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うつしよ

うつしよ 秋霜に送る手紙

作者: 鈴木カラス

その手紙は、家に帰る途中に捨てた。




 あたしが彼と初めてセックスしたのは、中学二年生の秋、彼の十四回目の誕生日だった。付き合い始めて一年近く経っていて、お互い初めての恋人同士だった。

 GLAYのポスターが貼られた彼の部屋で二人きりになって、ベッドに背をもたれかけて並んで座って、とりとめのない話をして、しばらくして話題が無くなって無言になって、不思議な空気が漂って、そして、彼が真面目な顔をして言った。

 『エッチしてもいい?』

 あたしはなんとなくそう言ってくるだろうと思っていた。心臓がいつもより早くなるのが分かった。

 『駄目……、かな?』

 『いいよ……、別に』

 精一杯、自然に振る舞おうとした。けど、声は少しだけ震えて吃っていたと思う。


 それから、あたしは彼と毎日セックスした。

 する度に、彼の事がどんどん好きになっていった。

 一年半後、高校に進学した春、あたしは妊娠した。



 あたしの家は、街の中心からだいぶ離れた静かで退屈な住宅街にあった。

 あたしは一人っ子で、初孫だった。だからあたしが生まれた時、両方のおじいちゃんおばあちゃんは、とても喜んでくれたらしい。ただ、その光景はあたしの記憶には無いけど……。

 小さい頃の家族の思い出といえば、喧嘩ばかりしていた母と父の姿くらいしか思い浮かばない。いつからの記憶なのかはっきりしないほど、二人の喧嘩はずっと前から繰り返されていた。

 まだ小学生だったあたしの耳に、『ホショウニン』とか『シャッキン』とか『ハサン』とか、訳の分からないーーけれど決して楽しい言葉じゃないだろうと思えた単語がしょっちゅう聞こえてきて、顔を突き合わせる度に繰り返される言い争いに、あたしは自分の部屋に戻り、ただただメソメソと泣くしか出来なかった。

 時間の許す限り、友達の家で過ごす時間が多くなっていった。


 そして五年生に上がった年、母と父は別居した。

 私は、母と暮らす事が決まっていた。



 母はかつて輸入家具やインテリアを扱う小さな会社で働いていたが、結婚を機に辞めた。本当は辞めたくなかったらしい。そのせいか、十年ぶりに知り合いの会社で働きだした母は~~昔自分が好きだった仕事ではない職に就いたものの、主婦をやっていた時よりもずっと生き生きしている様に見えた。

 あたしは母子家庭になり、夜も一人で食事する事が多くなったけど、以前のような親同士の言い争いを目の当たりにする事が無くなって、ほんの少しだけほっとした。ただ、母は以前よりもあたしに対して厳しくなり、顔を見る度に髪型や服装や言葉遣いとか、色々うるさく言ってきた。最初は大人しく聞いていたけど、置き手紙にまで毎回『しっかりね』と書かれる様になると、いい加減うんざりした。

 一体何をしっかりすればいいのか、あたしにはよく分からなかったし、別に、学校の先生から特別注意された事はなかったから。

 一度だけ、尋ねた事があった。

 「なんでいつも『しっかりしなさい』って言うの?」

 すると母は厳しい顔つきでじっとあたしの顔を見つめて、

 「しっかりしてなくちゃいけないからよ」

 と言った。

 意味が分からなかった。でも、それ以上は聞かなかった。何だか、メンドクサイ事になりそうだったから。

 六年生になった頃から、あたしは出来る限り母と顔を合わせない様にした。



 彼と出会ったのは中学に入ってから。同じ部活の同級生だった。練習は男女別れて行う競技だったけど、もともと男女の仲が良い部だったので、よく話をした。

 練習の始まる前、休憩の合間、下校の途中~~。

 背の高い彼は、一方的に喋るあたしの話を、いつもにこにこしながら聞いてくれた。少しづつ、ほんの少しづつ、冗談ぽく自分の家族の事も話した。


 嫌われるかも……。


 とても不安だったけど、彼の態度は変わらなかった。

 半年後、下校の途中で告白された。あたしは、しばらく俯いていた。うれしいのと、初めて人から好きって言われた驚きと、気恥ずかしさで、どんな顔をしていいか分からなかった。ただ、体の中心がとても暖かくなって、それを逃がしたくなくて、あたしは体をぎゅっと縮めていた。

 こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。



 妊娠が分かった時、正直とても動揺した。まず学校の事を考え、これからの事を考えた。けど、何一つ具体的な事は思い浮かびはしなかった。

 あたしと彼はそれぞれ別の高校に進学していて、二人とも進学校だった。動物好きな彼は、将来は獣医になりたいって言っていた。でも、あたしが子供を産みたいなら、「学校を辞めて働くよ」って言ってくれた。

 単純に、うれしかった。ほんの少し、気持ちが楽になった。

 だけど~~、すぐ不安でいっぱいに戻った。

 病院からの帰り道は、どこをどう歩いたか憶えていない。繋いだ手は、汗ばんでいた。



 「あんた、いくつだと思ってるの!」

 妊娠を告げた時、母は一瞬凍り付いたように動きを止め、しばらくすると引きつった顔になってあたしを怒鳴った。

 「汚らしい……」

 目が血走っていた。父と喧嘩している時の目だった。

 あたしはぽつりと、

 「産みたい……」

 刹那、左の頬に激痛がはしった。

 母はあたしの頬を張った後、無言で奥の間に消え、しばらくしてハンドバッグを持って現れた。そして一言も言わず、あたしを押し込める様に車に乗せ、産婦人科に向かった。いつになく、母の運転は荒れていて、途中クラクションを何回も鳴らしていた。病院に着くまで、一言も話さなかった。

 あたしは無言で、できうる限りの抵抗をしたけれど、母は細い体のどこにそんな力があるのかとびっくりするほどの腕力であたしの腕をつかみ、あたしは嫌がる犬のように引きずられながら、診察室に入れられた。


 妊娠、四ヶ月だった。


 処置が終わって、母は言った。

 「あんたは、命を殺したんだよ」

 と。

 「あたしは、産みたかった……」

 擦れた声で呟くあたしに、母は鬼のような目を向けた。

 「それが……、それがどういう事なのか分かって言ってるの?」

 声は震えていた。

 母が言いたい事は、何となく分かる気がした。でも、それを母には言われたくなかったし、理解したくなかった。

 『あんただって、あたしの心を殺し続けてきたじゃないか!』

 その言葉はあたしの口から出る事はなかった。体の中心がどんどん冷えていく気がした。誰かに、強く抱き締めてもらいたかった。

 その夜は、病院のベッドで声を殺していつまでも泣いた。

 父は、当然見舞いには来なかった。

 あたしは、この街から逃げ出そうと決めた。



 「おい、お前なんかヘマしたのか?」

 いつもきつい臭いの整髪料を付けている愛甲さんが、休憩室から出ていこうとしたあたしを呼び止め、やや険しい顔で言った。

 「ヤー公かデカみたいのが、さっきお前の事店長に聞いてたぞ」

 デカ、って言葉にほんの少しあたしは眉を動かした。

 「本当ですか、それ?」

 愛甲さんはヤニ臭い口を近付けて少し声を落とし、

 「おお。どう見てもカタギ者じゃねえ目した野郎がよ、事務所の応接間で店長と話してるのをたまたま見たんだよ」


 たまたまじゃなくて、いつもみたいにサボって盗み見してたんだろ、おっさん?


