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月影の万華鏡 ~魔法のプリズム、輝くシークレットライブ~  作者: 輝夜
第四章:秋色のパレットと、秘密のメロディー

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第四十八話:嵐の後の静寂と、共犯者の新たな誓い


サンクチュアリへと続く秘密の通路を、東雲翔真しののめ しょうまは、かつてないほどの焦燥感に駆られながら、ほとんど全力疾走に近い速度で駆け抜けていた。彼の額には玉のような汗が浮かび、整えられていたはずの髪も、今は数本が乱れて額にかかっている。しかし、そんなことを気にする余裕は、今の彼には微塵もなかった。

(頼む…間に合ってくれ…! 暦さん…!)

彼の脳裏には、先ほど感じた、あの制御を失いかけた強大なエネルギーの波動と、それに伴う最悪のシナリオが、繰り返し再生されていた。K――月島暦が持つ「力」の底知れなさは、彼が誰よりも理解しているつもりだった。しかし、それは同時に、一歩間違えれば、彼女自身をも、そして周囲をも破滅に導きかねない、危険なやいばでもあったのだ。


息を切らし、最後のセキュリティドアを強引に突破するようにして、東雲しののめはサンクチュアリへと転がり込んだ。

そして、彼が目にしたのは――。

部屋の中央に置かれたグランドピアノの前に、力なくうなだれるように座り込み、か細い肩を震わせている、小さな少女の姿だった。

先ほどまでの、嵐のような激情を叩きつけるかのようなピアノの音色は完全に消え去り、代わりに、部屋を満たしているのは、息を殺したような静寂と、そして、彼女の嗚咽おえつだけが微かに聞こえる、痛々しいまでの空気だった。

ピアノの鍵盤の上には、彼女の涙の跡が、いくつも小さな水たまりを作っている。

そのあまりにも儚げで、そして痛ましい姿に、東雲しののめは、一瞬、言葉を失った。Kとしての神秘的なオーラも、ましてやあの「審判の女神」のような威厳も、今の彼女からは微塵も感じられない。そこにいたのは、ただ、大きな悲しみと恐怖に打ちひしがれ、助けを求めるように小さく震えている、13歳の少女、月島暦つきしま こよみその人だった。


「…暦さん…!」

東雲しののめは、努めて落ち着いた声で呼びかけながら、ゆっくりと彼女に近づいた。下手に刺激すれば、彼女の精神状態がさらに不安定になるかもしれない。細心の注意が必要だった。

彼の声に、こよみは、びくりと肩を震わせ、そしてゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳は、涙で真っ赤に腫れ上がり、焦点が合っていないかのように虚ろだった。そして、その瞳の奥には、まだあの鮮烈なコバルトブルーの光の残滓が、微かに揺らめいているように見えた。

「…しののめ…さん…? わ、私…また…何か…変なこと…しちゃった…みたいで…」

その声は、か細く、途切れ途切れで、聞いているだけで胸が締め付けられるようだった。

「大丈夫、大丈夫だよ、暦さん。何も心配いらない。まずは、落ち着いて。ゆっくり息をしてごらん」

東雲しののめは、彼女のそばにそっと膝をつき、その小さな背中を、できる限り優しく、そして安心させるように、ゆっくりと撫でた。その手は、驚くほど温かかった。

こよみは、その温もりに、まるで凍てついていた心が少しずつ溶けていくかのように、嗚咽の合間に、ぽつり、ぽつりと、先ほど自分を襲った恐怖の体験を語り始めた。

「…ピアノを…弾いていたら…また、あの…怖い夢みたいなのが…頭の中に…暗くて…冷たくて…誰かが…苦しんでて…私…どうしたらいいか…分からなくて…それで…気づいたら…ピアノの音が…すごく大きくなってて…部屋が…揺れてるみたいで…私…また、何か…壊しちゃったんじゃ…ないかって…怖くて…」

その言葉は、支離滅裂で、論理的な繋がりはほとんどなかったが、彼女がどれほどの恐怖と混乱の中にいたのかを、痛いほど物語っていた。


東雲しののめは、黙って、しかし真剣に、彼女の言葉に耳を傾けた。

(…彼女が言っていた「怖い夢みたいなの」…あれが、彼女の力の源泉であり、同時に不安定さの原因なのかもしれない…。そして、それが彼女の感情と深く結びつき、力の暴走を引き起こしかけていた…今回は、サンクチュアリの遮断壁が、かろうじて外部への影響を最小限に抑えてくれたようだが…もし、これがもっと開けた場所だったら…考えただけでも恐ろしい…)

彼の背筋を、再び冷たい汗が伝う。しかし、彼は決してその表情を顔には出さず、ただひたすら、こよみが落ち着くまで、優しく彼女の背中を撫で続けた。

やがて、こよみの嗚咽が少しずつ収まり、呼吸も落ち着いてきた頃、東雲しののめは、静かに、しかし確かな口調で語りかけた。

「暦さん。君が何を見たのか、そして何を感じたのか、僕にはまだ正確には分からない。でも、君が今、すごく怖くて、辛い思いをしていることは、痛いほど伝わってくるよ」

彼は、そこで一旦言葉を切り、そして、こよみの涙で濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめた。

