右手人差し指の結婚指輪
「お母さん」
夏の終わりの足音がまだ遠い九月上旬の晩。
縁側に腰掛けた真紀は、正面に植えられている朝顔に視線を置きながら、ポツリと呟いた。
茶色く萎んだ花弁はダラリと下を向き、真紀の長い髪と同じく夜風にさらさらと揺れている。
その蔦は家を囲む柵にくるりと巻きつき、早々に枯れた落ちた花とは違い、今だに萎れない緑の葉をつけていた。
心地よい夜の爽やかな風が、縁側に年中掛けられている風鈴をちりんと撫でる。
「私ね、いっぱい考えたんだよ。これからの事」
真紀は足を伸ばして、足先に突っかけたサンダルを意味なく左右に揺らした。
右足のサンダルが地面に落ちて、ひっくり返える。
「あの人ね、本気なんだって」
ふふっと自嘲するように笑いながら足を戻し、左足のサンダルも脱ぎ払う。
その二足は地面の上で雑な八の字型に並んだ。
右手を空に突き出し、その人差し指をぼんやりと眺める。
コオロギの鳴き声に混じり、スズムシの歌も聞こえてきた。
真紀は目を閉じると、一昨日の事を思い返していた。
−−−−−−−
その日は昼間からどんよりした空模様だった。
一年前に遭った交通事故により、左手首から先と右手の中指から小指を失った真紀は、勤めていた東京の大手食品メーカーを解雇され、地元に戻り再就職先を探していた。
しかし、左手と右手の半分以上の指を失った真紀に職を与えてくれる会社は、そう簡単には見つからない。
この日も面接を受けに行ったが、面接官に「その腕で仕事が出来ますか?」とか「右手があるからトイレはお世話要りませんよね?」などと、心無い質問をぶつけられては狼狽した。
それでも彼女が心を折らず頑張れる理由は、高校生の頃に病気で亡くなった母の言葉があったからだ。
母が臨終際に笑顔で言った最後の言葉。
『幸せに生きるのよ』
真紀と父に優しく囁くと、一筋の涙をこぼして、真紀の母はこの世を去ったのだった。
それからは、父も真紀も強く生きて行こうと決めた。お互い母の事を思い出しても、暗くならない様にいい思い出を思い浮かべた。
こんなにも早く亡くなった母を考えれば、いくらでも頑張れる気がした。
しかし、そんな真紀も今回は心が折れてしまいそうだった。
ここもダメか……
重い足取りで帰路に着く真紀は、自分の両腕を見る。
左腕は手首から先が無く、この頃毎日のように着ているリクルートスーツの袖からは骨を覆った肉が見えるだけ。
右手は指が二本だけ残っているが、ジャンケンもまともに出来ないような手だ。
揺れる電車でつり革に捕まる二本指のその手は、他の乗客たちの注目を浴びる。
ヒソヒソと真紀を指差して話す人もいる。
実家の最寄り駅で電車を下りると、抑えられない感情に涙が溢れだした。
必死に隠そうと早歩きで誰もいないベンチにうずくまった。
こんな時でも人目を気にする自分が嫌になったが、幸いにも駅のホームにいる人は多くなかった。
涙が頬を伝いホームの地面にぽたりと落ちた。
(もしも貴史が今の私を見たら、なんて言うかな?)
そう考えたら、一度溢れた涙を止めることは出来ない。
人の疎らなホームのベンチの上で丸まるようにして、誰にもバレないように声を殺して泣いた。
(つらいよ……貴史……)
フラれるのが怖くて、自分から一方的に別れを決めた恋。
そんな自己中心に終わらせた恋の相手の顔を、未練がましく思い浮かべている自分がいる。
−−−−−−−
貴史は大学の頃から付き合っていた一つ上のサークルの先輩だ。
真紀はこんなに大人しくて地味な自分のどこがいいのか、いつも疑問に思っていたが、貴史はそんな真紀に「いつか結婚しような」と言っては、いつも笑っていた。
地味な真紀に対して、貴史は真紀の所属するテニスサークルで部長を務め、周りには多くの友人がいる所謂『目立つ先輩』だった。
勿論、そんな貴史の周囲には可愛い女性もたくさんいる。
真紀自身、貴史に対して「部長、かっこいいな」とくらいにしか思ってなかった。
自分に自信がない真紀にとって、貴史のような先輩は高嶺の花である。
自分とは別の世界の人だと割り切っていた。
それなのに、貴史はいつも真紀を気にかけていた。
真紀が課題をするために図書館に行けば隣の席に座り、学食で一人で食事をしてる時は、仲間の輪から離れて自分の隣にやって来た。
ヒューヒューとからかってくる周りを「静かにしろよな」と宥める貴史を見ては、頬を紅く染めたものだ。
初めの頃は戸惑った。
(どうして私をこんなに気にかけてくれるんだろう?)
