第四十九話:次元を超える歌姫と、教室の小さな嵐
サンクチュアリでの嵐のような一夜が明け、月島暦が東雲翔真さんと共に新たな誓いを立ててから、数週間が過ぎた。
暦は、東雲さんの献身的なサポートと、友人たちの変わらない優しさに支えられ、少しずつ心の安定を取り戻しつつあった。異世界の記憶のフラッシュバックは依然として彼女を襲うことがあったが、その度に東雲さんに相談し、彼の的確なアドバイスと励ましによって、なんとか乗り越えていた。
そして、あの夜、感情のままにピアノで奏でた激しくも美しい旋律は、東雲さんの手によって、Kの次なる新曲として、着々と形になりつつあった。それは、暦自身の魂の叫びが込められた、特別な楽曲だった。
一方、世間では、あの中学校での衝撃的なサプライズライブ以降も、Kの勢いはとどまるところを知らなかった。
東雲翔真の指揮のもと、キララチューブは、以前「超効率的撮影」でストックしておいた膨大な量の映像素材や音源を巧みに編集し、Kの公式チャンネルで、まるで計算し尽くされたかのように、断続的に、しかし常に新鮮な驚きをもってコンテンツを公開し続けていた。
ある時は、ほんの数十秒の、息をのむほど美しいイメージクリップ。またある時は、Kの日常(もちろん、それは巧妙に演出されたものだが)を垣間見るかのような、親近感の湧くショートムービー。そして、時には、未発表曲のほんのワンフレーズだけをアカペラで歌う、謎めいたティザー映像…。
それら一つ一つが、公開されるたびに世界中で爆発的な話題となり、Kのミステリアスな魅力と、その才能の底知れなさを、さらに際立たせていた。
「今日のKの動画、見た!? あの衣装、可愛すぎ!」「Kって、一体何人いるんだ?ってくらい、コンセプトが毎回違うよね!」「次の新曲はいつ!? もう待ちきれない!」
ネット上は、常にKへの期待と興奮の声で溢れかえり、Kの名前は、もはや単なるアーティストではなく、一つの巨大な「カルチャーアイコン」として、世界中の若者たちの心を掴んで離さなかった。キララチューブの株価も、Kのコンテンツが公開されるたびに鰻登りに上昇し、業界内外から驚異の目で見られていた。
しかし、その一方で、K本人が公の場に姿を現すことはなく、その「沈黙」は、かえってファンの飢餓感を煽り、次なる「Kの降臨」への期待を、極限まで高めていたのだった。
そして、中間テストも終わり、生徒たちが少しだけ解放感を味わい始めた、ある十一月の金曜日の午後。
世界中のKファンのスマートフォンに、キララチューブK公式チャンネルから、一斉にプッシュ通知が届いた。
『【緊急告知】今夜20時、Kが再び世界を揺るがす。刮目して待て。』
そのあまりにもシンプルで、しかし挑戦的なメッセージは、瞬く間にネットを駆け巡り、Kの「電撃カムバック」への期待は、一気に最高潮へと達した。
「Kが帰ってくる!」「今夜20時、絶対に見逃せない!」「一体何が起こるんだ!?」
その日の学校の話題は、もちろんKのことで持ちきりだった。暦もまた、友人たちの興奮した会話を、平静を装って聞きながらも、内心では(いよいよなんだ…東雲さんと一緒に準備してきた、私たちの新しい挑戦が…)と、緊張と武者震いが入り混じった、複雑な感情を抱えていた。
そして、運命の夜8時。
世界中の数千万人が、固唾を飲んでKの公式チャンネルの生配信を見守っていた。
画面は、最初は漆黒の闇。やがて、そこに一筋の光が差し込み、Kのシルエットがゆっくりと浮かび上がる。
そして始まったのは、現実のライブステージと、最新鋭のAR(拡張現実)技術、そしてKの変幻自在な「力」(もちろん、視聴者には世界最高峰のCG技術と特殊効果と認識されている)が、完璧に融合した、前代未聞のオンラインライブパフォーマンスだった。
Kは、荘厳な雰囲気の現実のステージで、あのサンクチュアリでのピアノの旋律を元に作られた、魂を揺さぶるような新曲を切々と歌い上げる。その歌声は、以前にも増して深みを増し、聴く者の心の奥底に直接語りかけてくるような、圧倒的な力を持っていた。
そして、曲がサビに差し掛かると、驚くべきことが起こった。
Kの姿が一瞬にして光に包まれ、次の瞬間には、背中に純白の翼を生やした、まるで天使のようなアバターへと変化する。同時に、現実のステージの背景は、AR技術によって、満天の星々が降り注ぐ幻想的な宇宙空間へとシームレスに切り替わったのだ。
天使の姿のKが、宇宙空間を優雅に舞いながら歌う。そのあまりにも美しく、そして神々しい光景に、世界中の視聴者は言葉を失い、ただただ涙した。
その後も、Kは曲調に合わせて、森の妖精、未来都市の戦士、深海のマーメイド…と、次々とその姿をアバターへと変化させ、それに合わせて背景もまた、息をのむような美しい異空間へと変貌していく。それは、もはやライブというよりも、一本の壮大なファンタジー映画を観ているかのような、圧倒的な没入感と感動を視聴者に与えた。