 愛甲さんの下品な趣味~~ていうよりここで働く人間に誰ひとり健全なのはいない~~は充分知っていたけど、話が話だけにあたしは不快感を顔に出さないでじっと耳を傾けた。

 愛甲さんが~~偶然~~応接室の前を通りかかって聞いた話によると、三十路くらいのスーツの男がひとり、あたしと彼が勤めるこのパチンコ店にやってきて、店長を呼び、あたしの写真を見せて働いているのか尋ねていたそうだ。

 あたしはヤクザともめ事を起こした事はないし、家出くらいで刑事が追ってくるほど大した家柄の人間じゃない。彼だってそうだ。きっと何かの間違いか、目の前のオヤジの質の悪い冗談かと思ったけど、そうじゃなかった。

 あたしは産婦人科から退院してすぐ、荷物をまとめて家を出た。もう、母と一緒にいたくなかったし、学校にも行きたくなかった。彼もあたしに、一緒に暮らそうって言ってくれた。あたしたちは集められる限りのお金を集めて、電車に乗って街を出た。

 とりあえず大きな街に着いたあたしたちは、コンビニで買ったスポーツ新聞の求人広告で、あまり大きくはないパチンコ屋の住み込みの仕事を見つけた。履歴書の年齢は嘘を書いた。けれど、店長はたいして履歴書に目を通さないで、幾つかの質問をしただけだった。しばらくして愛甲さんから教えてもらって知ったけど、この店の従業員には身元や経歴のはっきりしない人がほとんどだった。そのせいか、タイムカードが無くて、店長は給料明細を一度も渡さなかった。

 「俺たちの足下みて、ピンハネしてんだよ」

 と愛甲さんは給料日の度に愚痴を洩らしていた。

 確かに、大音量の有線やパチンコ台の機械音の中で毎日十時間以上は働かされたけど、会社が寮として借りているアパートに住めて、質素だけど昼と夜の食事支給があって、彼と合わせれば三十万円以上の給料がもらえたから、あたしには不満は無かった。どのみち、一生この仕事を続けるわけじゃないとも思っていたから。


 新しい土地で、大好きな人と、誰にも邪魔されず、同じ部屋で暮らす、新しい生活~~。


 休みの日はいろんな所へ遊びに行った。

 遊園地、映画館、水族館、動物園、ファッションビル、クラブハウス~~。

 できるだけ大人っぽく見せる為、あたしは髪を金色に染め、彼はあご髭を伸ばし始めた。遊園地で買った宝箱の形をした貯金箱に、毎月残ったお金を貯金した。毎晩、どんなに疲れていてもセックスした。彼の存在を確認したかったし、早く、もう一度赤ちゃんが欲しかった。

