第三話「雨上がり」
店を出ると、雨は上がっていた。
さっきまで降っていた雨が、歩道のところどころに小さな水たまりを残している。
濡れたアスファルトには、信号や店の明かりがぼんやりと滲んでいた。
僕は店の前で立ち止まった。
傘を閉じた人たちが、僕の横を通り過ぎていく。
少し湿った風が頬に触れた。
僕は、もう一度だけ息を吸った。
雨上がりの街の匂い。
濡れたアスファルト。
土の匂い。
車の排気。
どこかの店から漂ってくる、焼いたパンの匂い。
けれど――
あの香りはしなかった。
さっきまで、確かに感じていたのに。
「……気のせいか」
小さく呟いた。
けれど、自分でもその言葉を信じていなかった。
気のせいなら、どうして胸が痛んだのだろう。
どうして、あんなにも懐かしいと思ったのだろう。
そして――
どうして僕は、あの香りを、過ぎ去った日々のどこかにあるものだと感じたのだろう。
分からない。
そもそも僕は、何を思い出そうとしている?
僕は歩き出した。
数歩進んだところで、なぜか足を止める。
振り返った。
カフェの大きな窓。
ガラスの向こうでは、さっきと変わらない時間が流れている。
コーヒーを飲む人。
スマートフォンを見ている人。
忙しそうに動く店員。
僕は、その中に何かを探していた。
誰を探しているのかも分からないまま。
ガラス越しに見える店内には、何事もなかったように午後の時間が流れていた。
ほんの少し前まで、僕もあの窓の向こうにいた。
それなのに、僕の中の何かは、まだあの場所から離れられずにいた。
しばらく眺めていたけれど、結局、何も見つからなかった。
僕は小さく息を吐いた。
もう、帰ろう。
そう思い、カフェに背を向けた。
雨上がりの風が、頬をかすめる。
そして、歩き出そうとした。
そのときだった。