まさに、Kにしかできない、魔法のようなエンターテイメント。
ライブのクライマックスでは、再び現実のKの姿に戻り、ファンへの感謝の言葉と共に、平和への祈りを込めたアカペラを披露。その澄み切った歌声は、全てのノイズを消し去り、世界中の人々の心に、静かに、しかし深く染み渡っていった。
配信終了後、SNSは再びKへの称賛と感動の嵐で埋め尽くされた。
「Kは、もはやアーティストではない。女神だ…」
「こんなライブ、今まで見たことがない! まさに奇跡!」
「Kの新曲、魂が震えた…絶対に買う!」
Kは、「次元を超える歌姫」「新時代のエンターテイメントの創造主」として、その名を世界の音楽史に、そして人々の記憶に、永遠に刻み込むことになった。
翌日の月曜日。
月島暦は、少しだけ寝不足気味の目をこすりながら、いつも通り中学校の制服に身を包み、校門をくぐった。
案の定、学校中は、金曜の夜のKのライブの話題で、朝から大騒ぎだった。
「昨日のKの生配信、見た!? あれ、本当に人間業なの!? CGだとしても、凄すぎでしょ!」
「あのアバター、全部K本人なのかな? 声も動きも、完全にKだったよね!」
「新曲、ヤバすぎて鳥肌立った…歌詞も、なんかすごく深くて…」
暦は、友人たちの興奮した会話を、平静を装って聞きながらも、内心では(やった…! 東雲さんと一緒に、また新しい『奇跡』を創れた…! みんな、喜んでくれてる…!)という大きな達成感と、そして(でも、これ以上有名になったら、本当に大丈夫なのかな…私の秘密…)という、新たな、そしてより大きな不安を感じていた。Kとしての自分が輝けば輝くほど、月島暦としての日常が脅かされるかもしれないという恐怖。それは、常に彼女の心の片隅に、重くのしかかっていた。
そんな時、休み時間に、早川美咲が、少し真剣な顔つきで暦のそばにやってきた。
「ねえ、暦ちゃん。金曜日のKのライブ、もちろん見たよね?」
「う、うん…もちろん…すごかったよね…」
「あのね…新曲の歌詞、なんか、暦ちゃんが前に美術の授業で言ってた『心の奥にある、言葉にならない叫びみたいなものを表現したい』って話と、すごく似てる気がしたんだよね…。あと、Kが歌ってる時の、ちょっとした手の動きとか、視線の配り方とかも、文化祭の演劇の時の、暦ちゃんが舞台袖で役者さんに指示出してた時の真剣な表情と、なんだか重なって見えちゃって…」
美咲の言葉は、以前よりもさらに鋭く、そして具体的だった。
「―――っ!!!」
暦の心臓が、大きく跳ねた。顔からサッと血の気が引き、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
(に、似てる…!? 仕草まで…!? うそでしょ、そんなはずは…! Kの時は、ちゃんと意識して変えてるつもりなのに…!)
「え、そ、そんなことないよ! Kさんは、もっとずっと大人っぽくて、プロフェッショナルで、私なんかとは、ぜーんぜん違うってば! 美咲ちゃん、きっと気のせいだよ!」
必死で否定するが、声は震え、顔は引きつっているのが自分でも分かる。
美咲は、じっと暦の顔を見つめていたが、やがて、ふっと息を吐き、そして少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「…そっか。ごめんね、変なこと言って。でもね、もし暦ちゃんが何か悩んでることがあったら、いつでも私に話してね。友達でしょ?」
その言葉に、暦は、胸が締め付けられるような思いだった。これ以上、大切な友人に嘘をつき続けることへの罪悪感。しかし、真実を話すことはできない。
「…うん。ありがとう、美咲ちゃん」
そう答えるのが、今の暦には精一杯だった。
その日の放課後。美術室で一人、キャンバスに向かっていた暦の元に、相田翔くんが、静かにやってきた。
「月島さん。金曜日のKのライブ…素晴らしかったね。特に、あの新曲…『魂の叫び』とでも言うべきか…。あの曲を聴いていたら、なぜか、君が文化祭の時に描いていた、あの森の絵の奥深くに広がる、もっと暗くて、でもどこか神聖な空間を思い出したんだ。そして、君が持っていた、あのオルゴールの音色とも、どこか通じるものがあるような気がして…」
相田くんは、いつものように物静かな口調だったが、その言葉には、確かな確信と、そして暦の心の奥底まで見透かすような、鋭い洞察力が込められていた。
暦は、その言葉に、心臓が喉から飛び出しそうになるほどの衝撃を受けた。相田くんの、普段は物静かなその瞳が、今はまるで全てを見透かすかのように、真っ直ぐに自分を射抜いている。
(ど、どうしよう…! 相田くん、なんでそんなことまで…!? 私の絵と、Kの曲と、オルゴールの音色が、繋がってるなんて…そんなの、偶然で片付けられるわけない…!)
