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わたしの夏休み

作者: 豆乳鍋

  

 さきほど自分が食べた朝食がぐちゃぐちゃになってシンクに流れていくのを四宮朋子は眺めていた。折角ご飯を作ってくれたおばさんに申し訳ないと思いながらも、朋子は吐いてしまったことは仕方のないことだったなあ、と考えてしまう。

四宮朋子は昨日に田舎の祖父の家に預けられた。事の発端は朋子の父の「おまえは農業が向いているんじゃないか?」という言葉だ。長い間不登校で進学が厳しくなった朋子に、学歴が関係のない農業を父は勧めた。朋子は、「それもありかな」と納得する。人と関わることが苦手な朋子にとっては、「報告、連絡、相談」所謂「ほうれんそう」を必要とするコミュニケーション第一の会社という集団の一員になるより、物言わぬ植物を相手にしたほうがいいのではと判断してのことだった。そして、父の実家が農業をしているということで、まずは農業に触れてこい、と朋子はここで夏休みを過ごすことになった。

 そこまではよかったのだが、やはり慣れない所で過ごすのは心細いし辛いものだ。朋子にとって一番苦しかったのは、料理が口に合わないことだった。例えば煮物。朋子の家ではしょっぱい味付けなのだが、ここでは妙に甘かった。卵焼きも同じく。野菜も違う。朋子はサラダが好きなのだが、この家は漬け物で出してくる。漬け物のすっぱみが朋子は苦手だった。味噌汁だって、何か違う味がする。そして、何より量が多い。朋子のご飯は、今が食べ盛り、野球少年の従兄弟と同じ量盛られるのだ。「朋子ちゃん、はいどうぞ」と笑顔で皿を渡されると、「そんなに食べられません」とは言えなかった。口に合わない料理を無理矢理詰め込んだ結果、朋子は吐いてしまった。朋子は胃酸の味がする口内をツンと冷たい水でゆすいで、顔周りを水で洗った。その背中に、祖父の声が掛けられる。

「朋子、今何をしているんだ」

急に声を掛けられ動揺しつつ、朋子は吐いたことを誤魔化すために、顔全体に水をかける。

「顔を洗ってました」

顔を洗って気分は爽やか! という顔を作って朋子は祖父に向き合った。

「朋子、単刀直入に言うんだが」

 祖父の低い声色に、吐いたことがばれたか、と朋子はぎくりとし、つくり顔が強張る。

「おまえ、友達がいないんだってな」

 その言葉に、そうきたか、と朋子は強張った体を弛緩させた。そしてはいと肯定する。朋子は他人を信じることができなくなり不登校になった。友達とも接することができなくなり、朋子はひとり部屋にこもってきた。祖父の反応を伺うと、祖父は朋子のことを可哀想な視線で撫でるように見た後、

「じゃあ、この村で友達をつくればいい」

 と微笑んだ。言っていることは間違いではないし、前向きで朋子のことを想った提案であるし、朋子もそれをわかっているのだが、「今更友達なんて……」と朋子の胃がきりきりとした。

 二年前、朋子にはまだ友達がいた。未紀というあまり素行がよくない明るく派手な子で、地味で人見知りな朋子とは正反対なタイプだった。けれど、何も関わりもないのに、

「朋子、遊ぼうよ!」

 といきなり未紀に名前を呼ばれ、未紀と朋子の関係が始まった。一緒にプリクラを撮ったり、ハンバーガーを食べに行ったり、カラオケで歌ったり。真逆の性格だったけれど、不思議とウマがあった。未紀が、自己中心的で、本音をそのままぶつけてくる人だからこそ、朋子も思っていることを素直にまっすぐ言えるようになっていき、未紀との関係は朋子にとっていい変化をもたらした。

 しかし、最悪の事態も運ばれることとなる。

「あんた、未紀と絶交してくれない?」

 ある日、ひと気のない非常階段で脅すようにクラスの女の子たちは提案した。なぜそんなことを言うのだ、と聞くと、「グループの子の彼氏を未紀が奪った、だからそれを後悔させる」らしい。男好きな未紀ならやりそうなことだった。でも、未紀はその彼氏とは別に好きな人がいることを、友達だからこそ朋子は知っていたので、