純粋に真紀を思ってくれる貴史に、真紀の心は少し揺れた。
困った事があれば、手を貸してくれる。
楽しい事があれば、一緒に笑ってくれる。
もし、こんな人が彼氏だったら……
そんな妄想をしては、頭を振って追い払った。
こんな素敵な人が彼氏になんてなるはずない。
しかし、貴史は本気だった。
ある晴れた夏の夜。課題の手伝いをしてくれた貴史と駅に向かう帰り道。
少し寄ってこう、と立ち寄った公園。
並んで腰掛けたベンチで、貴史は顔を真っ赤にして真紀に告白した。
「初めて会った時から素朴で飾らない真紀が好きだった。付き合ってくれ」
そんな貴史のまっすぐな告白に、真紀ははにかみながら「うん」と頷いたのだった。
こうして二人は恋人になった。
しかし、真紀は自分に自信が無い。
それも当然だろう。
特別に可愛いわけでもないし、体だって子供のようで女らしさが足りない。
成績も普通だし、運動神経がいいわけでもない。
化粧の仕方も分からなければ、甘え方も分からない。
でも貴史は違う。
周りの女友達は可愛い子が多いし、男友達からも頼りにされる。
明るい性格で成績も優秀、おまけにスポーツ万能。
さらに顔も、テレビで見る芸能人なんかよりもずっとかっこいい。
女の子の後輩たちなんて、みんな貴史を見て「キャーキャー」と騒ぐくらいだ。
付き合った当初から、真紀は「好き」という感情と共に、自分と貴史の間にある「なにか」に引け目を感じていた。
(どうして私なんかを選んだんだろう?)
そんな卑屈な真紀に対して貴史はいつも言っていた。
「真紀は素敵だよ? もっと自信を持って欲しい」
(貴史は何でこんなにやさしいんだろう。こんな私にでもこんな言葉を言ってくれるなんて。
でも私ね、そんな自信ないよ……)
自信がなくても、二人でいる間は幸せだった。
自分の事は考えないで、貴史ばかり見てればよかったから。
しかし家に帰り、一人になれば不安でたまらない。
こんな自分の元を、貴史はいつか離れて行ってしまうのでは無いだろうか?
そんな不安はいつでも真紀の心にこびりついていた。
幸せが大きければ大きいほど、こびり付いた不安も影を大きくしていく。
貴史が大手家電メーカーに就職が決まった時、「やったー!」と、子供のようにはしゃぐ彼を見て、学生と社会人の距離に不安になった。
仕事で忙しいのはわかっているが、メールの返信が無ければ不安になった。
卒論のアドバイスを貰おうと電話をした時、「悪い、後にしてくれ」と言われては不安になった。
真紀の就職が決まった時、「今日は残業で遅くなる。お祝いは今度にしよう」と言われては不安になった。
頑張って甘えてみても「忙しいんだ、後にしてくれ」と言われては不安になった。
貴史の無期の海外転勤が決まった時、もうダメかな? と思った。
そして、貴史が日本を去って一年が経った時、事故で手を失い、もう終わりだと思った。
何もなかった自分が、手まで無くしたのだ。もちろん手を無くした痛みとショックは大きかったが、貴史が知ったらと考えたら夜も眠れなかった。
事故から一月半が経ったある日。
徐々に回復してきた真紀は、事故の事を一切話さず、適当な嘘をついて一方的に別れを切り出すことにした。
貴史から捨てられるのが怖かったのだ。
真実を告げたら、貴史のほうから離れていってしまうのではないだろうか?