「…でもね、暦さん。君は、決して一人じゃない。僕がいる。君の秘密も、君の抱える恐怖も、僕が必ず受け止める。そして、君のその素晴らしい才能と、その力の本当の意味を、一緒に見つけていきたいんだ」

その言葉には、プロデューサーとしての計算も、打算も一切なかった。それは、一人の人間としての、東雲翔真しののめ しょうまの、偽らざる本心だった。

「君の力は、決して誰かを傷つけるためのものじゃない。君の音楽が、たくさんの人々の心を癒し、勇気づけているように、君のその力もまた、きっと誰かのためになる、素晴らしい可能性を秘めているはずだ。僕は、そう信じている」

「…でも…私…怖いです…この力が…また、何か悪いことを引き起こしそうで…それに、あの怖い記憶も…あれが何なのか…思い出すのが…」

こよみの声は、まだ震えていた。

「大丈夫だよ」東雲しののめは、力強く、そして優しく言った。「怖い記憶なら、無理に思い出さなくていい。君が、その力と向き合う準備ができるまで、僕が必ず君を守る。そして、もし君がその力をもっと深く理解し、コントロールしたいと願うなら、僕も全力でその方法を探す。世界中のどんな専門家でも、どんな文献でも、必ず見つけ出してみせる。だから…」

彼は、そっとこよみの冷たくなった手を握りしめた。

「だから、暦さん。どうか、僕を信じてほしい。そして、君自身を信じてほしい。君は、決して怪物なんかじゃない。君は、奇跡を生み出すことのできる、唯一無二の存在なんだから」


東雲しののめのその言葉は、まるで温かい光のように、こよみの凍てついた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。

彼女は、しばらくの間、何も言えずに、ただ東雲しののめの真摯な眼差しを見つめていた。そして、やがて、その瞳から、また一筋の涙が静かに流れ落ちた。しかし、それは先ほどまでの恐怖の涙ではなく、安堵と、感謝と、そしてほんの少しの勇気が込められた、温かい涙だった。

「……はい……東雲さん……私…信じます……東雲さんのこと…そして…ほんの少しだけなら…自分のことも…信じてみようと…思います…」

その言葉は、まだか細かったけれど、そこには確かな決意が宿っていた。


東雲しののめは、その言葉に、心の底から安堵し、そして改めて、この少女のために全力を尽くそうと、強く心に誓った。

「ありがとう、暦さん。その言葉が聞けて、本当に嬉しいよ」

彼は、そっとこよみの手を離し、そして立ち上がると、部屋の隅に置いてあった救急箱から、冷却シートと温かい飲み物を用意した。

「さあ、まずは少し休もう。今日はもう、何も考えなくていい。君は、本当に頑張ったんだから」

東雲しののめのその優しい言葉と、さりげない気遣いに、こよみの心は、嵐が過ぎ去った後の、穏やかな静けさを取り戻し始めていた。


その夜、こよみは、東雲しののめが手配した車で、誰にも気づかれることなく自宅へと送り届けられた。養父母には、東雲しののめさんから「こよみさんは、Kとしての新しいプロジェクトの準備で少しお疲れのようだったので、今日は早めに休ませていただきました。明日の学校には問題なく行けると思います」と、上手く連絡を入れてもらっている。

自室のベッドにもぐり込んだこよみは、今日の出来事を思い返していた。

あの恐ろしい記憶のフラッシュバック。力の暴走の恐怖。そして、東雲しののめさんの、揺るぎない言葉と温もり。

(…私、一人じゃないんだ…東雲さんがいてくれる…)

その事実が、彼女の心に、小さな、しかし確かな灯火をともした。

まだ、怖いものは怖い。不安が完全に消えたわけでもない。

でも、きっと大丈夫。一歩ずつ、ゆっくりとでも、前に進んでいけるはずだ。

そんな予感を胸に、こよみは、久しぶりに穏やかな眠りへと落ちていった。


一方、東雲翔真しののめ しょうまは、サンクチュアリに残されたグランドピアノの前に一人佇んでいた。

鍵盤の上には、まだこよみの涙の跡が、乾かずに残っている。

彼は、そっとその鍵盤に触れた。そして、今日の出来事と、こよみの告白を、改めて反芻する。

(彼女の力は、彼女の感情と深く結びついている…そして、その感情は、異世界の記憶によって、大きく揺さぶられる…これをコントロールすることは、並大抵のことではないだろう…だが…)

彼の脳裏に、先ほどのこよみの、涙ながらも強い意志を宿した瞳が蘇る。

(…彼女なら、きっと乗り越えられる。そして、僕はそのために、あらゆる手を尽くす。それが、彼女の「共犯者」としての、僕の新たな誓いだ)

東雲しののめは、静かに、しかし力強く、そう心に誓った。

窓の外には、冷たく澄んだ秋の月が、まるで全てを見通すかのように、二人を照らし続けていた。

嵐の後の静寂。しかし、その静寂の中で、二人の絆は、より深く、そしてより確かなものへと、静かに結ばれようとしていた。


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