「そんなこと未紀はしないから、絶好なんてできない」

 と言い放ってしまった。以前の朋子なら、真っ向からそんなことを言えるはずがないのだが、未紀と一緒に過ごし、変わった朋子は自分の思いを伝えることができてしまった。

「未紀と友達のままなら、あんた、軽蔑されるよ」

 誰かがそう言ったが、朋子はそれでも未紀と一緒にいたかった。未紀は友達だ。この人たちは友達じゃない。友達じゃない人にどう思われようと、かまわなかった。彼女たちは、いつもな人の悪口ばかり言っていることを朋子は知っていた。自分の悪口が言われているのも知っていた。傷ついたけれど、未紀の悪口が言われているのを聞くと、それ以上に胸が苦しくなった。

 誰かの言葉通り、朋子はいじめられることとなってしまう。未紀が、「そういうの、最低だからやめなよ」と言っても、火に油を注ぐように彼女たちの怒りを買ってしまう。未紀の気持ちは嬉しかった。しかし、未紀のせいで――。

 もう誰とも関わりたくなくなって、朋子は学校へ行けなくなった。友達なんていらない。傷つき、傷つけられるだけなのだ。人間って、どうしてこんなに汚いのだろう。神様って、どうしてこんなにも意地悪なのだろう。

 朋子の目から涙が流れ出した。友達なんていらない。余計なお世話だ、おじいちゃんの馬鹿! 叫んで、朋子はどこかへ飛び出していった。





 知らない道をとぼとぼ歩き、真夏の太陽に灼かれる朋子の腹がぎゅるぎゅると空腹を訴える。胃の中身が空っぽだからか、腹が減った。田や畑日を遮るものがなく、直射日光が容赦なく降り注がれる。おまけに、見知らぬ場所にひとり、不安からくる胃痛が朋子を苦しめる。

 朋子はバス停を探していた。おじいちゃんに見つかって気まずい思いをする前に、どこかへ逃げたい。その「どこか」はわからないけれど、逃げたい、という強い願いはあった。ひとりで、静かで涼しいところで、安心して休みたい。その先のことは考えず、まずはそのどこかを探しているのであった。しかし、バス停はどこにも見あたらない。田んぼ、畑、電柱、時々建物、木、車が通らない道路、それらが朋子の視界を占めるすべてだった。それらを適当に配置して、この道をバグに侵されたゲームのようにループさせてるのではないか、と思えるほど、代わり映えしない。

 空が赤くなりかけたとき、「バス停が見つからないなら、誰か知っていそうな人に聞けばいい」と朋子は考えた。このまま当てもなく歩き続けるのは得策ではない。誰かいないか、と周りを見渡すが、畑にも田んぼにも人がいない。ちょっと前まではちらほらいたのに、と朋子は乾いた唇を噛む。すると、朋子を嘲笑するかのようにたくさんのカラスがガアガアと鳴いた。泣きそうになりながら、それでも希望を捨てずに歩いていると、道を枯らすが通せんぼしていた。近づいてもカラスはそこをどこうとはしない。あっち言ってよ、という言葉は喉の痛みにより、なかったこととなった。朋子は崩れ落ちた。カラスが原因じゃない、気落ちしたのでもない。単純に、長時間歩き続けていた足が限界だったのである。

「(体が動かない)」

 声も出ない、足は動かない、空腹であり、喉が渇いた。ここからどうしようと朋子は考える。逃げなくてはいけないのだ、だからここで座り込んでいるわけにはいかない。そんな朋子に影が落ちた。

「えっと、どうしたの、君。だいじょーぶ?」

 間延びした声。夕日を背にして目の前に立っていたのは、村人だろうか。姿は逆光で見えないが、台車と一緒にここまで来たらしいことはわかった。バス停はどこですかと聞こうとしたが、声が出ない。折角のチャンスだ、言わなくては。

