第五十一話:魂の旋律と、共犯者たちのプレリュード
サンクチュアリの床に散らばる、ショートした機材の焦げ臭い匂い。その中心で、月島暦は、東雲翔真の腕の中で、ようやく薄っすらと目を開けた。
「…しののめ…さん…?」
「暦さん!気がついたか! よかった…本当に…」
東雲の声には、心からの安堵が滲んでいた。先ほどまでの、彼女の力が暴走しかけた瞬間の、筆舌に尽くしがたい恐怖と緊張感は、彼の全身からまだ完全には抜けきっていない。
意識がはっきりとしてくると共に、暦は自分が引き起こしてしまったであろう事態の重大さに気づき、顔面蒼白になった。ピアノの周りには、無残にもショートして黒く煤けた機材がいくつか転がり、部屋の照明も落ち、非常灯だけが不気味に赤い光を放っている。そして何よりも、東雲さんの、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、心配と疲労の色が濃い、しかしどこか安堵したような複雑な表情。
(…私…また、何か…とんでもないことを…しちゃったんだ…東雲さんに、キララチューブに、取り返しのつかない迷惑を…)
全身から急速に血の気が引き、罪悪感と自己嫌悪で、胸が押しつぶされそうになる。
「…東雲さん…ごめんなさい…! 私のせいで…また、こんな…! もう、私なんか…Kでいる資格なんて…」
大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、恐怖や混乱からではなく、大切な人に迷惑をかけてしまったことへの、純粋な後悔と謝罪の涙だった。
しかし、東雲は、そんな暦の頭を優しく、しかし力強く撫でると、いつもの自信に満ちた、それでいてどこか悪戯っぽい、それでいて絶対的な安心感を与える笑みを浮かべて言った。
「ははは、暦さん、何をそんなに深刻になっているんだい? 君がKでいる資格がない、だと? 馬鹿なことを言っちゃいけない。君以外の誰がKになれるというんだ? この程度の機材トラブル、Kがこれまで稼いでくれた利益を考えれば、正直なところ、誤差の範囲内、いや、むしろ必要経費みたいなものだよ。なんなら、このサンクチュアリごと、もっと頑丈で、もっと君の力に耐えられるような、超弩級の要塞に建て替えることだって、今のキララチューブなら造作もない。だから、そんなことで君が心を痛めたり、自分を責めたりする必要は全くないんだ。全て私に任せなさい。いいね?」
そのあまりにも豪快で、スケールが大きくて、そしてどこまでも頼もしい言葉に、暦は唖然として、涙も引っ込んでしまった。
「え…あ、でも…本当に、大丈夫なんですか…? 私、すごく…怖い思いを…」
「もちろん、君が怖い思いをしたことは、私の監督不行き届きだ。本当にすまない。だが、それとこれとは話が別だ。君の才能は、そんな些細なアクシデントで揺らぐようなものじゃない。むしろ…」
東雲は、そこで一旦言葉を切り、そして、まるで最高の宝物を見つけた探検家のような、興奮と期待に満ちた瞳で暦を見つめた。
「暦さん、君がさっき、無意識のうちに奏でていた、あのピアノ…あれは、とんでもない傑作の誕生を予感させる、魂の旋律だった。君の心の奥底からの叫び、その激情、そして祈り…その全てが、音となって溢れ出ていた。正直に言って、鳥肌が立ったよ。あれを、Kの新しい代表曲として、最高の形で世界に叩きつけてやろうじゃないか! きっと、世界中が君の新たな才能にひれ伏すことになる!」
彼の瞳は、すでに次のプロジェクトへの熱意で、ギラギラと燃えるように輝いていた。そのあまりの切り替えの早さと、絶望的な状況すらも新たなチャンスへと転化させてしまう、底なしの前向きなエネルギーに、暦は、いつの間にか自分の不安や恐怖が、どこか遠くへ吹き飛んでしまっているのを感じていた。
(…東雲さんって、やっぱり、ただのプロデューサーじゃない…この人となら、本当に、何でもできるような気がする…)
東雲は、手早くスタッフに連絡を取り、サンクチュアリの復旧作業と、暦の送迎の手配を済ませると(もちろん、暦には「今日はもうゆっくり休んで」と伝え、無理強いはしない)、淹れたての、心を落ち着かせる効果のあるカモミールティーを、そっと暦の前に置いた。
