鉄と花:1
夜。布団でごろんと寝転んで尚、俺は目を開けていた。
どうにも、眠る気にならない。普段は眠った記憶が無い程に寝付きが良いと言うのに、今日に限ってはどういう事か。
ぼんやりと見つめる天井。幻想郷に来てから新しく作ってもらった住まいには、染みすら無い。
「……幻想郷、か」
嗚呼、分かり易い非現実。そういう意味ではここは楽園と言っていい。空気も水も食べ物も旨いし暮らしている人々妖怪も比較的温厚。女の子は可愛いし男は面白いし共々どうしてノリが良い。おまけに思春期に思いを馳せる様な特殊な能力まで持っていられて、これを至上の楽園と言わずなんだと言う。
だが、俺の心には、何か変なしこりがあった。
確かに昔の俺にとっては楽園だ。万人が認めてくれると心酔する程だろう。だが今、中に入ればそれが違うと分かる。
俺は、力と言う鎧を携えているから安心していられるんだ。
「なっさけねぇよなぁ……」
俺の内にいる危険人物、竜神。水神であり、蛇妖であり、神殺しであり俺の力。
そんな逃亡犯がいなきゃ、何も出来ない。これが情け無くなければなんだと言うのだ。
「虎の威を借るなんとやら。ったく、哀しくなるぜ」
最初から、分かってたのに。
俺は何でも無い。ただの人であると言うのに。
何故俺は哀しく思わなければいけないのか。
またふと、想いを巡らせる。
「……」
人は、死ぬ。命は必滅だ。存在するモノは壊れなければいけない。それを維持する事など出来はしない。
けど俺はなんだ。人であるのに人では無い。寿命の面であっても、明らかに違う。もしかすれば寿命なんて無いのかもしれない。
「……怖い、のか」
ああ、怖い。命が続いてしまう分、怖い。もう百年は生きた筈だ。人間なら、何時死んだって不思議じゃない。眠りにつけば、目を覚まさないかもしれない。
怖い。震えてしまう程、怖い。どうしようもなく、ありえない程、子供みたいに、俺は怖がっていた。
「あー…………くそ」
悪態を一つ。布団から起き上がり、窓の外を見る。
月明かりが優しく照らすのは、幽香自慢の花々。夜の散歩の友には相応しいじゃないか。
適当な上着を羽織り、夜空の下に躍り出る。
「寒いなぁ、流石に」
溜め息が白くなる。それでも、布団にくるまっているよりはマシに思えた。
肌を刺す夜の風が、色とりどりの花を揺らす。柔らかな月の光がそれに影を付ける。
「月に叢雲、花に風、だったっけ?」
意味は忘れてしまったけれど、字面は美しいと思う。何せ愛しい妻の文字が入るのだから。
「ああ、キレイだ。本当に」
腰を下ろしながら、今更な事を呟く。口から白い吐息が漏れた。
美しい。こんな儚い様を美しいと思わない奴はいない。そうだ、触れれば砕け散るやもしれない程に儚いモノは美しい。ガラス細工に神秘性を感じるのはその所為だろうか。
けど、永久にあるものは、どうなんだろう。在り続けるモノには、美しさを見いだせるのだろうか。
答えは否だ。そんな事は無い。日常のその一瞬一瞬で美しさを感じる者はいない。
だからだ。だから俺は怖い。
俺は何時もこの世界を美しいと思っているから。
俺は何時もこの幻想郷を美しいと思っているから。
俺は何時も幽香を美しいと思っているから。
それはもしかしたら、今にも砕けてしまうビードロなのかもしれない。手から滑れば、もう二度と元には戻らないかもしれない。
「くそッ」
苛立ちに、地面を殴る。拳に走る痛みなんか、今の俺には感じられない。
本当に今は続いてくれるのか。
この美麗な時は続いてくれるのか。これはあの花が夢見る一時の幻では無いのか。目を閉じれば消えてしまう夢では無いのか。
消えないでくれ。続いてくれ。無くならないでくれ。在っていてくれ。頼む、どうか、頼む。
怖い。夜闇が俺を包んでしまう。俺以外に無くしてしまう。瞼の裏には何もない。目を開いてもそれが続いてしまうんじゃないか。闇から闇になってしまったらどうすればいいんだ。隣に誰もいなくなってしまったらどうすれば良いんだ。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い――――
「みーつけたっ」
不意に掛けられる声と、後ろから抱きつかれる感覚。背中から伝わる温もりが、思考の海から俺を引き戻した。
こんな風に突然、力いっぱいに抱き着いてくる輩と言えば――
「幽、香?」
「こんな夜中に、どうしたの? 私と寝るの、イヤだった?」
「……そんな事あるもんかよ」
なら良かった、と、グイグイ頬を押し付けながらの甘え声。その一音一音が、俺を幸せにしてくれる。俺の首筋に顔をうずめながら抱き付く幽香に慌て、少し拗ねた口調になってしまった。
「最近ちょっと様子が変だったから。心配だったのよ」
「変、って?」
「暗いと言うか、一歩後ろにいる、そんな様な」
言われれば、なんとなく分かる。積極的に楽しまない様にしていた節はあったのかもしれない。そうしていても、過ぎ行く時はやはり大切なモノになると言うのに。