「バスに乗りたいんですけど、バス停はどこに……」

「バス? 今日の最終バスはもう行ったよー」

 村人は非情な事実を告げる。田舎のバスはこれだから。朋子は心が折れそうだった。今日はどこかで夜を明かし、始発に乗ればいいのではないか、と考えて、それでもいいから場所を教えてくれませんか、と言った。

「ここから何キロ先だっけ。まっすぐ行って、田中商店前にあるよ」

 距離は把握できなかったが直進するだけという情報は有益だ。

「ありがとう、ございます」

 掠れた声だけれども、しっかりと礼を述べる。

「んー、君、どうしちゃったの? 顔青いし、声おかしいし。訳ありな感じ?」

 この地域じゃ、家で地位の低いお嫁さんが脱走するのは珍しくないんだよね、と村人が言う。脱走という二文字に、この村人はもしかして私を強制送還させる気か、と朋子は身構えた。ちょっと待て、それ以前にお嫁さんが脱走するのが珍しくないって。

「うちで休んでく? どうせ明日にならなきゃバスは来ないし」

 その気遣いは朋子を驚かせた。しかし、ありがたい申し出だが、こういう時に他人に甘えられる素直さを朋子は持ち合わせていなかった。あの日から、「一人でも生きていける」を信条にしているくらいだ。

「そのままじゃ危ないし、ここで死なれても後味悪いし」

 死にそうに見えるのか、と朋子は引き攣った顔で笑った。それもいいかもしれない。どうせ、自分などいなくても何も不都合はないのだ。

「おいしいご飯、ご馳走するからさ。今日は豚の角煮作るんだー」

 豚の角煮……。

 朋子は村人のところで厄介になろうと決めた。ちゃんと借りは返せばいいだろう、と信条に特別ルールを設ける。やはり空腹に勝てるものは何も無い。どんなにつらい悩みがあっても、冷たい枷が身体を縛っても、死にたくなっても、とろとろの脂身が魅力的な豚の角煮を前にしたらどうでもよくなる。その場凌ぎにしかならないことは気づかないふりをして朋子は台車に乗せてもらい、村人の家まで運ばれることになった。

「そうだ、ジュース飲む? ぬるいけど、何もないよりはいいよ」

 村人は台車に乗せてあった小さいビニール袋から、オレンジ色の中身が入った瓶を朋子に渡した。「俺の大好物」と村人が告げる。嬉しそうな声。声色で、それが本当に好きなのだ、とわかった。もう一つ、この村人はおそらく若い。子供のようなトーンだったからだ。村人を見ると逆光の状態ではなくなったので、彼の姿がはっきり見えた。

「ああ、名乗ってなかったけれど、俺は遊馬八朔です。このへんじゃ『遊馬』はありふれた名字だから、『八朔』でよろしく。年も近そうだし」

 人の良さそうな笑顔で瓶ジュースをくれる彼を見て、朋子はなんだか安心した。

「四宮朋子です。ジュース、ありがたくいただきますね」

 四宮さんのとこのお嫁さん? と八朔は訊いた。この年で嫁だと判断されるのはおかしいのではないかと思ったが、この田舎じゃ若いうちに結婚するのかもしれない。果汁二十パーセントのオレンジジュースを一口飲んだ後、自分は孫で嫁ではない、と説明した。

「どこの四宮さんだ?」

 八朔の言葉に、先ほど『遊馬』はありふれた名字だと言ったのと同じで、『四宮』もここの地域にたくさんいるのかなあ、と朋子は考えた。

「えっと、家の近くに大きなトマト畑があって、柴犬を飼っているところです」

「わかった。その四宮ね。トマト畑のとこ」

 そういえば、毎年この季節になると、おじいちゃんは夏野菜を家に送ってくれたっけ、と朋子は思い返す。きゅうりや瓜は嫌いだけど、トマトは好き。つやつやしていて果物とは違った青い甘さがある。

