続いて、孝介は鈍重な足取りで校門をくぐった。
孝介が教室へ入ると、真っ先に逢沢拓哉が駆け寄ってきた。鍛え上げられているのか、たんなる脂肪なのかわからない太い腕を孝介の肩に伸ばす。
「久しぶり!……と言うには二日前に会ったばっかやな。部活でもずっと顔見とったしな。それより今日転校生が来るって話知っとるか?」
「ああ、いちおうな」
「職員室でもう見たやつが言っとるんやけどさ、その転校生かなり可愛からしかぞ! ちょっと顔に傷があったって言いよったけど」
この時ようやく孝介は葵の顔の痣のことを思い出した。一度見ると忘れないだろうと思っていただけに、自分でも不思議だった。しかしちょっと顔に痣があるからといって、たいした問題ではないだろう。このクラスに転校生の女子の容姿を茶化すような奴はいないことも分かっていた。
「でも、どっちのクラスに来るとかな。こっちに来てくれたら受験勉強も頑張れるとになあ」
「たぶんこっちやと思うぞ。たぶんやけどそんな気がする」
「お前のたぶんは当てにならん。でもこっちやなかったら恨むぞ」
孝介が心の底から友だちと呼べる存在は少なかった。先ほどの鈴原夏海と、この逢沢拓哉の二人だけだ。夏海とは家も近所で記憶にないほど小さい頃から一緒に遊んでいた。互いの家族も仲が良く、一緒にご飯を食べたり旅行に出かけたりすることは少なくなかった。拓哉は島の外れに住んでいたため、幼少期に一緒に遊ぶことはあまりなかった。中学に入り、野球部で一緒になってからは不思議と馬が合い、くだらない話から将来の真面目な話まで交わす仲となった。大きな身体のわりに心は過敏で、些細なことでくよくよしたり、物事を考えすぎる傾向があった。
この小さな島では、クラスメイトどころか全校生徒について、互いを小さい頃からよく知っている。だからと言ってみんながみんな仲良くなるわけでもない。しかし学校社会特有の教室内の階層意識や、学年間の上下関係はかなり緩かった。陰湿なイジメはないようだったし、良くも悪くも世間知らずでマイペースな学校という雰囲気だった。そんな学校に東京からやってきた葵が合うだろうか。そんなことを考えていると、教室の扉が開き担任の久保田が入ってきた。
「おらー、席につけー。さて、夏休みも終わってしまってお前たち残念だなあ。部活に忙しかった生徒も当然課題はちゃんと終わらせて来てるよなあ? なんらかの理由で今日提出できない生徒は、いちばん面白い言い訳をしたひとりだけは目をつぶってやってもいいぞ」
教室内から予定調和的なブーイングが飛ぶ。社会が専門である久保田は最近の教師にしては珍しく、際どい冗談やあえて空気を読まない発言を巧みに操り、言葉の力でクラスの秩序を保っていた。孝介自身も、久保田の話術には見習うべき点が多いと常々感じながら話を聞いていた。
「夏休みの話もほどほどにしてだ。今日は思春期のお前たちにはたまらないビッグイベントがあるぞ。なんと、今日からこのクラスに転校生がやってくることになった」
まるで贔屓チームが逆転サヨナラホームランで勝利したかのような歓声が教室内に響き渡った。盛り上がりはすでに最高潮だ。どうやら美人であるという情報が漏洩しているせいで、生徒たちの期待度メーターの針は振り切れている。勝手に期待値を上げられた転校生にとっては、これほど迷惑なこともないだろうが。
「それでは如月さん、こっちへ来てひとこと挨拶を頼むぞ」
そう言うと、久保田は葵を教室へ招き入れて教壇の真横に立たせた。教室内は先ほどとは打って変わって静まり返っている。多くの生徒は前に立つ葵の姿を足先から頭頂部まで精密にスキャンし、噂に違わぬ美人であると結論付けようだ。無視はできないほど大きな顔の痣に、それぞれがどのような印象を抱いたのかは分からなかったが。葵は黒板にすばやく名前を書き終え、クラスメイトと向かい合った。
「この度、東京からこちらの波瑠高校に転校してきました。如月葵と申します。不慣れ故に様々な点でご迷惑をかけるかと思いますが、どうぞこれからよろしくお願いします」
葵は切れ長の大きな瞳で生徒一人ひとりを見渡すようにして、端的な挨拶を終えた。途端に盛大な拍手が沸き起こった。その美しさに惹かれた者、東京という街に惹かれた者、上品な振る舞いに惹かれた者。痣が気になって仕方がない者。それぞれがそれぞれがの葵を見ていた。
「えー、みんな仲良くするように。如月も遠慮なくわからないことは誰にでも良いから相談するように。あーっと、席はそこの窓側の空いてるところだな」
「わかりました。ありがとうございます」
葵は指定された席へ向かった。その時、孝介の目の前を通ったのだが、目が合うことはなかった。
「ホームルームは以上だ。なんか報告はないかあ? なんもないなら俺は涼しい職員室に帰るぞ。お前たちが夏休み明けのしんどさを味わえるのもあと一回回だけだ。いまのうちに味わっとけよ」
出席簿で顔を扇ぎながら、久保田は教室を後にした。先生がいなくなった教室では、案の定葵の席に人だかりができていた。その中で、昨日のあの言葉を思い出した孝介だけが不安を感じていた。その不安が実態を現しはじめるのに、そう時間はかからなかった。
5
ここ数日、波瑠島では北の風が強く吹き、海面には白波が目立った。薄い雨雲が地面を濡らし、蒸し暑い日々が続いていた。
葵が波瑠高校に転入してから二週間が過ぎた。二週間という期間は、葵の能力を周囲に気付かせるのに十分な時間だった。数学の授業では、ただ問題を解くだけでなく、効率重視で正解へ辿り着く受験テクニック的な解法を披露してみせた。これには教師も驚き、葵にはより難易度の高い問題を与えるようになった。また、英語力も抜群であった。フィリピン人の英語教師と遜色ない発音とスピードで会話を繰り広げ、クラスの誰ひとりとしてその内容を理解することはできなかった。もともと東京で葵が通っていた高校は名門進学校であり、有名大学に毎年多数の合格者を出し続けていた。授業スピードも並の高校とは比べ物にならないほど速く、葵の学力は現時点でもそこそこの大学に合格できるレベルに達していた。学問だけでなく、その身体能力もいかんなく発揮された。ソフトテニスやバレーボールなどを葵は涼しい顔でそつなくこなした。ある日の体育でおこなったマラソンでは、クラスで圧倒的な速さを誇る陸上部の生徒には敵わなかったものの、堂々の二位の座を手にした。日に日にあらわになる葵の能力に、教師を含む周囲の人間は舌を巻き、あっという間に誰もが一目置く存在となった。