「さて、暦さん。あの『神の聖域』での体験と、君の力の新たな側面、そしてあの恐ろしい記憶の断片については、また日を改めて、君の心が落ち着いてから、じっくりと話を聞かせてほしい。君が話したくなければ、無理に話す必要はない。だが、もし君がその重荷を誰かと分かち合いたいと思うなら、僕がいつでも、どんな話でも聞く。それを忘れないでほしい」
その言葉は、どこまでも優しく、そして暦の心に寄り添うものだった。
「…はい…ありがとうございます、東雲さん…」
暦は、小さく頷いた。
「そして、今はまず、君が生み出したあの素晴らしいメロディーを、最高の形で音楽に昇華させることに集中しよう。君のその『力』は、もしかしたら、これまでのKの音楽を、さらに新しい次元へと引き上げてくれる、とてつもない可能性を秘めているのかもしれない。そう思わないか?」
東雲さんの言葉は、まるで魔法のように、暦の心の中に眠っていた、新たな創作意欲の炎を、再び力強く灯した。
怖い記憶も、力の暴走の不安も、まだ完全には消えていない。でも、この人と一緒なら、きっと乗り越えられる。そして、もっとすごい音楽を、もっとたくさんの人に届けられる。そんな確信にも似た想いが、彼女の中で力強く芽生え始めていた。
「…はい! 東雲さん! 私、頑張ります! あの時の気持ち…あの時の音を…ちゃんと、歌にしてみたいです!」
暦の瞳には、先ほどまでの涙の代わりに、アーティストとしての、燃えるような決意の光が宿っていた。
それからの数日間、暦は、東雲さんと共に、サンクチュアリで新曲「星詠みの鎮魂歌」の制作に没頭した。
東雲さんは、暦が自由に、そして安心して創作に集中できるよう、最高の環境を整えた。サンクチュアリの設備は、以前にも増して強化され、彼女の強大な力にも耐えうるよう、特殊なシールドが何重にも施された。そして、彼女の精神的な負担を軽減するため、専門のカウンセラー(もちろん、Kの秘密を知る、ごく限られたスタッフだ)によるメンタルケアも、さりげなく導入された。
暦は、あの夜に溢れ出た感情の奔流を、一つ一つ丁寧に音と言葉に置き換えていく。それは、決して楽な作業ではなかった。時には、あの恐ろしい記憶の断片が蘇り、筆が止まってしまうこともあった。しかし、そんな時、東雲さんは決して彼女を急かすことなく、ただ静かに寄り添い、彼女が再び立ち上がるのを待っていてくれた。
「大丈夫だよ、暦さん。君のペースでいい。君の心の中から生まれてくるものだけが、本物の音楽なんだから」
その言葉に、暦は何度救われたことだろうか。
そして、彼女の「力」は、音楽制作においても、驚くべき効果を発揮し始めていた。
彼女が特定の感情を込めてメロディーを奏でると、その音色には、言葉では表現できないような、聴く者の魂に直接響くような、不思議な「響き」や「波動」が込められるのだ。それは、喜びの感情であれば、聴く者を高揚させ、希望で満たすような輝かしい音となり、悲しみの感情であれば、聴く者の心の奥底にある悲しみにそっと寄り添い、涙と共に浄化してくれるような、深く優しい音となった。
東雲さんは、その現象を目の当たりにし、改めてK(暦)の才能の規格外さと、その力の持つ無限の可能性に戦慄した。
(…これは、もはや音楽というよりも、一種の「魔法」に近いのかもしれない…彼女の歌声は、人々の魂を直接癒し、そして導く力を持っている…)
彼は、この新曲「星詠みの鎮魂歌」が、Kの、そして世界の音楽史における、新たな金字塔となることを確信していた。
暦もまた、自分の「力」が、音楽を通じてこんなにも豊かで、そして深い表現を生み出すことができるという事実に、驚きと、そして大きな喜びを感じていた。
怖い記憶も、力の暴走の不安も、まだ完全には消えていない。
でも、この音楽がある限り、そして、この音楽を共に創り上げてくれる東雲さんがいる限り、自分はきっと前に進んでいけると、強く信じられるようになっていた。
床に転がっていた小さなオルゴールが、まるでその二人の決意を祝福し、そして未来へのプレリュードを奏でるかのように、窓から差し込む秋の柔らかな日差しを受けて、キラリと、しかし確かな光を放った。
嵐の後のサンクチュアリには、コーヒーの芳醇な香りと、そして二人の「共犯者」が紡ぎ出す、未来への希望に満ちた美しい旋律が、静かに、しかし力強く響き渡っていた。