「で、どうして君はあんなに必死で逃げてきたの?」

 家出のようなものです、と朋子は小さな声で言った。八朔が先述したような嫁いびりが原因ではない。祖父が朋子の地雷を踏んで、それに勝手に逆上した朋子が勝手に逃げて来たのである。そう認めてしまうと、朋子は情けなくなって、この世から消えたくなった。どうせなら、自分が悪いとも認められないろくでなしならよかったのに。

「家出? 家の人、心配してるよ」

 ごくごくとジュースを飲みながら、その通りだと朋子は思った。しかし、すごすごと戻る勇気と面の皮の厚さは朋子にはない。

「事情は知らないけど、今日はうちに泊まってけば? その先どうするかは考えてね」

 その先、どうするか。おじいちゃんに謝らなくては、とはわかっているのだが、帰りたくない。黙り込んだ朋子に、

「ごめん、偉そうに。過去も未来も君の自由だから、好きにしてくれていいと思う。でもこのへんじゃあ、急にいなくなったら、熊に襲われたのか、とか、山で遭難したんじゃないか、とか危惧されるだろうからさ」

 と八朔が声を掛ける。ごめんとは言っているが申し訳なさそうな声ではなかった。彼の声は軽い。形だけにも聞こえる言葉だ。しかし、八朔の正論は朋子の精神に沁みて朋子を追い詰める。

 けれどそれからの八朔は、さっきの瓶ジュースの魅力について延々と語るのみだった。それが朋子には嬉しかった。


 テーブルに乗せてある皿の数々。オクラのおひたし、トウモロコシを茹でたもの、トマトのサラダ、白米、麩の吸い物、豚の角煮が空っぽの胃を誘う。

「すごくおいしそうです」

 半ば極限状態だった朋子には、目の前のご飯がとんでもないご馳走に見えた。

「俺とじっちゃんで作ったんだー。召し上がれ」

 八朔は、二人暮らしで農業を営んでいると、この家に来てから教えてもらった。八朔の祖父は、全くの他人である朋子のことを歓迎してくれた。八朔と同じく、親切な人だ。八朔に拾われてよかった、と朋子は心から思う。幸運だった。

 朋子は、手を合わせていただきますをしてからまずトマトのサラダに箸を伸ばした。朋子の好物はサラダである。バジルとオリーブオイルが掛かったそれを口へと運ぶ。ハーブの風味と、甘酸っぱい果汁が口に広がった。先刻まで心身ともにぼろぼろだったせいで、なんてことないシンプルなサラダなのに、それは今まで食べたことがないくらいおいしく感じる。朋子は、次は豚の角煮を食べた。柔らかい、脂たっぷりの肉。おいしすぎて泣けてくる。