 彼とあたしと赤ちゃん~~。

 将来の事を、何度も彼と話し合った。あたしだけの家族をつくって、二年経って十八になったら結婚して、海外で二人だけの式を挙げて、もっと広い部屋に引っ越して……。

 夢みたいな事を、真剣に、いつまでも話した。幸せになるつもりだった。きっと幸せになれると思っていた。


 でも……。


 家出してから四ヶ月が過ぎ、秋になり始めた頃、ひとりの男が、あたしと彼の前に現れた。

 男は、小津と名乗った。



 あたしは家を出る時に保険証をコピーしてきた。中学校の修学旅行でやったみたいに。それをこの街に着いてから一度だけ使った。

 「役所の国民健康保険課に行って、『レセプト』っていう利用明細書を見れば、どこの地域で使ったか大体分かるんだよ」

 小津は~~あたしの母が雇った私立探偵は、顔の下半分に無精髭を生やして黒いスーツを着た恐い見かけとは違う、穏やかな声でそう言った。

 寮としてあてがわれていたアパートの窓から、緩い西日が差し込んでいた。けだるい空気が部屋中に漂っていた。

 「あたしたちを、連れ戻しにきたの?」

 あたしはできる限り不機嫌そうな態度をとった。威嚇のつもりだった。

 「ねえ、そうなんでしょ?」

 小津はすぐには答えなかった。暗い感じの両目をあたしと彼から外し、ちょっと斜め下を見た。

 「とりあえず、まだ君のお母さんにも、彼のご両親にも、君たちを見つけた事は報せていない」

 「どうしてですか?」

 彼が聞いた。

 小津は視線を彼の顔に戻し、

 「安心はするんだけど、その後パニックを起こす事があってね。こちらの制止も聞かないで失踪先に駆けつけてきて、修羅場になってしまう事もある。

 そうなると色々と話がこじれてね。

 実際、君のご両親はとてもショックを受けていて、お母さんは心療内科に通院もしてる。

 俺としては、できる限り円満に解決したい」

 その言葉を聞いて、彼はおもいきり動揺していた。口が半開きの状態になって、何度も瞬きしていた。横に座っていて、震えているのが分かった。

 「それと、君には、手紙を預かってきてるんだ」

 ややあって、小津はあたしに視線を移した。そしておもむろにスーツの内ポケットから一通の封筒を大事そうに取り出し、テーブルの上に置いた。白いごくありきたりな封筒に、見覚えのある字であたしの名前が書いてあった。

 あたしはその手紙をちらっと見たけど、触らなかった。

 「絶対帰らない、って言ったら?」

 あたしは手紙から視線を戻し、とにかく強気に尋ねた。

 小津は、少し悲しげな顔をしたまま黙っていた。

 彼は、うなだれていた。

 部屋の中の影が、少しづつ形を変えていった。外を通る車の音や、下校途中の小学生の声とかが、やけに耳に響いた。

 「あたしは……」

 小津のネクタイをしていない胸元の、白いシャツの第二ボタンを見つめた。

 「あたしは……、彼の子供を産むの。で、彼と結婚するの。

 子供を怒鳴ったり、親同士が喧嘩なんかしない、楽しい平和な家庭をつくるの。子供といっぱい遊んであげて、いろんな所に連れていってあげて、楽しい思い出をたくさんつくってあげるの。

 絶対……、絶対、幸せになるんだ……」

 自分に言い聞かせるように、呟いた。彼のわずかに震えている手を強く握った。二人で妊娠検査の結果を聞いて病院から帰る途中の時みたいに、じっとりと汗がにじんでいた。

 「どうせ、ガキが何言ってんだとか思ってるだろうけど、あたしは本気なんだから。だから……」

 「未成年の婚姻には、どちらかの親の承認が必要なんだよ。それが無い場合は、結婚届は決して受理されない……」

 かき消す様に、小津が言った。

 「あと四年、この生活を続けていくのかい?」

 隣の町内にある小学校から、午後五時を告げるサイレンが聞こえてきた。近所の犬が、呼応して長く吠えた。

 長い長い、沈黙の時間が、ただただ過ぎた。



 あたしは彼と握り合っていた手を何度も握り直した。窓の外は暗く、夜になろうとしていた。

 「帰りたい?」

 小声であたしは彼に聞いた。

 返事は、無かった。

 彼はほんの少し唇を開けたけど、何も喋らずしきりに空いている手で顔をこすった。

 あたしは彼に顔を向け、繋がっている手に力を入れた。でも、彼は握り返してくれなかった。


 帰りたいんだ……。


 そう言おうとして、止めた。

 母があたしに宛てた手紙を見た。暗くなった部屋の中で、白い封筒はやけにはっきりと目に留まった。

 母の手紙には何が書いてあるんだろう?

 ナンダロウ、と思ったけれど、読む気はやっぱり起きなかった。力が抜けていくのを感じた。もう、どうでもいいやと思った。

 「その手紙に……」

 あたしは薄笑いを浮かべて小津に言った。

 「その手紙に何が書いてあるか、当ててみてよ。当たったら、帰るからさ」

 小津はあたしを一分ほどじっと見つめ、ため息をつくとゆっくり一度瞬きをした。

 「君の言葉は軽い……。

 そんな人間が、自分だけの家族をつくったとして、幸せになれると本気で思っているのかい?」

 低い声が、ひんやりとしてきた暗い部屋に響いた。

 小津の言葉~~、それはとても悲しく届いた。未来の死ぬ音、生まれなかった赤ちゃんの断末魔の叫びに思えた。

 「わかんないよ……」

 彼の手を離し、あたしは膝を抱えた。

 「そんなの、わかんない……」

 あたしは、恐らく生まれてはじめてあたし自身の体を抱き締めた。一度も愛そうとしなかった、自分自身を。

                          了


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