そういうわけで、ただでさえ狭い人間関係のネットワークの中で葵の噂は瞬く間に広がった。学年を問わず、時には向かいにある中学校からも様子を見に来る野次馬が現れた。当の本人はそんな状況を気にする素振りすら見せず、日々の学校生活を義務的に過ごした。もちろん、そんな葵の活躍をおもしろくないと思う生徒もちらほらおり、微かに不穏な空気が漂うようになった。
葵の周りには野次馬的に人が集まることはあっても、親しく会話を交わすような友人はまだいなかった。その中でも熱心に葵に関わり続けたのが夏海だった。葵の転校初日、クラスの元気印である夏海は数人の友人を連れて葵を昼食に誘った。各々の机を動かし長方形を形作り、葵を中心に据えてコミュニケーションを図った。しかし次々に繰り出されるありきたりな質問に対し、葵は最小限の応対だけで多くを語ろうとしなかった。あからさまな拒否反応を示したわけではないが、敏感な思春期の女子たちは否定の意志を感じとっていた。その後、クラス内ではどことなく、葵には特別な用事がある時にだけ話しかけるという雰囲気が醸成された。しかし、夏海だけはあえてその空気に抗うかのように、毎日昼食を一緒に食べ続けた。葵も明確に拒否することはなかったので、徐々に夏海とだけは世間話をする程度の仲になっていった。
事が起きたのは十月の半ばだった。二週間後に控えた校内合唱コンクールの練習のため、二年A組一同は音楽室に集合していた。それぞれが部活の時間を削って捻出してくれた時間であり、実行委員の風谷涼子はいささか神経質になっていた。A組二十九人全員が集まり、練習は順調に進んでいた。練習開始から三十分が経過した時、課題曲の歌唱中にも関わらず、とつぜん葵は所定の立ち位置を離れ、指揮をする涼子の前へ歩み出た。
「申し訳ないけど用事があるの。今日はこれで失礼するわ」
そう伝え終えると、葵は入り口へ向かって歩いた。指揮者の涼子を筆頭に、その場の全員の動きが止まり、歌は自然と中断された。孝介や夏海も唖然とした表情を浮かべていた。
「ちょっと、どういうこと? 今日は五時までって予め言っとったよね?」
扉を開けようと伸ばした葵の手が止まった。そして涼子に向き直った。
「ええ、そう聞いてたわ。でも、いま出なくちゃ用事に間に合わないの」
「それおかしくない? 用事あるならなんで最初に言わんと? しかも歌いよる途中で抜けるって非常識すぎん?」
嵐の前の不穏な空気を、その場の全員が感じ取った。誰もが我関せずというふうで、二人のやりとりに口を挟む者はいない。夏海はしきりに目線を右往左往させている。
「だから申し訳ないって言ったの。今日は最初から来るべきじゃなかったわ」
心なしか葵の口調も挑発気味に聞こえる。
「ふざけんでよ! あんた協調性なさすぎやろ! 東京じゃそれが普通ね? 田舎やけんて馬鹿にしとるとやろ!」
涼子の中で何かが弾けた。大声をあげてしまった以上、もう自分の理性で抑えこむことはできなかった。葵は表情を少しも変えることなく、さらに一歩だけ涼子に近づいた。
「わたしはこの島にもあなた達にもなんの関心もないわ。わたしにとって大事なことをやりに行くために、今すぐここから去りたいの」
静かだが青い炎を纏った言葉を投げつけると、涼子の応答を待たずに葵は今度こそ音楽室を後にした。
「逃げるなあ! こっちもお前のことなんかどうでもよかったい! 早く東京に帰れ!」
「調子乗りすぎたい!」
「もう戻ってくんな!」
「痣女!」
涼子の怒りに便乗した数名の女子が後を追うように扉を開け、すでに姿を消した葵に罵声を浴びせる。自分でもどう収拾していいかわからず、なおも何か言おうとする涼子を夏海が後ろから抱きしめた。
「もうやめてよ! 葵ちゃんは……葵ちゃんはこの間の震災でお父さんと弟ば亡くしとるとよ! 住んどった家もめちゃくちゃになったけん波瑠に来たと! わたしなんかには想像も出来んけど……きっととんでもない悲しみば背負っとるはず。やけん、みんなあんまりひどいこと言わんでよ……お願い」
夏海の悲痛な訴えに涼子たちは沈黙した。同時に、影を潜めていた生徒はざわめき出し、うそ……マジかよ、と言った言葉が聞こえてきた。
「そがんこと、あたし知らんかったし……。でも、それでも如月さんにも問題あるよ……」
先ほどまでの勢いは雲散霧消し、涼子は小さな声で独り言のようにつぶやいた。夏海は涼子にしがみつきながら泣き続けていた。
「なっちゃん、ごめん。もう大丈夫やけん。如月さんとは改めて話してみるけん、心配せんでよかよ」
涼子は冷静さを取り戻し、夏海の腕を優しく握った。
「涼ちゃん、ごめんね……ありがとう」
夏海は制服の袖で涙を拭うと、涼子から離れて自分の立ち位置へと戻った。
「なんか変な雰囲気にしちゃってごめんなさい。今日の練習は終わりにしましょう。練習の日程はまた後日連絡します。それでは本日は解散!」
涼子の号令の後、部活へ急ぐ者と教室へ戻る者とにわかれたが、孝介は真っ先に夏海のもとへ歩み寄った。
「大丈夫か?」
孝介の姿を認めると、涙目で孝介の左肩に鉄拳を飛ばした。
「孝介~! 普通ああいう時は男がなんとかするもんじゃ~。心臓バクバクで死ぬかと思ったよう……」
夏海はうつむいたまま、孝介に微弱なパンチやキックを繰り出し続けている。
「うん、確かにな。急な展開でなんも出来んかった。すみませんでした」
「わたし、葵ちゃんのこと喋ってしまった。先週、一緒に教室移動しよるときに突然話し出して、最初聞いた時はびっくりしてなんも言えんやった……後で謝らんば」
孝介はこれまでの葵の言動を振り返っていた。とてつもない悲劇に見舞われて、そしてこんな島にやってきて、自分だったらどう生きるだろうかと考えた。あまりに途方も無い思考実験に、孝介の頭はうまく対応できなかった。明日から葵を見る目が変わるだろう。変わらざるをえない。葵は学校へ来るだろうか。来て欲しいと心から願った。
6
十月三十日、波瑠高校の体育館で行われた校内合唱コンクールには多くの島民が集まり、盛況の内に幕を閉じた。金賞に輝いた三年A組の生徒たちは飛び跳ねて喜び、最後に課題曲である『翼をください』を再度披露した。二年A組が座する一帯には、ひとつだけ空席があった。あの日以降、葵は学校にはいつも通り来たものの、合唱コンクールの練習にはとうとう一度も顔を出さなかった。本番当日、葵が来ることを期待した者はひとりもいなかった。孝介と夏海を含めて。