「え、何で泣くの……」

 引いた表情の少年に、朋子はこんなにおいしいご飯は食べたことがありません、本当にありがとうございますと伝える。

「そんなに喜ばれたら、この野菜も豚も嬉しいだろうよ……」

 少年が苦笑する。

「朋子ちゃん、もし料理が気に入ったのならうちの娘にならんか。毎日食べていいぞ」

 八朔のおじいさんは嬉しそうに笑った。続く言葉にどう返事をすればいいか朋子は迷う。

「困ってるよ。女の子の孫が欲しいからって、簡単にそういうこと言っちゃ……」

「すまん。ついな」

 すまんと言ってはいるがすまなそうな声ではなかった。八朔と似ていて、遺伝かなあ、と考えてしまう。おかしくて、朋子は吹き出してしまった。

「……笑ってくれて、よかった」

 八朔の言葉に、これもどう返していいかわからず、曖昧に微笑むことしかできなかった。




 洗い物を手伝おうとしたが、「キッチンは片付いてないから入らないで欲しい」と断られてしまった朋子は、シャワーを借りて、布団を運ぶ。そして、客用の部屋に通された。

 何もない畳の部屋に布団を下ろす。

「朋子ちゃん、朝起きたら私達はビニールハウスで作業をしているから、ラップ外してレンジであたためるなりしてご飯食べてね」

「あ、あの。私、お手伝いしてもいいですか。少しでもお礼がしたいです」

 朋子が、案内してくれた八朔の祖父に願い出る。

「朝早いし、手え荒れるから、やめときなさい」

 それでも、恩を返さないと気が済まない朋子は、「農業に興味があるんです」と訴えてみた。嘘じゃない。

「……じゃあ、明日の朝、すぐそこのビニールハウスに来なさい」

 はい! と返事をすると、八朔の祖父は、「明日早起きするなら今日はもう寝なさいよ」と就寝を薦めた。疲れ切っている朋子は、言われなくてもそうするつもりだった。八朔の祖父が部屋の障子を閉めて出て行くと、朋子は素早く布団を敷いて、それに倒れ込んだ。

 寝転がるだけで、疲労が癒される気がする。これから朝まで、もう動かなくていいのだ。明日の心配は、後でいい。今はただ休もう。朋子は現実逃避した。そのまま、眠る。





 朋子の部屋のベッドには、テディベアがある。朋子はテディベアを抱きしめながら、声を聞いていた。部屋の外から、誰かの声が聞こえる。

「私、あなたの教育を間違えたのね。ごめんなさい朋子」

 引きこもりの朋子に謝罪をする母の声。悪いのは、自分だ、と朋子は訴えようとしたが、声が出ない。

「四宮、いい加減学校に来ないか? みんな心配してるんだ」

 行きたくない。

「何で来たの? ずっと引きこもってればいいのにねー」

 聞こえる。

「朋子、私、何か悪いことした? どうして、私のこと……」

 いやだ。そんな、泣きそうな声をしないで欲しい。テディベアに顔を埋めて、その言葉たちを無視した。聞こえないふり。会話さえしたくない。

 ふと、どこかひんやりとして見える部屋のスライドドアの隙間から、光が差し込む。

「こっちへおいでよ。そんなところにいないで、外へ――」

 すす、とスライドドアが開く。いやだ、開けないで。来ないで、入ってきたら、だめ。

 必死にやめて、と繰り返すと、ドアは七センチほど開いたところで止まる。そして、白い手が、誘うように伸びてくる。こんなところへ閉ざされて、ずっといるつもりなの?

 その手を、朋子は振り払った。

「嫌!」

 しかし、その手は空を切って――。部屋が光で照らされた。蛍光灯の白い光だ。

 見えたのは畳と開け放たれた襖だった。




 人の気配がして、布団から身を起こして確認する。

「随分とうなされてたみたいだったから、起こしに来たけど、よかったよね」

 照明のスイッチを入れる紐を持って心配そうにこちらを見ているのは八朔だった。

「あー……、はい」

 ぼんやりとした思考で、朋子は部屋をきょろきょろ見渡す。私、確か家出をして、足が動かなくなって、ここに来て……夢を見て、その夢が真っ白に塗りつぶされて。

「もしかして、寝言か何かで起こしちゃいましたか?」

「そうだけど、どうせもう起きる時間だったから問題ないよ」

 しかし、縁側にある障子の向こうは暗かった。そう言えば、昨日「朝が早い」と八朔のおじいさんが言っていたから彼ももう起きる時間なのだろう。私も起きて、着替えて手伝いをしないといけない。朋子は布団を畳んだ。

「どちらにしても、ごめんなさい。聞き苦しいものだったと思います」

「気にしないで。俺も怖い夢とか見るんだよねー。姉が包丁持って追いかけてくる夢とか、育ててる作物全部病気になる夢とかさ」

 八朔は紐を弄びながら、目を伏せた。八朔には姉がいるのか。しかし、姉の姿がいない。もう独り立ちをしたのだろうか。独り立ちできるだなんて、しっかりした人なんだろうなあ。

