第五十三話:熱狂の残響と、教室の小さな探偵たち
金曜の夜、世界を震撼させたKのオンラインライブ。その熱狂は、週末を挟んでも冷めるどころか、さらに大きなうねりとなって世間を席巻していた。テレビのワイドショーはこぞってその話題を取り上げ、SNSのトレンドはK関連のワードで埋め尽くされ、Kの新曲「星詠みの鎮魂歌」の配信は、予約段階で既にサーバーがダウン寸前になるほどの勢いを見せていた。
まさに、社会現象。Kは、そのミステリアスな存在感と圧倒的なパフォーマンスで、新たな時代のアイコンとしての地位を不動のものにしつつあった。
そんな世界の喧騒とは裏腹に、月曜日の朝、月島暦は、いつもと変わらない制服に身を包み、少しだけ重い足取りで中学校の校門をくぐった。オンラインライブの成功は、Kとしての大きな達成感と喜びを彼女にもたらしたが、同時に、その反響の大きさに、改めて自分の置かれている状況の特異さを痛感させられてもいた。
(…大丈夫。私は月島暦。いつも通り、普通にしてればいいんだ…Kのことは、東雲さんがちゃんと守ってくれるって言ってたし…)
心の中で何度も自分に言い聞かせるが、教室に近づくにつれて、心臓の鼓動は否応なく速まっていく。
案の定、1年A組の教室は、朝からKの話題で持ちきりだった。
「おっはよー! ねえ、昨日のKの特番、見た!? ライブの裏側とか、未公開映像とか、もうヤバすぎたんだけど!」
「見た見た! あんなの見せられたら、ますますファンになっちゃうって! K様、マジ女神!」
黒板には、誰かが描いたのであろう、Kの似顔絵(かなりデフォルメされているが、銀髪と星のモチーフはしっかり押さえられている)が、「K降臨記念!」という文字と共に誇らしげに飾られている。
暦が自分の席に着くと、すぐに早川美咲が、目をキラキラさせながら駆け寄ってきた。
「暦ちゃーん! 金曜のKの生配信、本当に凄かったよね! 私、感動して涙止まらなかったんだけど! あの天使のアバター、あれ絶対K本人だって! 動きとか歌声とか、完全に一致してたもん!」
「う、うん…本当に、夢みたいだったよね…CG技術って、すごいんだなぁって、改めて思ったよ…」
暦は、心の中で(あれ、CGじゃなくて、私の変身能力なんだけどね…天使のアバターは、ちょっと恥ずかしかったけど…)と呟きながら、曖昧に微笑んだ。
「でもさー」美咲は、ふと真剣な表情になると、声を潜めて暦の顔を覗き込んできた。「やっぱり私、どうしても気になるんだよね…。Kが歌ってる時の、あのちょっとした手の動きとか、マイクの持ち方とか、あと、MCでちょっと困った時に、人差し指で頬をポリポリって掻く癖…あれ、暦ちゃんと全く同じなんだよなぁ…」
「―――っ!!!」
暦の背筋を、冷たいものが走った。まただ。美咲の鋭すぎる観察眼。
(う、うそ…私、そんな癖あったっけ…!? しかも、Kの時にも無意識にやっちゃってたの…!?)
「え、そ、そんなことないって! き、気のせいだよ、美咲ちゃん! 私、そんな癖ないと思うし…Kさんは、もっとずっと洗練されてるよ!」
必死で否定するが、声は上ずり、顔は引きつっているのが自分でも分かる。
「そうかなぁ…? でも、文化祭の演劇の時も、暦ちゃん、舞台袖で緊張してる時、同じように頬掻いてたよ? 私、バッチリ見ちゃったんだから!」
美咲は、いたずらっぽく笑いながら、なおも食い下がってくる。
(ど、どうしよう…! このままじゃ、本当にバレちゃう…!)
暦の頭の中は、警報が鳴り響き、思考がパニック寸前だった。
その時、助け舟(?)を出したのは、意外な人物だった。
「まーた美咲は、暦をからかってんのかよ。Kと暦が似てるなんて、ありえねーだろ。Kはもっとこう、クールでミステリアスな感じじゃん。暦はどっちかっていうと、ほわほわしてるっていうか、天然っていうか…」
クラスのムードメーカーである佐藤健太くんが、いつものようにお調子者な口調で、しかしどこか暦を庇うように割って入ってきたのだ。
「えー、でも佐藤くんだって、前にKの仕草が暦ちゃんに似てるって言ってたじゃん!」
「そりゃ、一瞬そう見えたこともあったかもしんねーけどさー。でも、よーく考えたら、全然違うって。だいたい、Kがあんなドジっ子なわけないだろ? この前だって、暦、購買でパン買う時、お釣りもらうの忘れて慌てて戻ってたじゃんか。あれ見て、Kと同一人物だなんて、とても思えねーよ」
「むー! 佐藤くんのバカー! 私だって、たまにはしっかりしてるんだからねっ!」
暦は、佐藤くんの失礼な(しかし、ある意味的を射ている)言葉に、思わず頬を膨らませて反論した。そのやり取りに、周囲のクラスメイトたちからは、どっと笑いが起こる。
(…さ、佐藤くん…! ナイスフォロー…なのか…な…? でも、ドジっ子って…否定できないけど…!)