すっかり冬の様相を呈しはじめた十一月の日曜日、孝介は拓哉や数人の同級生と共にサッカーに興じていた。もともと野球よりサッカーが好きだった孝介はサッカー部に入りたかったが、波瑠高校の数少ない部活動にサッカー部は含まれていなかった。野球も嫌いではなかったのだが、休日や時間が空いた時にはもっぱらボールを蹴って遊んだ。いまは使われていない雑草だらけの総合運動場には、かつての名残でサッカーゴールが残されており、孝介たちはボールもまともに転がらない劣悪な環境下で汗を流した。
この日も夕方頃にはみんな疲れきってしまい、自然と解散の流れになった。それぞれが自転車に跨り、百円ジュースで喉を潤しながらペダルを漕いだ。ひとり、またひとりと別れ、ついに孝介ひとりとなった。飲み切ったジュースを自転車のカゴに放ると、五十メートルほど先に女性の姿が見えた。孝介と同じ方向へ自転車を走らせる女性が葵だということはすぐにわかった。思えば、葵が島のどこに住んでいるのか知らなかった。孝介は慎重に距離をとり、興味本位で葵の後をつけた。
葵は一定のペースで海沿いの道を進み続けた。孝介の家を通り過ぎると、葵と初めて出会った防波堤が見えた。あの赤い灯台を見ていると、あの日の葵の横顔が鮮明に浮かんできた。それと同時に、当時の会話を頭の中で再現した。あの時”わたしに構わないで”と言っていた意味がようやくわかった気がした。比較することは出来ないが、幼い頃に父を亡くした孝介には葵の境遇が他人事とは思えなかった。
頭の中ではなく、現実に孝介の前方を走っている葵は山道へと入っていった。この道の先はしばらく厳しい登り坂が続く。自転車に乗ったまま登りきるのは、日々鍛えている孝介でも自信がなかった。案の定、葵は十メートルほど登ったところで自転車から降りて、手押しで進んだ。もはや葵が家へ向かってないことは明らかだった。拓哉のように、街中に出るには山を超えねばならない地域に住む人たちは大抵車を使う。島を横断するバスもあるにはあるのだが、運行本数が少なく学生の流動的な生活には合わなかった。葵とは自転車置き場で何度か遭遇したことがあり、毎日自転車で山を超えて通学しているとは到底思えなかった。しかし、だとすると葵はいったいどこへ向かっているのか。孝介は葵に直接問い質したい気持ちを抑えて、ひたすら自転車を押した。
二十分ほどかけて、ようやく坂を登り終えた。後はどこへ行くにも下り坂であり、目的地は近いと確信した孝介は冷えきったサドルに跨った。重力の恩恵により、ペダルに足をかける必要がなく進む時の自転車は爽快だった。葵は島の中心部からひたすら西へと向かっていた。孝介は、これ以上西側にはもう何もないはずと訝しみながら、果たしてあの女性は本当に如月葵なのかと疑い始めた。自分はひたすら幻影を追っているのではないか。いまだに夢で死者と話す能力は健在だし、霊的な力が自分をどこかへ連れて行こうとしているのかもしれない。いやいや、そんな馬鹿な話があってたまるかと、強い意志で邪念を吹き飛ばすと、いま一度しっかりと実存する葵の姿を捉えた。
山道を抜けると、ようやく海が見えてきた。とうとう島の西端へ出たのだ。葵は下ってきたT字路を左へ曲がると、自転車の速度を落とした。海とは逆側の方向を見ている葵の視線の先には、十数年前に廃校となった小学校があった。かつて波瑠島には小学校が三つあったが、人口減少に伴い現在は中心部の波瑠小学校だけが機能している。葵が見ている江下小学校は、廃校となった後は特に用途もなく、島の西端にいつまでもひっそりとそびえ立っていた。この一帯はドライブくらいでしか寄り付かない場所のため、孝介はこの廃校の存在をすっかり失念していた。しかし、まだなにか忘れているような気がした。
葵は小さな校庭の前に自転車を停めると、校舎へは向かわずに草木が生い茂る脇道へと歩き出した。孝介は少し離れた場所に自転車を停め、疑問を深めながら葵の後を追った。この辺りには他になにかあったような気が……。霧のかかったような記憶の混濁に孝介は苛立った。曲がりくねった道を進んでいるため、葵の姿が途切れ途切れになる。見失わないように慎重に追っていると、やがて開けた場所に出た。足元に現れた石段の先には、中央に『天主堂』と記された建物があった。
「そうだ。教会があったんやった」
孝介の記憶の片隅に追いやられていた江下天主堂が葵の目的地だった。大正時代に建てられたこの教会も江下小学校同様、今は使われていない。木造りの簡素な建築であり、ステンドグラスではない透明ガラスには手書きの花模様が描かれている。その窓を覆うブルーの縁取りと白い壁の色彩が非常に特徴的な建物だった。葵は木造扉を慎重に開けると、躊躇なく中へと足を踏み入れた。孝介はしばらく考えを巡らせた後、覚悟を決めてゆっくりと扉を開けた。
内部は思ったより広く、色落ちした椅子や柱が目についた。波瑠島にはカトリック教会がいくつかあったが、鳴海家はカトリックではなかったので、孝介は教会には滅多に入ったことがなかった。葵は祭壇の前に立ち尽くし、信徒に優しいまなざしを向けるヨゼフ像を見上げている。
「もういいわよ、鳴海くん」
瞬間、身体が硬直した孝介はその場から動けなくなった。
「引っ越してきた日にね、ここを見つけたの。まだ夏休みだったあの日。汗だくになりながら島中を巡遊してたら偶然ね。わたしクリスチャンじゃないけど、施錠されてなかったから入っちゃった」
穏やかで透き通った葵の声が、木目調の壁に反響して孝介の耳に届く。
「黙ってついてきて悪かった。どうしても気になって、それで――」
「この像ね、どことなくお父さんと弟に似てるの」
幼子イエスを抱くヨゼフ像を見つめる葵の視線は、慈愛と悲壮に溢れていた。
「午後五時四分。何の時間かわかる?」
孝介はその時刻が示す意味がわかった。そして、テレビで目にした数々の凄惨な光景が想起された。
「轟音の後にひどく揺れてね、最初は爆弾かなにかだと思ったわ。最近テロが頻発してるでしょ、ついに東京が狙われたと思ったの。でも、そうじゃなかった」
結果的に五千人以上の犠牲者を出した首都圏大震災は、地震学者がそう遠くない未来に予想していた、マグニチュード七・一を計測した首都直下地震だった。
「周りの人たちは仕方がなかったって言うの。だけど、お父さんも、まだ五歳だった弟もわたしのせいで死んだのよ。仕方がなかったなんて口が裂けても言えない」
孝介も自然とヨゼフ像を見つめながら葵の話を聞いていた。そして、幼い頃に事故で死んだ父さんのことを思っていた。