顔からサッと血の気が引き、背中にはじっとりと嫌な汗が滲み始める。頭の中は、警報がけたたましく鳴り響き、思考が完全にショート寸前だ。
しかし、ここで「はい、そうです、私がKです」なんて言えるわけがない!
「え、あ、あの…そ、そうかなぁ…? あはは…」
暦は、必死で平静を装い、乾いた笑いを浮かべた。声が震えているのが自分でも分かる。
「Kさんの新曲、確かにすごく素敵だったけど…私の絵とは、ぜ、全然関係ないと思うよ? オルゴールの音色も…ほら、クラシックとかって、似たようなメロディー、いっぱいあるじゃない? きっと、それだよ、うん!」
目を泳がせ、早口でまくし立てる。我ながら、苦しすぎる言い訳だ。こんなので、この鋭い相田くんを誤魔化せるはずがない。
案の定、相田くんは、じっと暦の顔を見つめたまま、何も言わない。その沈黙が、暦にとっては拷問のように感じられた。
(だ、ダメだ…もう、何を言ってもボロが出そう…! しかも、なんか、落ち着かない…! 頭の中がぐちゃぐちゃで、息が…!)
暦がパニックで思考がショートしそうになった、まさにその時だった。
相田くんの視線が、ふと、暦の頭上、その少し後ろの空間へと、ほんの一瞬だけ吸い寄せられた。彼の大きな瞳が、信じられないものを見たかのように、わずかに見開かれる。
実は、暦の極度の緊張と動揺に呼応して、彼女のすぐ近くの絵筆立てに入っていた数本の絵筆が、カタカタと微かに震え始めたかと思うと、ふわり、と数センチ宙に浮き上がり、そしてまるで意思を持ったかのように、ゆっくりと、しかし確実に、暦の頭の周りをくるくると優雅に(?)回り始めていたのだ! さらに、机の上に置いてあった消しゴムや鉛筆までもが、まるで小さな衛星のように、ふよふよと彼女の周りを漂い始めている。
しかし、当の暦は、相田くんの鋭い視線から逃れるように必死で目を泳がせ、自分の周囲で起こっているありえない現象には全く気づいていない。彼女の意識は、ただひたすら「どうやってこの場を切り抜けるか」という一点に集中していた。
相田くんは、目の前の暦の必死な表情と、その背後で起こっているシュールで不可解な光景を、交互に見比べ、言葉を失っていた。彼は、自分の正気を疑い始めた。これは、あまりにも文化祭の準備で疲れすぎているせいだろうか? それとも、自分は何か、見てはいけないものを見てしまっているのだろうか…?
もはや、一刻の猶予もない!(と暦は勝手に思い込んでいる)
「あ、あ、あのねっ! そ、そうだ! 私、急に思い出したんだけど、今日、PTAのお母さんたちのお手伝いがあって、もう行かないと大変なことになっちゃうんだったー! ご、ごめんね、相田くん、本当にごめん! また今度、絶対ゆっくり話そうねっ!」
暦は、自分でも何を言っているのか全く分からないような、支離滅裂で、そして明らかに嘘だと分かるような言い訳を、息も絶え絶えにまくし立てると、相田くんの返事も待たずに、文字通り転がるように美術室を飛び出した。
暦が部屋から飛び出した瞬間、まるで魔法が解けたかのように、ふよふよと浮いていた絵筆や文房具たちは、何の音もなく、すっと元の位置へと収まった。
残された相田くんは、あまりにも突然の、そしてあまりにも不自然な暦の退場劇と、先ほどまで自分の目の前で起こっていた(はずの)奇妙な現象の余韻に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
(……今の……一体……何だったんだ……? 俺は、夢でも見ていたのか……?)
彼は、自分の頬をそっとつねってみる。確かに痛い。現実だ。
しかし、あの浮遊する絵筆たちは、一体…。そして、あの時の月島さんの、尋常ではない慌てぶりと、その瞳の奥に宿っていた深い動揺は…。
(…まさか…月島さん……いや、そんなはずは……でも……)
彼の心の中に、大きな、そして解き明かせない謎が、深く刻み込まれた。
そして、美術室の床には、先ほどまで暦の周りをくるくると回っていた絵筆のうちの一本が、ぽつりと落ちているのを、彼はまだ気づいていない。それは、彼女の秘密の、ほんの小さなカケラだったのかもしれない。
(…ごまかせ…た…かな…?)
遠ざかっていく廊下で、息を切らしながら、暦はそんなことを考えていた。もちろん、自分の周りで何が起こっていたのか、彼女は全く知らないまま…。
月島暦の秘密の境界線は、今、確実に、そして大きく揺らぎ始めていた。そしてそれは、彼女の日常に、新たな、そしておそらくは避けられないであろう嵐を、容赦なく呼び込もうとしているのかもしれない。彼女のドキドキハラハラな二重生活は、ますますスリリングで、そして予測不可能な局面へと突入していくのだった。