「途中で夢だって気づいて、早く起きろって思ってみても終わらない夢でさあ。まるで再生停止が出来ない呪いのビデオみたいで苦しかったりするんだ。だから、君の夢は俺が終わらせてあげよーって思って起こしちゃった」

 彼も怖い夢を見ることがあるんだ、と朋子は親近感を覚える。

「おかげで助かりました。八朔さんのおかげで白い手から逃げることができたんです」

 あそこで手に捕まっていたら、その先はどうなっていたのだろうか。逃げてよかったのだろうか。あの手は、もしかしたら救いの手だったのかもしれない。まあどうせ夢だし、すぐ忘れてどうでもよくなるだろう。しかし、確実に言えることがあった。朋子は、夢のような罪悪感から逃げて、逃げてはいるけれどそれに今も苦しめられていること。どうすれば、それを完全に振り切ることができるのだろうか。

「ならよかった」

 八朔の声を聞きながら、朋子はこのままでは駄目だと思った。逃げ続けて、もう誰も傷つかないならそれでいいかもしれない。しかし現実問題として、学校と友達から逃げ親を傷つけ、親から逃げて祖父を傷つけたのだ。そして、おそらく次は彼の番が来る。その前に、どうにかこの悪循環を打破する方法は……。

 朋子は考えながら畳んだ布団を部屋の端に寄せた。すると、脚に電撃が走ったような痛みがする。筋肉痛だ。昨日、あんなに無理をしたから仕方ないか、と苦笑した。





 筋肉痛を訴える体に鞭を打ち歩き、遊馬家のものであろうビニールハウスに着くと、朋子は目を輝かせた。小菊の花がたくさん咲いているのが見える。花畑のようだった。

 八朔の祖父から花の切り方を伝授してもらい、朋子は鋏で小菊を切っていく。切った小菊はまとめてバケツに突っ込む。単純で簡単な作業で、力もいらない。しかし、小菊はいっぱい咲いているので作業量自体は多い。朋子はただひたすらにちょきんちょきんと茎を切断する。筋肉痛は辛いが、黙って作業するのは非常に楽だ。朋子はこういう仕事っていいよなあ、と思う。喋らないもの相手だと気が楽だ。最近、すれ違う人が自分の悪口を言っている気がするし、笑っている人は自分を見て冷笑しているように見える。

 バケツの乗った台車八台分菊を収穫すると、「終わりー」と八朔が言って、オレンジジュースを渡してきた。朋子は立ったままそれを飲む。

「助かったよ。お疲れ様」

 朋子は顔を綻ばせた。感謝の言葉を貰ったのはいつぶりだろうか。嬉しいものだ。

「ただただ鋏を動かす作業は辛かったよね」

「そんなことないです。素敵な仕事だと思います」

 本音を告げる。黙って茎を切るだけなら何時間でも働けると思った。実際問題、菊を育てるのには肥料作りや水やりなど他にもやることはあるのだろうが。

「そう言ってくれると嬉しい。俺、この仕事好きなんだよね。愛情を注げば、ちゃんとこいつらは応えてくれるから」

 八朔は、そう言って収穫された小菊に視線をやった。手塩にかけて育てられたんだ、とその眼差しだけでわかる。人間じゃなくてこの花に生まれたかったかも、と朋子は真剣に思った。今更どうしようもないけれど。八朔は優しい視線を小菊から離して、朋子の方を見た。

「さ、ノルマは終わったし、この先君はどうしたいの? 送ってほしいとこがあるなら送るし、バスに乗って帰るならバス停まで案内するけど」

 朋子は、ビニールハウスの外へ出て空を見上げた。青い空と眩しい太陽が揃っていれば勇気が出てくる気がしたが、空は生憎の曇天。でも、朋子はもう決意した。逃げることをやめて、帰らなければ。帰って、おじいちゃんに謝るのだ。八朔の、家の人が心配している」という正論はもっともだと思ったし、この先逃げる場所なんて、ないに決まっている。ずっと逃げ続けていられるほど朋子はタフじゃない。だから、頭を下げておじいちゃんに許してもらい、帰ろう。たとえそこに朋子の居場所が無くても、あのとき「おじいちゃんの馬鹿」と叫んでしまった罪悪感は薄れるだろうから。