そう思うと、怖くてたまらない。
だから嘘に恐怖を預けて、自分の中に「私から別れを告げた」というせめてもの予防線を張りたかったのだ。
そんな真紀に対して、貴史は当然のように反対した。
「おれは絶対に別れたくない。会ってゆっくり話そう」
そうは言っても、彼は遠い海の向こうにいる。
一年に何度か帰っては来れるが、それでも一緒にいる事の出来ない時間は真紀にとって長過ぎた。
だからなのか、そんな貴史をきつく突っぱねた。
どうせ、いつ帰って来れるかわからない。
何年か経てば、きっと貴史の心は離れてしまうだろう。
それに、今の自分はこんな手だ。
知られたら、きっと貴史は離れていってしまうだろう。
捨てられるくらいなら、自分から離れよう。今まで必要とされてた自分が「不必要」の烙印を貴史から押されるのが恐ろしかった。
真紀がそう思ってしまうほど、貴史の存在は大きく、特別だった。
しかし、何度も突っぱねても折れずに真紀に向かってくる貴史。
そんな彼の姿に、真紀も心が痛んだ。
それでも、貴史から捨てられる恐怖には抗えなかった。
「私、今別の人と付き合ってるの! ずっと外国で私を放ったらかしにする男よりもっと良い人。本当に今幸せだわ!」
真紀の最後の嘘に、貴史も食い下がるのを諦めた。
そして、貴史は最後に真紀に問う。
「……本当に、幸せなんだな?」
自分でも卑怯だと思った。
大好きなのに、一緒にいたいのに……
本当の事を言いたい。
事故にあって手を無くしたの。だから私を支えて、と。
言ってしまいたい。
これからもずっとあなたと一緒に生きたいと。
でも……怖い……
「ええ、幸せよ。だからもう連絡しないで。お仕事頑張ってね。さようなら」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
しかし、その声色とは裏腹に溢れ出す涙。
それを悟られないように、すばやく電話を切った。
一年前の最後の会話。
これがふたりの最後の会話。
こうして二人の恋は終わった。
−−−−−−−
「どうしたんだ?」
駅のホームで声を殺して泣いていると、背後から声が掛けられた。
ベンチにうずくまっていたから心配されたのだろうか。
だとしたら申し訳ない。
ただ自分の感情をコントロール出来なかっただけで、心配されるような事なんてないのに。
「いえ、なんでもありません」と口から出かけた時、真紀の心臓はトクンと脈打った。
え? この声……
「ほら、立って。帰るぞ」
ぐっと腕を引き上げるその手は、よく知っているゴツゴツした手。
「しかし、もう九月なのに日本はまだまだ夏だなあ」
懐かしくて心の何処かを締め付けるような優しい声。
振り向くとそこには貴史がいた。
毎年、正月ぐらいにしか帰って来れないと言っていた貴史が。
「た、貴史?」
「おう、久しぶりだな真紀」
彼はニコッと笑って、真紀の頬を伝っていた涙を親指で拭った。
真紀は戸惑った。
あれだけ酷く突き放したのに、今更帰って来てどうするつもりなのか?
