第六十話:答案用紙の攻防戦と、聖夜へのカウントダウン
十二月に入り、街にはイルミネーションが灯り始め、どこからともなくクリスマスソングが聞こえてくる季節。しかし、月島暦の通う中学校の生徒たちにとっては、そんな浮かれた気分よりも、目の前に迫った期末テストという大きな壁が、重くのしかかっていた。特に1年生にとっては、中学生活で初めて経験する年末の大きなテストであり、その範囲の広さと難易度の高さに、悲鳴に近い声があちこちから上がっていた。
テスト期間初日の朝。暦が少し緊張した面持ちで教室に入ると、そこはすでに、参考書やノートを必死で見返す生徒たちの熱気で、むせ返るようだった。窓ガラスは、外の冷たい空気と室内の熱気でうっすらと曇り、壁に貼られたクリスマス会のポスターだけが、どこか場違いなほど楽しげに見える。
「おっはよー、暦ちゃん! いやー、ついに来ちゃったね、地獄の期末テストウィークが!」
早川美咲が、目の下にうっすらと隈を作りながらも、いつものように元気よく声をかけてきた。その手には、びっしりと書き込みがされた歴史の教科書が握られている。
「うん、おはよう、美咲ちゃん。本当に、あっという間だったね…」
暦も、ここ数日はKとしての活動を最小限に抑え、テスト勉強に集中していた。美咲や相田翔くんと、図書室や時にはサンクチュアリ(!)で一緒に勉強する時間は、心強いと同時に、どこか秘密の合宿のようで楽しかったが、それでもやはりテスト本番の緊張感は格別だ。
「今日の1時間目って、確か数学だよねー。私、昨日の夜、応用問題のところ、必死で詰め込みしたんだけど、もう頭パンクしそうだよー! 暦ちゃんは、もちろん余裕でしょ?」
「う、ううん、そんなことないよ! 私だって、数学の証明問題とか、結構ギリギリまで悩んでたし…油断できないよ」
暦は、謙遜しながらも、内心では(でも、翔くんと一緒に考えたあの補助線の引き方なら、きっと大丈夫なはず…!)と、小さな自信を胸に秘めていた。
「あ、相田くん、おはよー! 今日の数学、自信ある?」
美咲が、少し離れた席で静かに教科書を読んでいた相田くんに声をかける。相田くんは、ふと顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「おはよう、早川さん、月島さん。…自信があるとは言えないけれど、月島さんに教えてもらったポイントをしっかり復習してきたから、あとは全力を尽くすだけだよ」
その言葉には、どこか暦への信頼感が滲んでおり、暦は少しだけ頬を赤らめた。
やがて、チャイムが鳴り、担任の先生が問題用紙の束を抱えて教室に入ってくると、それまでの喧騒が一瞬にして静まり返り、生徒たちの間に緊張が走る。
「はい、席に着けー。これより、期末テスト1日目、1時間目の数学を始める。問題用紙と解答用紙を配るから、静かに待つように。…もちろん、カンニングなんていうくだらない真似をするヤツはいないと思うが、万が一にもそんなことがあれば、どうなるか分かってるな? 全教科0点、反省文、そして保護者呼び出しのフルコースだぞ。健闘を祈る!」
先生の、いつものお決まりの脅し文句(?)に、教室からはくすくすという小さな笑いと、引きつったような乾いた笑いが混じって漏れる。
問題用紙が配られ、「始め!」の合図と共に、教室は一斉に鉛筆を走らせる音と、時折聞こえる小さなため息だけに支配された。暦もまた、深く息を吸い込み、目の前の問題に意識を集中させていく。一つ一つの数式を丁寧に追い、図形を正確に描き、論理の飛躍がないかを確認しながら、解答用紙を埋めていく。それは、Kとしてステージに立つ時の緊張感とはまた違う、知的な興奮と、時間との戦いだった。
あっという間に試験時間が終了し、答案が回収されると、教室は一気に解放感に包まれ、あちこちで「終わったー!」「どうだったー?」といった声が飛び交い始める。
「ねえ、最後の大問、めちゃくちゃ難しくなかった!? 私、全然時間足りなかったんだけど!」
「分かるー! あの図形問題、どこから手をつけていいか分からなかったよー!」
「てか、最初の計算問題で、まさかの符号ミスしたかも…最悪…」
クラスメイトたちの悲喜こもごもの声が、賑やかに教室を満たす。
暦、美咲、相田の三人も、自然と顔を寄せ合い、今終わったばかりの数学のテストについて、小声で反省会を始めていた。