「結局、自分の利益しか考えてないのが笑える」

 朋子は諦めたような表情を浮かべて吐き捨てた。けれど、これがベストだとも思う。





 朋子は軽トラに乗せられて、風を裂きながら祖父の家へ向かっていった。朋子が逃げてきた一本道の風景が流れていく。ここをあんなに苦しんで歩いたのに、車で移動するとこんなにも楽で早い。もう祖父の家が見える。もうすぐ到着だ。乗っている最中、朋子は荷台の上でおじいちゃんに謝るシュミレーションを重ねていた。自分勝手な行動をしてしまい、ごめんなさい。あんなことをいうつもりなんてなかったんです。風がかき消す小声の謝罪。朋子はふと、自分の手を見つめた。そして、自分を安心させるように手を握り、胸にやった。大丈夫、大丈夫……。そうしていると、ぽつりと水の粒が降ってきた。雨だ。よくないことがおきる予感がする。

 でも、もう私は逃げないんだ。朋子は家の近くの畑にいる祖父の姿を見つけ、トラックから降りる準備をする。トラックはゆっくりと停車し、朋子は荷台から飛び降りた。そして、祖父の元に駆け寄ろうと走る。瞬間、筋肉が悲鳴を上げて、無理に走らなくてもいいかと朋子は歩くことにした。同乗して来た八朔と八朔の祖父も続いてくる。

「まずいな」

 八朔の祖父が焦ったような声をあげた。何がまずいのだろう。

「あの、どうかされましたか」

「このままじゃ、裂果に……」

 れっか? 朋子がれっかとは何だろう、と考えていると、八朔が説明してくれる。

「このところ、暑いのが続いていて、トマトは水分不足気味なんだ。それに、こんな雨でいきなり水が過剰供給されたらトマトが割れちゃうってのが裂果」

 裂ける果実で裂果か。水分不足で縮まったトマトの皮に、雨で膨らんだトマトの実がついていけないのだろう。朋子は納得した。でも、それって相当大変なことじゃないか? 商品作物としてトマトを育てている祖父一家だが、そのトマトが全部割れたら、商品価値が下がって、損失が出るのでは……。農業について明るくない朋子でもわかる。

「タイミングがいいんだが悪いんだか、俺、君に渡そうと思って、今日手伝って貰ったときに使った鋏を持ってたりするんだ」

 菊を切ったときに使った鋏を八朔に渡される。朋子はそれを受け取って畑へ飛び込んだ。それに気づいた祖父が、朋子に訴える。

「ああ、朋子。大変だ、説明してる暇はない、手伝ってくれ……っ」

 祖父の目には涙があった。み、見ていられない……。朋子は了承してトマトの列に入った。たぶん、このへたの上部を切り取ればいいのだろう。ぱちん、とトマトを収穫する。八朔が青い籠を持ってきてくれて、それにトマトを入れた。

「急がないと、どんどん割れてくから。できるだけたくさん、獲ってあげよう」

 このトマト畑とは関係ない八朔と八朔の祖父まで手伝ってくれる。彼らには感謝してもしきれない。しかし、ありがとうを言うのは後だ。今はただ、収穫し続けるだけだ。雨に濡れるのも構わず、朋子はトマトを収穫し続ける。数時間扱い続けたからだろうか、鋏が手に馴染んでいる。大丈夫、割れる前に沢山収穫できるはず。おねがい、力を貸して、と雨に濡れた鋏を朋子は強く握った。

一列の半分まで収穫していって、朋子は割れたトマトを見つけた。雨は強くなり、朋子の髪を、肌を、服を濡らし、畑の土を泥に変えていく。時間はあまり残されていない。朋子はそのトマトを無視して、ほかの無事なトマトを籠に入れていく。その作業を続けて、時間が経つごとに割れたトマトが増えてくる。泣きそうだった。最終的には、割れたトマトの中から無事なトマトを探す作業になってしまった。