「この痣は倒れてきた箪笥がぶつかって出来たもの。すごく痛くて痛くて、それで怖くなっちゃって、気付いたら隣の部屋にいた弟を置き去りにしてひとりで外へ逃げ出してた。その後、すぐに隣家から火の手が上がって、瞬く間にお父さんの書斎に燃え移ったの。お父さんは書斎にいたわ。だけど、最後まで家から逃げ出てくることはなかった。わたしは腰を抜かしたまま地面に座り込んで、自分の家が燃え崩れるのをずっと見ていた。まるで映画のスクリーンを眺めるように。あらゆる感情が同時に押し寄せた時、わたしの心は無になった」
葵はヨゼフ像から目を離し、髪をなびかせながら振り向いた。
「孝介くん、こっちへ来て」
抗う必要も意味もなかった。孝介は、葵がいる祭壇の前に向かって歩を進めた。お互い手の届く範囲まで接近した時、葵はおもむろに孝介の左手を掴んだ。
「わたしの聖痕に触れて」
葵は孝介の五本の指を自らの痣にやさしく押し当て、上から下までゆっくり丁寧に這わせた。生々しい打撲痕、他とはかすかに感触の違う変色した皮膚を、孝介は自らの力で何度も往復した。葵は終始目を閉じ、孝介は目を開いていた。
「ありがとう」
孝介が手を降ろすと、葵は目を閉じたまま感謝の言葉を述べた。孝介はヨゼフ像を一瞥してから、開かれようとしている葵の目を見た。
「不慮の事故で亡くなった人は、たくさんの思いを抱えとる。生前に伝えきれんかったことを伝えたがっとる人が多い。俺は父さんが死んでから今まで、そういうたくさんの死者たちとつながってきた。俺、葵の力になりたい」
自分が何を言ったのか、孝介は明確に自覚していなかった。自分の不思議な力について他言したことはなく、未だに母のゆり子しか知らない。自分に一体なにが出来る? 葵はなにを求めている? 分からないことばかりだったが、それでも葵と向き合わなければいけないという思いだけは強くあった。
夕陽もその姿をくらませ、島は一時の闇に包まれようとしている。教会を後にし、自転車を押しながら山道を登る二人の心は触れ合おうとしていた。
「あたし、毎日あの時間にあそこへ行ってるのよ。辺鄙な場所にあるから通うの大変。おかげでずいぶん鍛えられちゃったわ」
息を切らしながら、葵は自分の脚をまじまじと見つめる。
「普通あんなところまで自転車で行くやつなんておらんぞ。学校の近くにも教会あるとに」
「ううん、わたしはあの像がいいの。それに、こじんまりとして可愛らしい教会じゃない。すっかり気に入っちゃった」
「そうか、なら気合入れて通わんばやね」
「気合なら東京で鍛えられたから大丈夫よ!」
二人は談笑しながら山道を進んだ。風に揺れる草木までもが、二人に微笑みかけているようだった。
数少ない街灯が灯り始め、ようやく二人は孝介の家の前までたどり着いた。孝介が別れのあいさつを言おうとした時、それを察した葵が先に口を開いた。
「お願いがあるの」
雰囲気が変わった葵の声色に孝介は身を正した。
「なに?」
「わたしと一緒に東京に行ってほしいの。少し心残りがあって、それが済んだらすぐに島に戻るわ。お金は十分ある。明日、朝一の便で行くから」
唐突な依頼に孝介は戸惑い、詳細を聞こうとした。
「え? でも――」
「言わないで! いま返事はしないで。明日、来るか来ないかが返事になるでしょ。だから、いまここでは言わないで」
葵のすがりつくような言葉に孝介は従った。
「今日はありがとう」
葵は去り際にそう言うと、思いきりペダルを踏みしめた。孝介は見えなくなるまで葵の後ろ姿を目で追った。今日起こった出来事を咀嚼し、決意を固めるにはもう少し時間が必要だった。その時、孝介の脳裏にはある憂いが過っていた。明日の天気は大丈夫かな。
7
明くる日、月曜日の午前六時。孝介は二階の出窓から海の具合を確認した。凪いでおり、海面は穏やかに揺れていた。孝介はまだ眠っているゆり子を起こさぬよう忍び足で階段を降りた。身支度はすでに整えてある。一日分の衣服と最低限の持ち物をリュックに詰め、静かに玄関を開けるとまだ薄暗い外へと踏み出した。
波瑠ターミナルまで自転車で三十分はかかる。いま出発すれば、丁度いい具合に到着できるはずだ。ゆり子には置き手紙を残してきた。なんといっても今日は月曜日だ。学校は通常通り機械的で退屈な授業を行うだろう。学校をサボって東京に行くなど、ゆり子が承諾してくれるとは到底思えなかった。
早朝の島内には、健康志向の老人やペットの散歩をする主婦が数人歩きまわっているだけで人通りは少なく、孝介はいつもより自転車を飛ばしてターミナルを目指した。
午前六時二十五分、数年前に建設されたばかりのレンガ造りの波瑠ターミナルが見えてきた。中の待機スペースが外からガラス越しに一瞬見えたが、葵の姿を確認することは困難だった。孝介は狭い駐輪場に自転車を停めると、背負い慣れないリュックを肩にかけ、自動ドアを通過した。
一便の乗船客らしき人が六人、長椅子に座って船の到着を待っていた。その内のひとりが葵であることは、見慣れた後ろ姿ですぐに分かった。孝介は切符を購入し、葵の隣に腰掛けた。
「来てくれてありがとう。学校サボっちゃったわね」
透明の大きなガラス窓から見える海は、太陽光を反射して輝いていた。孝介たちが乗船する一便のフェリーはまだ姿を見せない。
「船酔いとか大丈夫?」
今日の風だとそんなに揺れる心配はなかったが、酔う人はどんな天候でも酔うので、孝介は念のため聞いてみた。
「大丈夫。ジェットコースターとか大好きだから」
ジェットコースター好きだと船酔いも大丈夫なのだろうか? 孝介はどうでもいい疑問を抱きつつ、船の到着を待った。
「船や飛行機を乗り継いで、羽田に着くのはお昼頃の予定よ。チケットやお金の心配はしないで。孝介は一円も出さなくていいから」
さり気なく初めて呼び捨てにされたことを、孝介はまったく意に介さなかった。自分も昨日教会で葵と呼んでしまったので、これで対等になったと思うと楽だった。
「お金用意してきたけん、自分の分はちゃんと出すよ」
「本当にいいの。わたし、絶対受け取らないから」
葵独特の意志がこめられた口調で言われると、なにも言えなくなる。しかし、孝介は機会を伺っていつか必ず渡そうと考えていた。
やがて、孝介たちを隣の島まで運ぶフェリーが水平線上に姿を現した。その船体は徐々に大きくなってくる。人々は次々に船着き場へ移動を始め、孝介と葵は最後に腰を上げた。本当についてきてよかったのだろうか、一抹の不安だけは払拭できなかったが、葵が東京でなにをするのか見届ける必要があったし、孝介自身も東京という街を見てみたいという観光者の気分もあった。