「暦ちゃん、あの最後の証明問題、解けた? 私、途中までは行けたんだけど、最後の最後で詰まっちゃって…」
「うん、なんとかギリギリ…。でも、翔くんが言ってたみたいに、あの補助線の引き方がやっぱり鍵だったね。あれがなかったら、私も厳しかったかも」
「そうか…やはり、あの発想は重要だったんだな。僕も、月島さんのヒントのおかげで、なんとか最後まで辿り着けたよ。ありがとう」
互いの健闘を称え合い、そして次の科目のテストに向けて、再び気を引き締める。そんな、テスト期間中ならではの、独特の連帯感が、三人の間にも確かに生まれていた。
その後の英語のテストでは、リスニング問題の音声が、スピーカーの調子が悪いのか、少し聞き取りにくかったというハプニングもあった。
「えー、今の全然聞こえなかったんだけどー!」「先生、もう一回流してくれませんかー!?」
教室中から不満の声が上がる中、暦は(…確かに、少しノイズが多かったけど…でも、Kとしてのレコーディングで、もっと厳しい環境での音の聞き分けも経験してるから、これくらいなら…)と、持ち前の聴力と集中力で、なんとか内容を理解し、解答することができた。しかし、テストが終わった後、美咲に「暦ちゃん、今のリスニング、普通に分かったの!? すごい! 私、半分くらい宇宙語にしか聞こえなかったんだけど!」と、驚きの声を上げられ、暦は慌てて「う、ううん、私も勘で答えたところ、いっぱいあるよ!」と、必死で取り繕うのだった。
そんなこんなで、数日間に渡る期末テストの全日程が終了した。
最後の科目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、教室は「うおおおおおおおっ!!!!」という、地鳴りのような歓声と、安堵のため息、そして疲労困憊の呻き声で、まさにカオス状態となった。
「終わったー! やっと解放されたー!」
「もう二度とテストなんて受けたくないー!」
「とりあえず、今日はカラオケ行って騒ぎまくろーぜ!」
生徒たちは、まるで檻から放たれた動物のように、教科書やノートを鞄に放り込み、一足早い冬休み気分で浮かれ騒いでいる。
暦、美咲、相田の三人もまた、大きな達成感と、そして心地よい疲労感に包まれながら、顔を見合わせて微笑み合った。
「お疲れ様、暦ちゃん、翔くん! これでやっと、心置きなく年末特番のK様を拝めるね!」
美咲が、満面の笑みで言う。その言葉に、暦はドキリとしながらも、どこか誇らしげな気持ちになった。
(…そうだ…期末テストが終わったってことは…いよいよ、Kとしての、今年最大のステージが待ってるんだ…!)
その時、暦のスマートフォンが、軽やかな通知音を鳴らした。三人で顔を見合わせながら画面を確認すると、それは東雲さんからのグループメッセージだった。
『暦さん、早川さん、相田くん、期末テスト、本当にお疲れ様でした。きっと素晴らしい結果を残してくれたことでしょう。さて、そんな頑張った君たちに、私からささやかな「お疲れ様プレゼント」と、そしてこれからのチームKの未来にとって、とても重要な「サプライズ」を用意しています。明日の放課後、いつもの場所に集合してください。きっと、驚くことになると思いますよ。楽しみにしていなさい』
その、どこか悪戯っぽくも、期待感を煽るメッセージに、三人は顔を見合わせ、そして同時に声を上げて笑った。
「えー!東雲さんからのサプライズだって! なんだろうね、すっごく楽しみ!」
美咲が、子供のようにはしゃぐ。
「お疲れ様プレゼント…そして、重要なサプライズ、か。東雲さんのことだから、きっと何か、僕たちの想像を超えるようなことを考えてくれているんだろうな」
相田くんもまた、静かに、しかしその瞳には確かな期待の色を浮かべていた。
暦は、二人のそんな様子を見て、そして東雲さんの温かい言葉に、胸がいっぱいになるのを感じていた。
(東雲さん…いつも、私たちのことを気にかけてくれてる…明日のサプライズ、一体なんだろう…? ドキドキするな…)
答案用紙との戦いは終わった。そして、次なる戦いの舞台――聖夜に輝く華やかなステージ――への期待と共に、心強い仲間たちとの、新たな冒険の予感が、三人の胸を熱くしていた。
K(暦)と、彼女を支える二人の「共犯者」たちの、新たな挑戦へのカウントダウンが、今、この図書室の片隅から、静かに、そして確かに始まろうとしていた。




