噂とは貴族にとって馬鹿に出来ないものである。
―――街の中で一つの噂が出回っている。
それは、アサロンの忠臣とされているトア侯爵が、アサロンの勇者を殺害しようとしていたという信じられないものである。
「……確かに、今代の勇者様は型破りな方と聞くけれど」
「でもだからといって、勇者を殺害しようとするなんて」
「勇者様は———無事なのかしら」
その街の住民たちは、その噂を聞いた時、信じられないというほど驚いた顔を浮かべた。そしてもし、本当だったら———と口々に勇者を心配する。勇者とは、魔王を倒すべき存在である。世界の勇者は一人ではないにせよ、アサロンのたった一人の勇者。それを殺害しようとする貴族など、正気の沙汰ではないというのが一般人の考えである。
そんな噂が尋常ではない速さで、町中を駆け廻っている。
「あの宿に勇者様がいたんだろ?」
「……宿の店主には罪人だと説明されていたらしいぞ」
「勇者を罪人として裁こうとするなんて」
宿の店主にもエステルは、自分が冒険者であることを示した。勇者の証である聖剣は自分の意志で持ってきてはないものの、ギルド証は持っている。それは、エステルが黒剣のエステル本人だと示すのには十分な証拠である。
宿の店主は、罪人だと聞かされていた。勇者様にそんなことをするなんてとエステルに謝り倒していた。
「エステル様ぁ、いつまでこの街にいるのですかぁ?」
「もうちょっとな。俺が勇者だってことは意図的に広めているし、そろそろ向こうも動くだろう」
「フローラはお馬鹿ねぇ。まだまだいるに決まっているじゃなない。居た方がエステルの大好きなお金が手に入るもの」
のんびりしたフローラに、お金が手に入ると楽しそうなエステルに、笑って答えるヴェネーノ。
「もしお金が手に入らなかったらぁ、どうするんですかぁ?」
「考えてない。手に入るように臨機応変に動くだけだ」
エステル、お金が入らないという選択肢はないらしい。というよりお金が手に入るように軌道修正していく予定であるらしい。
「貴族なんてものは面子を気にする生き物だ。そうそう、その面子をつぶそうとはしないだろうけどな」
エステルはそういって、のんびりという。今、エステルが行っている駆け引きは、エステルにとっての損失は全くないものである。この一手でお金が入ったとすればそれでいいし、手に入らなかったとしてもそれはそれで行動すればいいとそんな風にしか考えていない。
対して貴族側はといえば、損失しかないと言えるだろう。穏便に対応しようとすればお金を支払わなければならないことになる。それでいてお金を支払わなければ貴族としての面子が大いに潰されてしまうことになってしまう。
国が認めた勇者の敵に回るということはそういうことなのだ。勇者であるエステルが幾ら、勇者として相応しくない性格を持ち合わせていようが、そういうことは関係がないのだ。エステル・ユーファミアが国に勇者として認められているという事実が重要なのである。
「エステル様はぁ、本当にお金が大好きなのですねぇ。エステル様が楽しそうで私も嬉しいのですぅ」
フローラはエステルの言葉に納得を示して、穏やかな声でそう告げる。
そんなこんな話しているうちに、動きが見られた。
トア侯爵からの使者はエステルに対して不服そうな態度をしていた。その使者の男からしてみれば、何故こうして勇者として相応しくないものにトア侯爵が下手に出なければならないのか分からないのかもしれない。そしてトア侯爵自身も勇者に相応しくない勇者を認めたくないという気持ちがあるのだろうと、エステルは使者を見ながら考えた。
「……エステル・ユーファミア様、トア侯爵邸に貴方をご招待いたします」
「俺に来いって? 俺は別にそっちと仲良くするメリットも何もないわけだけど?」
使者をエステルに派遣し、自らエステルの元へ来ない時点でトア侯爵はまだエステル・ユーファミアを甘く見ている。生まれながらの貴族として傅かれて生きてきたからだろうか、エステルを常識の範囲内で図ろうというのがまず間違っている。
「……そういわずに、是非。エステル・ユーファミア様を後悔などさせませんから。我が主も、是非ともエステル・ユーファミア様をご招待してもてなしたいとおっしゃられております」
「ふぅん、ま、いってやらないこともない」
エステルがそんな不遜な物言いをしたからか、使者の顔はこわばっていく。恐らくエステルが勇者ではなかったら激昂して殴りかかってきたのではないかと思えるぐらいの表情だ。
対してエステルは飄々としていた。
「……はい。では私と共にトア侯爵邸に向かいましょう」
「ああ」
そてからエステルは使者とともにトア侯爵の屋敷へと向かうことになるのであった。