二人はまず、三十分かけて波瑠島から空港のある若江島へ渡った。船内での葵は終始無口だった。若江港ターミナルに着くと、すぐにタクシーで若江空港へ向かった。若江には野球の試合などで度々訪れていた孝介は、波瑠よりいくらか栄えた街並みを横目に携帯電話を気にしていた。そろそろゆり子が起きる頃合いだろう。手紙を目にしたゆり子から、何かしらの連絡があるのは確実だった。
タクシーが空港へ到着すると、しばらく時間が空いた。葵は小腹が空いたと、ひとりで空港内の簡素なうどん屋に消えていった。飛行機に乗った経験が数えるほどしかなかった孝介は、内心そわそわしていた。どうも飛行機という乗り物に身を任せることに抵抗があり、巨大な鉄の塊があんな高い所を飛び続けられることが信じられなかった。
葵はいつの間にか朝食代わりのうどんを食べ終えて、ちゃっかりお土産屋でカステラを購入してきた。誰に向けたお土産なのか聞きたくて仕方がなかったが、なんとなく孝介は自重した。
午前八時、二人はずいぶんこじんまりとした飛行機に乗り込み、福岡までの約四十分をほとんど寝て過ごした。福岡空港で乗り換え便を待っている間に、孝介の携帯電話が鳴った。メッセージボックスには母、そして夏海という文字が表示された。孝介はまずゆり子のメールを開いた。
『手紙読んだ。学校には具合悪いって連絡したよ。如月さんの事情は最近聞いて知っとった。あんたもいつの間にか大胆になったねえ。東京着いたら連絡して』
すでに島の人々に葵の事情は大方知れ渡っているなと、孝介は悟った。ゆり子に義務的な返信をした後、続いて夏海のメールを開いた。
『孝介殿! 体調はどうだい? 葵ちゃんも体調不良で休んでて心配でござる。キミらの為にも今日はちゃんと授業聴いといてやるぜい! 無茶すんなよ~』
夏海の不安定な口調はメールでも健在だった。どうやら二人とも体調不良ということで誤魔化せているらしい。夏海にはあえて返信せずに、孝介は出発時刻まで空港内をひとりで散策した。
一日で二度飛行機に乗るのは人生で初めてじゃないだろうか。孝介は、福岡から東京までの一時間半の間、ひたすら考え事をしていた。葵のこと、自分の力のこと、ゆり子のこと、学校のこと、波瑠島のこと。自分はいま、人生でなにか重要な場面の渦中にいることだけは痛いほど感じていた。義務的な着陸の機内アナウンスが流れると、慣れないシートベルトを締めた。
8
初めて吸った東京の空気に孝介は少しの息苦しさを感じた。葵の行き先も、自らの行き先も未だにわからないままだ。結局、葵は道中ほとんど喋らなかった。東京に着けばなるようになるだろう。孝介はひたすら事の流れに身を任せようとしていた。
午後一時前、二人は羽田空港内で昼食をとることにした。早足で歩く葵の後をひたすらついていく孝介の姿は、まるで親を追う子どものカルガモのようだった。イタリアンレストランに入り、今日はじめて葵と孝介は向かい合った。葵は慣れた様子で店員を呼び、注文を済ませると固く閉ざしていた口を開いた。
「これから、わたしはお母さんの実家に行く。と言っても、義理のお母さんなんだけどね。本当のお母さんは小さい頃に離婚しちゃったから顔も覚えていないの。孝介はここに泊まってちょうだい、ちゃんと予約してあるから」
差し出されたメモ用紙には、ホテルの名前と地図が書かれていた。地図には聞いたこともない地名が並んでいたが、最悪タクシーを使えばたどり着けるだろうと考えていた。店員が料理を運んできたので、孝介は去るのを待ってから質問した。
「俺はなんもせんでホテルにおればいいと?」
「好きに観光してていいわよ。東京ってなんでもあるから退屈しないと思うわ。また明日連絡するから」
「わかった。適当に見てまわるけん」
そう言って二人は携帯電話を取り出し、互いの電話番号を交換した。その時、孝介は再び夏海からメールが届いていることに気付いたが、確認は後回しにした。注文したパスタは特別美味しくも不味くもなく、孝介の印象には残らなかった。会計はすべて葵が支払い、二人はレストランを後にしてバス停へと向かった。
羽田空港を出発してから四十分、バスは吉祥寺駅に到着した。バスの中で、孝介は流れ行く東京の景色を食い入る様に見ていた。震災から三ヶ月経った首都は、まるで一切の影響がなかったかのように都市機能を回復していた。都内各地で煙が上がる様子を映した上空ヘリからの映像が脳裏に焼き付いていた孝介にとって、バスの窓越しに見えた風景には感動すら覚えた。
義母の実家は駅から歩いていける場所にあると葵は説明した。孝介が泊まるホテルもここから目と鼻の先だった。
「ホテル、すぐ近くやね」
「うん。まあ、念のため」
葵の言葉に少々引っかかったものの、孝介も葵が近い場所にいると分かると安心した。
「それじゃあ、気をつけてね。なにかあったら連絡ちょうだい」
「了解」
分かれ道で互いを一瞥した二人は違う歩幅、違う速度でそれぞれの場所へと歩き出した。
葵の足取りは決して軽くはなかった。事前連絡無しで突然の帰郷。大切なものを受け取りに行くためとはいえ、もっと冷静に行動するべきだった。焦ったところで物事がうまく進むとは思えなかった。
十分ほど歩くと、白い壁に赤い屋根が目立つ一軒家が見えてきた。震災後、一ヶ月ほど滞在していたその家に対して、葵はほとんど何の感情も抱いていなかった。見覚えのある玄関前にたどり着くと、そっとインターホンを押した。
「はーい」
家の奥から義理の祖母の声が聞こえてきた。駆けてくる足音が葵の耳に入った直後、扉が開いた。
「葵ちゃん! どうしたのよ急に! いつ戻ってきたの?」
白髪交じりで困惑した表情を浮かべた義祖母は、目を丸くして葵の姿を凝視した。
「急にごめんなさい。お母さんから、最近見つかった遺留品の中にわたしの大切なものがあったって連絡が来て、我慢できずに学校休んで来ちゃいました」
「まあ、そうなの。とりあえず上がんなさい。積もる話もあるでしょう」
義祖母は手招きして葵を家に上がらせようとしたが、葵はその場から動こうとしなかった。
「いえ、受け取ったらすぐに島に戻るつもりなんです。平日だし、あんまり休むわけにもいかないので」
一瞬、複雑な顔を見せた義祖母は、きまりが悪そうに目線を落とした。
「実はお母さん引っ越しちゃって、もうここに住んでないの。遺留品も持って行っちゃったから、葵ちゃんのものもお母さんの家にあると思うわ」
母からは一言もそのような知らせはなかった。葵の胸中はざわついていたが、表情には出さないよう努力した。