「私と一緒にいても、そんなに笑ってくれなくなったし」
「……ゴメン」
「謝ったりなんかしないの。そんなの鉄生に似合わないもの」
そう言いながら、俺の頭を撫でる幽香。髪を触られるのはあまり好きじゃないが、そういうのとはまた違う心地よさがある。
「何か、心配な事があるの?」
「……誰だって無いと言えば、嘘になる」
「そうやってひねくれないの」
「ひねくれてなんか……」
「不安な事があったら、何でも言って。一人で背負わないで。お願いだから」
強くなる抱擁。頬をくすぐる幽香の緑髪。
「言っても、幽香も不安になるだけかもしれないだろ」
「そんなのはどうでもいいのよ。二人で分かち合えれば、それだけで楽になるもの」
俺の震え声に、幽香はハッキリとした意志を見せる。全く、嫌になるくらいに強いんだからなぁ、この人は。
「だから。私に、伝えて?」
そんな風に言われたら、すがりつきたくなるじゃないか。寄りかかりたくなっちまう。情けなくなる一方だよ、俺は。
震える俺の唇。寒さの所為じゃない。まだ迷っているんだ。この抱き締めてくれる人に迷惑が掛かるだけなんじゃないか、と思っているんだ。
その通りだ。不安や心配なんて、口から出せば悪い事しか無い。良くなるなんてありえない。黙って心に溜めておけば、みんなは笑っていられる。俺が強がっているだけで、幽香は安心していられる。たとえそれが形だけでも良い。
だから、言うんだ。大丈夫だ。なんて事は無い。俺が悩むなんてありえない。幽香の顔を見ながら、笑ってそう言ってしまうんだ。そうすれば、いいんだ。
「……俺は……」
大丈夫だ、何でもない、心配するな、と。繋ごうとする瞬間に、ちらりと幽香の手を見た。月に照らされた白い指は、まるで花弁だ。それが握られた様は、キュッと縮んだ蕾が風に揺れているかの様な――――いや、これは、震えか? 揺られているんじゃあない。幽香が震えていたんだ。寒いから? まさか、そんな事で震える幽香か。
じゃあ、何でだ? 俺が震えているのと同じ理由じゃないのか?
「――――」
ああ、そうだ。失念していた。幽香だって妖怪なんだ。妖怪で、俺と同じく人と共に歩いたんだ。だったら、俺と同じ想いを抱いてもおかしくないんじゃないか。
何人、送ってきただろうか。何年、彼女が一人だっただろうか。この一瞬に辿り着くまでどれほどの寂しさを味わったのだろう。
夢が醒めてしまう時が怖いんじゃないか。泡沫である事を恐れているんじゃないか。
それは、俺と同じ様なモノであっても、全く違う質量だ。寂しさが違う。日常が違う。待っていてくれる人が違う。
そんな彼女に、俺のちっぽけな悩みをぶつけていいのか? 心配の種を増やしていいのか? 良い訳が無い。
「……怖いんだ」
それでも俺は、みっともなく打ち明けていた。いや、幽香が震えていたからこそ、言ってしまったのだろうか。
「こんなに幸せな時が、後どれくらい続いてくれるんだろうって考えると、怖くて怖くてたまらないんだよ」
自分でも意外な程、弱々しい声。こうなっている俺を、心配してくれた事が嬉しくて――心配していたと言う事は、こうなっている事が共感出来ていたと言う事で。
「幻想郷に住む事が出来て、幽香がいてくれて、毎日楽しくて仕方がない。幸福だよ。こんなに幸せだと思えた事は無い。だから怖いんだよ。幸せな時が何時終わってしまうんだろうって。目が覚めたら、元の世界に帰ってるんじゃないかって」
元の世界――家族の所に。それが、俺の日常だったから。
「あの日常が恋しいと思った事はある。けど、こんな鮮烈な日々とは比べものにならない。百年も過ぎ去って尚、俺は幽香との日々がもっと続いて欲しいと思ってる」
普通なら、人は百年で満足してしまう。そこで死ぬ事が出来る。けど俺には無理だ。諦めきれない。百年でも満足出来ない。
「ずっと一緒にいたいんだよ。離れたくない、抱きしめて欲しい。抱きしめていたい。それなのによ、俺は怖いんだ。この日々が無くなってしまうんじゃないかって」
抑える事が出来なかった。幽香に抱かれたまま、想いが止まる事が無かった。彼女が同じ恐怖を抱え、それを上塗りしてしまう。ちくしょう、情けない。恥ずかしいったら無い。惚れた女にここまで弱みを見せてどうするんだ。
「……鉄生」
黙って聞いていてくれた幽香が、ようやく口を開く。呆れるだろうか。無理にでも励ましてくれるだろうか。
しかし俺の考えなど遥かに超越するのがうちの嫁だ。
「明日、デートしましょ」
何やら良く分からない事を言うとは思わなかったが。
「は?」
「用事なんて無いでしょ? 決まりね。朝ご飯食べたらすぐに出ましょ。何なら今からでも」
「いやいやいや」
この空気から何を言ってるんだこの人。ちょっと突拍子が無さ過ぎませんかね。え、俺の葛藤とかどこ行ったの。おい。
「じゃっ」
そんな事は知らんとばかりに家に戻る幽香。残されたのはマヌケ面の俺。冷たい風が耳元で嘲笑う様に吹き抜けた。
……しおらしくしてたのは何だったんだか。