641.~650.
641.
窓から差し込む夕陽の中に、影が見えた。部屋には私しかいない。影は曲がった腰と髪型からして祖母に違いない。影だけが、茜色のフローリングにいる。私の背後にいる祖母の手が、そろそろと花瓶の影に伸びる。さっと身を翻すと、棚の上の花瓶が私の居た位置に落ちて、床に穴を開けた。
642.
チェシャ猫の笑顔みたいな月だなあ、なんて思いながら夜道を歩いていると、塀の上に本物の猫がいた。街灯の際にいるのでよく見えた。がたん。重い金属が動く音。上に向けていた視線を足元へ送ると、マンホールがズレている。三日月のような光が見える。元来た道を戻ることにした。
643.
冬枯れの公園の片隅にイーゼルとカンバスが置かれていた。どこかに画家でもいるのか。少し離れたベンチから眺めていると、鳩が一羽飛んできてカンバスに激突した。飛び散る羽と、血。烏に雀、椋鳥、鴨、目白、いろんな鳥が飛んできてカンバスにぶつかり、羽と血を塗りこめていく。
644.
旧校舎のコンクリの壁に刻み彫られた相合傘。誰の名前も書かれていない傘の下に名前を刻みつけると、必ず心中できるって。そう話すと友人達は笑った。「両想いになれてもねえ」「メリバってやつじゃないの」その夜、友人をふった元彼と、彼を奪ったもうひとりの友人が首を吊った。
645.
今日は冬至。最も陽が短い日で、柚を湯船に浮かべて健康を希う日。すっかり日が落ち、凍える大気に支配された夜道に、湯気が立つ。湯気の奥には黄色い球体。柚だ。ゴロゴロと煮えた柚が何百と道を転がってくる。立ちつくす私の足元を火傷しそうなほど熱い柚がゴロゴロと転がっていく。
646.
子どもの頃から私が吊るした靴下の中に入っているのは、人間の首だった。最初は私を慰み者にした父。翌年は見て見ぬフリをした母。その次はネグレクトしたおば…いじめっこ…痴漢…DV彼氏…セクハラ上司…。靴下を吊るすのをやめたらどうなるのか。知りたいが、今年も靴下を吊るす。
647.
私の友は我が子を喜ばせたかっただけだ。だが赤子の時に離婚し、普通の家庭で普通に育てられた子どもには刺激が強過ぎたらしい。真紅の衣装を纏い、鼻先を赤く光らせたビヤーキーに牽かせた橇に似た冒涜的なモノで窓辺に乗りつけるというのは。ていうか魔術師の我々でもびびるっての。
648.
家がお菓子製になっていた。家だけじゃなく家具や服も、洋菓子や和菓子のあらゆる技術を尽くしてお菓子になっていた。目覚めたばかりの私のパジャマもベッドも。体温でねとつき、或いは体重で潰れた菓子に茫然としていると、天井がもぎ取られた。白い歯の並ぶ口が視界を覆い尽くす。
649.
子どもの頃から方向音痴で、相当分かりやすい場所でないと、一人で辿り着けたことがない。でも今日は違った。名状しがたい化け物に追われ、袋小路へ追い詰められ喰われる人々。私一人が逃げのびる。運不運はプラマイゼロだというが、今プラスなのか。そしていつまで持つのだろうか。
650.
朝起きて口を開けると、歯が全部タンポポの花になっていた。歯医者に行こうかと思ったが、怖くて外へ出られない。腹は減らずに喉だけが渇く。ミネラルウォーターだけを飲んで三日後。なぜか異常なほど、風を感じたくなって自転車に飛び乗る。口の中にふわふわしたものが膨らみ始めた。