「そうなんですか。お母さんの住所、教えてもらってもいいですか?」
「ええ、ちょっと待っててね」
慌ただしく家の奥に消えてから数分後、義祖母はメモ用紙を片手に戻ってきた。渡された紙には、最寄り駅とカタカナだらけのマンション名が書かれていた。
「ありがとうございます。また時間ができたらゆっくりお邪魔します」
「気をつけてね。向こうでも元気に頑張ってね」
最後に葵はカステラを渡すと、深々とお辞儀をしてその場を去った。
波瑠島にあるどの建物よりも高いそのホテルの名前を、孝介はいま一度メモと比較した。間違いないことを確認し、中へ入った。受付で自分の名前を伝えると、料金は既に支払い済みであるらしく、すぐにシンプルなデザインのルームキーを受け取ることができた。エレベーターで七階に上がり数メートル歩くと、部屋の前にたどり着いた。慣れないホテルの部屋の解錠に少し手間取ったが、やがて緑のランプが灯り扉が開いた。
孝介は中に入ると、大人ひとりが十分に寝転がれるほどのソファにリュックを置いた。室内は薄暗かったのでカーテンを開けると、雑居ビルの灰色の壁が目の前に現れた。孝介は半ば無意識にテレビの電源を入れると、脱力してベッドに仰向けに倒れ込んだ。
携帯電話を取り出し、夏海からのメールをチェックする。
『お前仮病だな~! こっちは鳴海孝介と如月葵をターミナルで見かけたという証言を得ている。月曜からなにしてんだお前らは~!この不良高校生め! 戻ってきたら納得のいく説明をしてもらう。覚悟しておけ』
脅迫のような文面はさておき、厄介な状況になったことを知り、孝介は溜息を漏らした。島内の情報ネットワークを考えると、すでに学校側に知られている可能性も十分あった。夏海には潔い謝罪の文面を送った。そしてゆり子には出来るだけ心配させないような文面を送り、携帯電話をテーブルの上に置いた。
孝介は見慣れぬ天井を眺めながら、この旅がこれからの葵にとって少しでも良いものになってくれればと心から願った。そして、自分に宿る不思議な力のことを考えた。いったいどういう理由で自分はこのような力を与えられたのか。孝介はこれまで見てきた数々の死者の夢を想起した。このとき、孝介は初めて気がついた。すべての死者、そしてすべての伝言を克明に思い出すことが出来たのだ。それはもはや思い出すという感覚ではなく、脳に深く刻まれ、死ぬまで忘れることが許されない記憶のようだった。必死にノートに書き残す必要もなかったのだ。すべてはこの頭の中にある。孝介はこれまで父の伝言をのぞき、死者からの言葉を伝えることを一切しなかった。いまこの瞬間、それは間違いだったと思えた。そして同時に思った。いまからでも遅くはないと。その強い思いをやさしく抱きかかえながら、孝介の意識はつかの間の眠りに落ちていった。
午後六時、葵はひたすら吉祥寺駅前のゲームセンターで時間をつぶしていた。義母は都内の化粧品店で働いており、帰りはだいたいこの時間帯だった。騒がしい空間から逃げ出すように外へ出ると、駅前で待機するタクシーに乗り、運転手にマンション名を伝えた。
葵を運ぶタクシーはやがて高層マンションの前で停車し、葵を降ろすと次なる乗客を求めて走り去っていった。豪華なシャンデリアが飾られた玄関ホールに足を踏み入れると、メモに書かれた部屋をインターホンで呼び出した。
「はい」
葵の予想を裏切り、聞こえてきたのは男性の声だった。葵はもう一度部屋番号を確認したが、間違いはなかった。
「如月真実さんのお宅じゃなかったでしょうか?」
「どちら様でしょうか?」
男は否定しなかった。葵はここは義母の部屋に間違いないと確信した。
「わたし、如月葵と申します。母はご在宅でしょうか?」
「え……ちょっと待っててね」
少し間が空いた返事と同時に、とてつもない不快感が葵を襲った。落ち着け落ち着け、葵は心の中で自分に言い聞かせた。しばらくしてから、耳慣れた声が聞こえてきた。
「ごめんね葵、いま開けるから入ってらっしゃい」
言われなくとも、自力でガラス扉をぶち破ってでも入りたい気持ちだった。葵はエレベーターの中で不自然な深呼吸を繰り返した。目的の部屋の前にたどり着くと、インターホンを必要以上に強く押した。義母はすぐに姿を現した。
「葵、ちょっと外へ出ようか。ちょうど晩ご飯の時間でしょ」
「男の人、誰?」
葵は視線を合わせず、玄関に綺麗に並べられた男性モノの靴を見ている。
「葵……それも含めて話すことがあるの」
「返して。あれだけ受け取ったら帰るから」
少しでも触れたら破裂しそうな葵の感情を察して、義母は怯えた後ろ姿を見せながら中へと消えていった。そしてすぐに、十数枚のA4用紙を手にして戻ってきた。
「これ、葵が書いてたものよね。お父さんが――」
義母の両手から、もの凄い勢いで白い紙が奪われた。幸い破れはしなかったものの、勢いのあまり数枚の紙は葵の手の中で握りつぶされて無数のシワを作っている。葵はもの凄い形相で義母を睨みつけると、エレベーターは使わずに階段を駆け下りた。一気にマンションの外に出て、肺いっぱいに新鮮な空気を取り込んだ。そして、これから向かう先はひとつしかなかった。
扉をノックする音で、孝介は目を覚ました。すっかり暗くなった室内を手探りで進み、なんとか照明のスイッチをつけた。ドアスコープを覗くと、うつむく葵の姿が見えた。孝介はすぐに鍵を開けた。
なにかから逃れるようにして部屋に入ってきた葵は、孝介の胸に向かって飛びついた。
「ちょっ……どうしたと?」
必死に抑え続けた感情が溢れ出し、葵は嗚咽を漏らして泣きはじめた。
「どいつもこいつもクズ! クズ! クズ! お父さんと弟じゃなくて、わたしとあの女が死ねばよかったのに!」
葵は孝介の胸に向かって叫び泣いた。精一杯の力で孝介にしがみつく葵に対し、孝介は両腕のやり場に困っていた。とめどなく流れる葵の涙が、孝介のセーターに染みこんでいた。
数分間、言葉にならない言葉を吐き続けた葵は、やがて孝介から離れた。
「もう行く場所なくなっちゃった。今夜はここに泊めてちょうだい」
「それは全然構わんけど、落ち着いたら話聞かしてな」
二人は並んでソファに腰掛けて、空気が落ち着くのを待った。
「わたし、滅多に泣かないのよ。無理に我慢してるわけじゃないんだけど、泣いたって何にも解決しないって分かってから自然と泣かなくなったの」
葵は泣きはらして充血した目を、花柄のハンカチでしきりに拭っている。
「涙って悲しくても楽しくても出るけん、不思議なものやと思う。それぞれの感情によって涙の色が違えば分かりやすかとに。ところで、用事は済んだと?」