 もう、駄目かな……割れたトマトしか残っていない。朋子は三籠少し収穫したトマトの山を見る。これしか、できなかった。朋子は、トマト畑を見る。緑の中に、割れたトマトの赤と、あちらには緑が、点々と。途方に暮れていても仕方ない、と朋子は籠を持って歩き出した。

祖父母、おじさんおばさん、従兄弟、朋子の知らない村の人、八朔と八朔の祖父が朋子を出迎えた。今は謝ることができる雰囲気ではない。どんよりと重い空気が流れている。八朔が、朋子に気づいてこちらに歩いてきた。

「朋子ちゃんが助けてくれて、おまえら、よかったね」

 トマトをひと撫でする八朔。このトマトたちは助けることができたんだ。……そう、考えなきゃ。

「うん、でも……」

 割れたトマトを見たくなくて、後ろを振り向きたくなくて、朋子は籠に視線を埋めた。涙が赤い実にぽつりと落ちる。

「ごめんなさい……」

 なぜトマトに謝ったのか、朋子自身にもわからなかった。割れたトマトのように、朋子が謝りたいたくさんの人との関係は割れて裂けたまま、もう戻らないかもしれない。そう考えたから、泣いてしまったのだろうか。

「泣かなくてもいいじゃん、君は悪くな……」

「そうだ。悪いのは、俺だ」

 八朔の声を遮って、おじいちゃんの、弱々しい声がする。いつもは威厳のある、堂々とした声なのに。

「俺が、コストと労力を気にして、大丈夫だと思って今年は雨よけをしなかったから……」

 祖父は俯いてしまって、八朔はばつが悪そうに視線を逸らした。朋子は、祖父にかける言葉を見つけることができず黙り込んでしまう。しかし沈黙が辛くなって、朋子は声を上げる。

「私、損失をちゃらにするくらいたくさん頑張るから、おじいちゃん、元気出して」

 自分ひとりが頑張ったところで何になるんだろう。それは、朋子自身でもわかっていた。しかし、他に言葉がないのだ。

「ここで働くというのか、でも、この仕事は体力勝負で朋子には」

「私がやるって決めたから」

 ばっと頭を下げる。

「自分勝手でごめんなさい。昨日も、自己中心的な行動の結果、おじいちゃんたちに迷惑かけました。だから、私、許してほしくて……」

 籠を置いて、勢いよく頭を下げた。ああ、やっと、本人に謝ることができた。

 これで、やっと。雨に濡れて風邪を引いた幼子のようにぷるぷると震えて目を瞑る。大丈夫。大丈夫、なんと言われようが受け入れる覚悟はできている。

 ぽつり、と髪に水の粒が落ちた。

「おまえは、あの息子に育てられた割にはいい子に育ったみたいだ」

 濡れた頭に雨にふやけた手が置かれた。

 この村と農業を捨て、どこかの娘と駆け落ちをした息子の子なのに、孫娘はこんなに素直で一生懸命に育ったらしい。トマトに向き合う真剣な瞳と、必死に鋏でへたを切り取る孫娘の姿が、瞳の裏に浮かんだ。

「それだけで、俺は十分、幸せなのかもしれないな」

 おずおず顔を上げた朋子から水滴が飛んだ。はい、と涙を流しながら返事をする朋子は決意する。

 ここで頑張るんだ。

「……朋子、明日から、忙しいぞ」

「はいっ」

 もう一度返事をする。八朔を見るとマイペースに割れたトマトをもぐもぐと咀嚼していた。目が合うと、こっちへおいで、と手招きされる。どこかで聞いた声だった。八朔がゴム手袋を外してやけに白い手を差し出した。

 もしかして、あの声は……。

「よかったら、これからもよろしく」

 今度は手を振り払わない。手が虚空を掴むこともない。

 自分より少しあたたかい手のひらと朋子は握手をして、もう片方の手で涙を拭った。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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