それに事故の事は言ってない。
真紀は無意識に腕を後ろに隠した。
それの仕草を見て貴史は真紀に向かって口を開く。
「事故、あったんだってな……」
「……うん」
「なんで言ってくれなかったんだ?」
二人は沈黙する。
その沈黙は真紀にとって、真実を隠して別れを告げた事への無言の抗議のように思えた。
しかし、その沈黙は長くは続かない。
「これ、思ったより時間かかってな」
そう言いながら貴史はポケットから何かを取り出した。
「本当はさ、左手の薬指なんだけど……」
少しきまりの悪そうな顔で、真紀の右手をとる貴史。
そして……
「遅くなってすまなかった。もう二度とお前の元を離れたりしない」
すっと真紀の右手の人差し指に、銀色に輝く指輪が差し込まれた。
真紀は驚きの表情を顔に張りつけて、貴史を見る。
「事故の事、最近になって知ったんだよ。それで思ったんだ、真紀はおれに嘘をついてまで自分から身を引いたんじゃないかって」
貴史は見事に真実を言い当てた。
真紀だけが知っている真実を。
「でも、お正月くらいじゃなきゃ帰れないんじゃ……」
「仕事はなんとか休みもらってな。真紀に会いに戻って来たよ」
真紀は唖然とした。
あんなに酷く突き放したのに。
この人はこんな自分をまだ想ってくれていたのか。
仕事だって大きな会社だけに忙しかった筈だ。
かなり無理を言って休みをもらったのだろう。
「まあ、また帰らないといけないんだけど……でも、今回は一人で帰るつもりはないんだ」
真紀の右手を握ったまま、貴史は続ける。
「いつもお前が不安そうにしてるのは知ってた。でも、おれはいつでもお前に自信を持ってもらいたかったんだ。
自信がついたら不安も少なくなるかなって。
それでも、真紀が自信を持てないなら、
それでも、真紀が不安に思うのなら、おれは一生、お前と一緒にいるよ。
だから……おれに付いて来てくれないか?」
少しはにかんだ後、真紀の手に視線を落とす。
「手がない? ならおれが今日からお前の手だ」
彼の目は強くまっすぐに真紀の潤んだ瞳を見つめていた。
「おれは本気だ、真紀。結婚しよう」
あの夏の公園でされた告白のように、まっすぐな貴史のプロポーズ。
それを聞いた真紀の視界の中で、少し赤くなってた貴史の輪郭が涙でぐにゃりとぼやけた。
真紀は今度こそ、声をあげて泣いた。
またしても真紀は、自分の感情をコントロール出来なかった。
しかし、今回はもっと特別な、もっと素敵な感情である。
そんな真紀の背中に添えられた、ゴツゴツした貴史の手。
その温もりを、今度は絶対手放さないと心に決めた。
曇った空からは、真紀の涙に呼応するように、大粒の雨が落ちてきた。
その雨は、まるで二人を祝福する満場の拍手のように、地面を叩き続ける。
これまで真紀の中にあった不安をかき消しながら雨音は高く低く響き、優しい音は真紀と貴史を世界ごと包み込むように広がっていく。
優しい、優しい雨だった。
−−−−−−−
ちりんと風鈴が夜風に踊る。
居間のテレビから聞こえてくる明日の天気予報は、清々しい秋晴れとのこと。
テレビの隣には、先ほど整理を終えた大きめのキャリーバッグと、航空券の挟まったパスポート。
明るい満月が、縁側に腰掛ける真紀の影を地面に映している。
涼しげなスズムシの歌にコオロギの明るいバイオリンが重なる。
真紀は八の字に並ぶ二足のサンダルを、足でピタリと揃えた。
揃った二足を見て嬉しくなった自分がおかしくて、ふっと笑ってしまった。
そして、雲一つない綺麗に澄んだ星空を眺めて呟く。
「バカだよね。私に会う為にわざわざ戻ってくるなんてさ」
バカとはいいながら、貴史が自分を連れ帰る為に戻って来てくれた事が誇らしかった。
そしてそれが嬉しくてたまらない。
「もしかしたら、こんな私でも良いところあるのかな?」
真紀は幸せな笑顔を作ると、浮き足立った気持ちを水平にならすように大きく深呼吸した。
「ねえ、お母さん」
母の顔を思い浮かべて、
貴史の優しさを思い浮かべて、
笑顔を浮かべて、
報告する。
「わたし……結婚するよ」
夜風は真紀の髪をふわりと揺らし、最後に母が言ったあの言葉が聴こえたような気がした。
『幸せに生きるのよ』
夏の終わりの足音がまだ遠い九月上旬の晩。
虫たちのオーケストラは、突き抜けるような夜空の下に響く。
真紀はこの世界の優しさに包まれて、満天の星空に再度、右手を掲げる。
その人差し指には、宇宙のどんな星にも負けないくらい綺麗で、ほんのちょっぴり大きな指輪が煌めいていた。