葵はバッグからくしゃくしゃの紙束を取り出した。
「今日はこれを取りに来たの。わたしが初めて書いた小説。まだ未完なんだけどね。家と一緒に全部燃えたと思ってたけど、不思議ね。まさか残ってたなんて」
所々が汚れている原稿には、赤い文字でいくつか修正が入っている。
「震災の日、わたしはこれをお父さんに読んでもらってアドバイスを貰おうとしたの。お父さんは読書家で、あの日も近所の書店に行こうとしてたのをわたしが無理に引き止めてしまった。それから書斎にこもって、わたしのくだらない小説をずっと読んでくれてた」
「それが、葵が自分を責め続けとる理由か」
「だって、どう考えてもわたしのせいじゃないの! わたしがいなければお父さんは助かった。崩壊する家の書斎で死なずにすんだわ! わたしにもっと勇気があれば弟だって助かったのに!」
孝介はおもむろに立ち上がって、葵の目の前に移動した。
「葵、真剣に聞いてほしい。俺は夢の中で死者と話すことが出来る。小さい頃からずっと死者と話をしてきた。もしかしたら、葵のお父さんと弟とも話すことが出来るかもしれん。彼らからの伝言が、きっと葵に前進する勇気を与えるはず」
内容とは裏腹に、あまりにも真剣に話す孝介の表情を見て、葵は不思議な感覚を覚えた。
「もちろん全部信じるわ。本当は自分でもわかってるの。この悲劇を乗り越えて前に進まなきゃいけないってことは。いつまでもくよくよいじけて、自分を責め続けていればいいだけの時期はとうに過ぎたことも。だけど、自分の意志だけじゃ難しい。だからお願い、孝介の力を貸して」
「わかった」
その後、二人は葵が義母に渡すはずだったカステラを分けて食べた。葵はときおり笑顔を見せるようになり、孝介も不思議と葵の父と弟の夢を見れるという自信があった。交互にシャワーを浴びた後、葵はベッドで、孝介はソファで眠った。
翌朝、孝介はいっさい夢を見ることなく目覚めた。葵の父と弟は現れなかった。
9
東京は通勤ラッシュの時間帯に入り、人々がせわしなく狭い道を往来している。ホテルを後にした二人は、しばらく街をさまよい歩いた。こんなにたくさんの人間がいるのに、まるで世界に二人だけが取り残されたような感覚だった。行く当てなどどこにもなかった。やがて疲れた二人は言った。
「島へ戻ろう」
東京へ向かった自分たちを逆再生するように、二人は行きと同じ行程で帰島した。行きと違ったのは、孝介がひどく落ち込んでいたということだった。
文明が生み出した乗り物は二人を着実に島へ運んだ。葵は、父が最期まで添削し続けてくれた未完の小説を繰り返し読んだ。そして、その小説の結末をとうすべきか考えていた。やがて二人を乗せたフェリーは速度を落とし、波瑠島港へ入港した。
午後六時半、すっかり陽も落ちきり肌寒い空気が夜の到来を告げていた。ターミナルを出て駐輪場へ向かう途中で、ふと孝介は立ち止まった。
「俺はこの島で亡くなった人の夢を見続けてきた。やけど、この島の外ではそういう夢を一度も見たことがない。この力は、この島自体に強く根ざしとるものなのかもしれん。葵……ここに戻ってきた今、もう一度だけ俺を信じてほしい」
「実は、お父さんは少しの間ここに住んでたらしいの。それがどう関係するかわからないけど、わたしは孝介についていくよ」
冷たい風に吹かれながらも、葵と孝介は強い絆と信頼で結ばれていた。
「あの場所へ行こう」
二人は自転車に跨がり、いつかの日のように島を西に駆けた。
満月の月明かりに照らされて、江下教会は神秘的な存在感を放っていた。午後八時前、すでに二人の身体はかなり疲労していた。今度は同じ場所に自転車を停めて、暗闇の中を注意して歩いてきた。石段を登って入り口までたどり着くと、ともに手を携えて扉を開いた。
無数の窓から月明かりが差し込み、中は思いのほか明るかった。二人は祭壇の前まで歩き、ヨゼフ像を見つめた。しばらくして、二人は自然と向かい合った。孝介は自らの左手を葵の聖痕まで運んだ。
「今度こそ、必ず」
痣を包み込むように手のひらをそっと添えた時、孝介の意識は夢の中へと導かれていった。
目を覚ますと、至近距離に葵の顔が映った。
「大丈夫? 急に眠っちゃうもんだから心配しちゃった」
まだ月明かりが差し込んでいる。孝介が眠った時間は一時間にも満たなかった。しかし、孝介の頭の中には新たな記憶が克明に刻まれていた。身体を起こして、葵の目をしっかりと見つめなおした。
「これから、葵のお父さんと弟の言葉を伝える」
「うん、お願い」
葵はヨゼフ像を見上げて、父と弟の言葉を待った。
『アオ姉ちゃん、ぼくアオ姉ちゃんと遊ぶのとっても好きだったよ。いつも優しく笑ってくれてたね。たくさんの楽しい思い出をありがとう。ぼくはもう一緒に遊ぶことはできないけど、心の中ではいつも一緒にいられるから寂しくなんてないよ。これからもっともっと、アオ姉ちゃんの優しい笑顔をみんなに届けてあげてね。それがぼくの唯一の願いなんだよ』
『葵と母さんを残したまま、父さんと有が先にこの世を去ってしまって申し訳なかった。でも、二人が生きていてくれて本当によかった。それだけで父さんは救われたよ。みんな一緒に死ねたらよかったなんて決して考えちゃダメだよ。
あの時の葵の判断は正しかったんだ。あの瞬間に逃げ出していなければ、葵は助からなかった。葵が逃げた後、すぐに隣家から炎が燃え移ってきてね。父さんはとっさに、葵の小説を窓から思い切り外に向かって投げたんだ。どうか葵の手に戻りますようにと願って。結果的にそれが実現して、父さんはとても嬉しい。あの小説の文章はまだ荒々しいけど、内容はとてもよかったよ。葵がどういう風に世の中を見て、なにを考えながら暮らしているのかがよくわかった。ぜひ、最後まで書ききってほしい。
最後に、人はいつか必ず死んでしまうものだ。どんな権力者でも大富豪でも、誰も死からは逃れられない。人生というのは死期がわからないから厄介であると同時に、死期がわからないからこそ目の前の物事に熱中することができる。なんらかの病気や事故に見舞われて偶然死ぬのが早かった時、それは悲劇と呼ばれる。確かに今回の震災は悲劇だったのかもしれない。でも葵、世の中をよく見渡してごらん。毎日どこかでたくさんの人が命を落としているだろう。それがたまたま父さんと有に訪れただけのことなんだ。そして葵と母さんには訪れなかった。神というのは、偶然という概念を人が理解できる次元にまで落とし込んだもののことなんだよ。こういう話は少し難しいかな?