暦は、複雑な気持ちで佐藤くんを見た。彼は、ニヤリと笑って片目をつぶって見せた。その表情は、「ま、任せとけって」とでも言っているかのようだった。
そんな騒動で、美咲の追及は一旦うやむやになったものの、暦の心は晴れなかった。
(…やっぱり、無意識の癖って怖い…Kの時は、もっともっと意識して、月島暦とは違う動きをしないと…でも、そんなことできるのかな…)
秘密を守り続けることの重圧が、改めて彼女の肩にのしかかる。
その日の放課後。美術室で一人、黙々と油絵の具をパレットナイフで混ぜていた暦の元に、相田翔くんが、静かにやってきた。
「月島さん。…金曜日のKのライブ、見たよ。素晴らしかった。特に、あの新曲…『星詠みの鎮魂歌』だったかな。あの曲の世界観は、君が文化祭の時に描いていた、あの森の絵の奥深くに広がる、もっと暗くて、でもどこか神聖な空間を、鮮明に思い出させたんだ」
相田くんは、いつもより少しだけ饒舌に、しかしその瞳は真剣な光を宿して語り始めた。
「そして…あの曲の中で、Kが時折見せる、苦悩するような、何かを探し求めるような表情…あれは、君が時々、美術室で一人で絵と向き合っている時の、あの真剣で、どこか切なげな表情と、不思議なほど重なって見えたんだ。まるで、Kと君が、同じ魂の痛みや喜びを、別の形で表現しているかのように…」
その言葉は、もはや「似ている」というレベルではない。相田くんは、Kと暦の、もっと深い部分での「共鳴」のようなものを、感じ取っているかのようだった。
「―――っ!!!!」
暦は、今度こそ、言葉を完全に失った。全身から急速に血の気が引き、持っていたパレットナイフが、カシャンと音を立てて床に落ちる。
(…だめだ…相田くんには…もう、ごまかせないかもしれない…!)
彼の、あまりにも鋭く、そして本質を突くような指摘に、暦の心は、かつてないほど激しく揺さぶられていた。
相田くんは、そんな暦の動揺には気づいているのかいないのか、さらに言葉を続けた。
「そしてね、月島さん。あのライブの中で、Kが天使の姿になった時…その翼の形や、光の粒子のような羽の質感が、君が以前、自由研究のテーマにしていた『世界の珍しい自然現象と古代文明の伝説』の中で、確かポリネシア神話の『マナ・トゥプナ』の項目で描いていた、神聖な鳥の翼のスケッチと、驚くほど似ていたんだ。あれは、単なる偶然なのかな…?」
「!!!!!!!!!!」
暦の頭の中は、完全に真っ白になった。自由研究のスケッチ…? そんなマニアックなものまで、相田くんは覚えていて、そしてKの演出と結びつけているというのか…!?
(も、もう無理だ…! この人には、絶対に隠し通せない…!)
パニックと絶望で、目の前が暗くなりそうになる。
その時だった。
カタカタカタカタッ!!!! ガシャーン!!!
美術室の窓が、突然、激しい音を立てて震え始めたかと思うと、窓際に置いてあった石膏像の首が、ポロリと床に落ちて砕け散った!
「「きゃあああああああああっ!!!」」
「な、なんだ!? 地震!?」
美術室にいた数人の生徒たちが、一斉に悲鳴を上げ、机の下に隠れようとする。しかし、揺れはそれ以上大きくならず、ただ、割れた石膏像の首だけが、無残な姿を晒していた。
暦は、その光景を目の当たりにし、自分の体が急速に冷えていくのを感じた。
(…今の…まさか…私の…力が…!? 相田くんに追及されて、パニックになって…それで…!?)
彼女の極度の緊張と動揺が、またしても無意識のうちに「力」を暴走させ、物理的な現象を引き起こしてしまったのだ。
幸い、周囲の生徒たちは「今の、何だったんだろうね?」「風で石膏像が倒れたのかな?」と、原因不明の現象に首を傾げているだけで、まさかそれが暦の力のせいだとは夢にも思っていないようだった。
―――ただ一人、相田翔くんを除いては。
彼は、床に落ちて砕けた石膏像の首と、顔面蒼白で震えている暦の姿を、交互に見比べ、そして、何かを確信したかのような、しかしそれ以上に、深い哀しみと、そしてどこか彼女を守らなければならないという強い使命感に満ちた、複雑な眼差しで、じっと暦を見つめていた。
その視線は、もはや「疑念」というよりも、「確信」に近い何かを物語っていた。そして、その瞳の奥には、言葉にならない、しかし確かな「共感」と「理解」の色が、静かに灯っているようにも見えた。
暦は、その相田くんの、あまりにも深く、そして全てを見透かすような眼差しから、もう逃れることはできないと、直感的に悟った。
彼女の秘密の境界線は、今、まさに、決壊寸前だった。
そして、その先に待っているのは、破滅か、それとも新たな希望の始まりなのか…。
答えはまだ、誰にも分からない。ただ、運命の歯車は、また一つ、大きく、そして確実に、新たなステージへと回転を始めていた。