いずれにせよ、君たちはまだ人として生きることができる。つまり、この世界でまだなにかをできるということだ。葵も母さんもまだ若い。何もせずに生きるには人生は長いぞ。父さんは、葵と有と母さんのおかげで満ち足りた人生を送らせてもらった。みんなに心から感謝している。ありがとう。いつまでもみんなを愛してる』
孝介は記憶を引き出し終えた。それを察した葵は、最後の言葉を懸命に解き放った。
「お父さん! 有! わたしずっとずっとずっと二人のこと愛してるから! 死ぬまで……いえ、何度死んでも何度生まれ変わっても何度でも愛すから! わたし、自分が世界で一番不幸なんだって思ってた。だけど一番とか二番とか、そんなことじゃないんだってやっとわかった。世の中にあふれる悲劇に対して、自分に襲いかかる悲劇に屈しない心を育まなきゃいけなかったの。わたし随分迷惑かけたよね。手のかかる子どもだったよね。それでもずっとわたしに向き合ってくれてありがとう。愛してくれてありがとう。ここまでわたしを連れて来てくれてありがとう。二人からの愛は十分すぎるほど受け取ったよ。本当に……ありがとう。わたし、死ぬまで強く生きていくから!」
教会を後にした二人は、いまこの瞬間に生まれてきた命のような清々しさを抱いていた。もはや二人の間に言葉は必要なかった。形容できない神秘の力で結ばれた孝介と葵は、この世界全体から祝福を受けたような心持ちだった。人間の心の可能性を知り、世界の景色が一変したのだ。もう恐れるものなど何もない。強く生きていこう。
月明かりに照らされた二人の後ろ姿は、この悲劇的な世界の片隅でたしかに強く佇んでいた。
人生でこんなに文字を書き続けたことはないだろう。孝介の右手は悲鳴をあげていた。一つひとつ丁寧に書かなければいけない。時間はかかっても、無理はせずにやり切ろうと考えていた。これまで見てきた死者の夢をひとつずつ頭から引き出す。不思議な事に、伝言を便箋に書き終えた瞬間から、その内容が記憶から消えていった。
最後の伝言を書き終えたとき、孝介の記憶の中にある死者の夢は父のものだけになった。父は、この力をどう使うかは自分次第だと言っていた。これは自分で考え、そして自分で決めたことだ。
「しかし膨大な量になったな……」
ひとりですべての手紙を届けるのは骨が折れる。誰かの手を借りよう。孝介の頭には夏海と拓哉と、そしてもう波瑠島にはいない葵の顔が浮かんだ。
エピローグ
東京は気持ちの良い陽気が続いています。毎朝、開け放ったカーテンから差す陽射しを浴びると、快い気持ちになります。編集の仕事にはまだまだ慣れませんが、毎日がむしゃらに働いています。小説も毎日少しずつ書いています。なかなか選考には通りませんが、書くのを辞めることはないと思います。書くという行為は、わたしにとってとても大切なことだから。
時の流れは世界を変え、そしてわたしを変えました。もう大人になってずいぶん経ちましたが、十年前の自分がまるでまったくの別人だったかのように感じます。いまでも、あの可愛らしい教会の中で幼子イエスを抱いたあの聖ヨゼフ像が脳裏に浮かびます。わたしは確かにあの島であの人に救われました。いま考えると、わたしがあの島へ行くのは運命だったかのように思えます。あれは、ある種の神秘体験でした。
来月、波瑠高校の同窓会が開催されるようです。結局、半年ほどしか在学しなかったわたしの元にも案内が届きました。当時のわたしはなにかと腐っていたので、親しい友人もほとんどいません。わたしが顔を出してもあまり歓迎されないでしょう。しかし会いたい人が何人かいます。だから勇気を出して、少しだけ顔を出すつもりです。
果たして、わたしはあの瞬間から少しでも前進できているのでしょうか。確かめる術はありませんが、わたしは確かにこうして存在し、生きています。どうしようもなく生きてしまっているのです。生者としてこの人生を全うし、実りのあるものにしなければなりません。それが、父と弟へのわたしなりの答えです。どれほど儚く悲しみに満ちた世界であっても、人は希望を抱き立ち上がります。あらゆる絶望は新たな希望の萌芽になる。希望というものは諸刃の剣でもありますが、希望なしでは人の魂はその光を失ってしまいます。世界というものは、それぞれがそれぞれの希望を持ち寄り、分かち合うことで成り立っているのかもしれません。
かつての臆病だったわたしを、今のわたしは決して責めません。臆病だったあの時期は、いま抱いている希望を作る上で必要不可欠な時間だったのだと思います。絶望してもいい、泣いてもいい、臆病になってもいい。すべてはより良い希望とともに人生を歩いて行くためのイニシエーションのようなもの。
波瑠島、そして鳴海孝介くん。新たな希望をありがとう。
永遠の愛を二人に、どうか安らかな眠りを。
四月十日