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月影の万華鏡 ~魔法のプリズム、輝くシークレットライブ~  作者: 輝夜
第四章:秋色のパレットと、秘密のメロディー

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第四十七話:祭りの後の余韻と、オルゴールの囁き


美星祭の熱狂がまるで昨日のことのように鮮やかに思い出される、十月下旬。

校舎を彩っていた華やかな装飾もすっかり片付けられ、月島暦つきしま こよみの通う中学校には、再び穏やかな、しかしどこか文化祭の成功が生んだ心地よい達成感に満ちた日常が戻ってきていた。

1年A組の演劇「異世界の魔法使いと迷い込んだ少女」は、その独創的な世界観と感動的なストーリー、そして何よりもこよみが手掛けた息をのむほど美しい舞台美術と衣装で、校内でも大きな評判を呼び、生徒たちの間ではしばらくの間、「1Aの劇、マジで凄かったよね!」「月島さんのデザイン、神がかってる!」といった称賛の声が絶えなかった。

こよみ自身もまた、クラスメイトたちから改めて感謝され、特に舞台美術と衣装デザインの才能を絶賛されるたびに、顔を真っ赤にしながらも、心の底から湧き上がるような温かい喜びを感じていた。それは、Kとして世界中から注目を浴びるのとはまた違う、もっと身近で、手触りのある、確かな幸福感だった。

(みんなと一緒に何かを創り上げるって、こんなに楽しいことだったんだ…)

クラスメイトたちとの間にも、共に大きなことを成し遂げたという確かな一体感が生まれ、以前にも増して打ち解けた、和やかな雰囲気が漂っている。


特に、脚本・演出を担当した相田翔あいだ しょうくんとの関係には、文化祭を境に、明らかな、そして少しだけ甘酸っぱい変化が訪れていた。

以前は、クラスの中でも特に口数が少なく、どこか捉えどころのない印象だった彼。しかし、文化祭の準備期間中、毎日のように顔を合わせ、一つの作品を創り上げるために熱心に意見を交わした日々は、二人の距離をぐっと縮めていた。

文化祭が終わってからも、休み時間や移動教室の際、ふとした瞬間に目が合い、どちらからともなく小さく、しかし確かな温もりを伴った微笑みを交わし合う。他のクラスメイトにはしないような、少しだけパーソナルな話題――例えば、お互いが最近読んで心に響いた詩の一節や、誰も知らないような古い映画の中で見つけた美しいシーン、あるいは、街角で偶然耳にして忘れられなくなった、名もなきストリートミュージシャンの奏でる不思議な音色の音楽など――で、短いけれど濃密な会話を交わす時間が、まるで秘密を共有するかのように、自然と増えていた。

相田くんは、文化祭で目の当たりにしたこよみの圧倒的な芸術的才能と、時折彼女が見せる、Kの楽曲にも通じるようなミステリアスな雰囲気、そして何よりも、その純粋で真っ直ぐな瞳の奥に秘められた、計り知れないほどの深い感受性に、ますます強く惹かれているようだった。彼が愛読する、難解な思想書や古典文学の言葉よりも、こよみが何気なく口にする、絵や音楽に対する素直な感想の方が、ずっと彼の心を揺さぶり、新たなインスピレーションの扉を開いてくれるのを感じていた。

こよみもまた、相田くんの持つ独特の知的な雰囲気や、不器用ながらも時折見せる優しい一面、そして何よりも、自分の創り出す世界観を、まるで自分のことのように深く理解し、共感してくれるその鋭敏な感性に、少しずつ、しかし確実に心惹かれ始めている自分に気づいていた。しかし、その淡く、そして少しだけ切ない感情が、一体何という名前のものなのか、13歳の彼女にはまだよく分からなかった。ただ、彼のそばにいると、なぜか心が不思議と落ち着き、そして同時に、ほんの少しだけ、胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘くて苦い感覚を覚えるだけだった。


そんなある日の放課後。こよみが美術室で一人、文化祭で使った背景画の修正作業――劇の最中に、ほんの少しだけ色が剥げてしまった月の部分に、丁寧に銀色の絵の具を重ねている――に没頭していると、不意に、背後から静かな声がした。

「月島さん、まだ残ってたんだね。…その絵、何度見ても、心が洗われるようだ。まるで、本当に別の世界への窓みたいだね」

振り返ると、そこには相田くんが、いつものように少しだけ照れたような、それでいて真剣な眼差しで立っていた。彼は、手にしていた文庫本をそっと閉じると、こよみの隣にゆっくりと歩み寄り、彼女が修正している巨大な背景画を、改めてじっくりと、そして何かを確かめるように見つめた。

「あ、相田くん…! うん、ちょっとだけ、気になるところがあって…文化祭、終わっちゃったけど、なんだかこの絵と別れるのが、すごく寂しくて…もう少しだけ、この世界に浸っていたいなって」

こよみは、少し頬を染めながら、素直な気持ちを口にした。

相田くんは、何も言わずに、しばらくの間、こよみが描いた幻想的な三つの月が浮かぶ森の絵と、その絵に真摯に向き合う彼女の横顔を、交互に見つめていた。その静かで穏やかな時間が、こよみにとっては少しだけ気まずくもあり、でも、なぜか不思議と心地よくもあった。美術室には、油絵の具のツンとした独特の匂いと、窓から差し込む夕暮れ時のオレンジ色の光が満ちていて、まるで世界に二人だけしかいないような、そんな親密な錯覚に陥りそうになる。

やがて、相田くんがぽつりと言った。

「…月島さんの描く世界って、どこか遠い、僕たちの知らないはずの場所なのに、でも、なぜかすごく懐かしい感じがするんだ。まるで、僕がずっと昔に、どこかで確かに体験して、そしていつの間にか忘れてしまっていた、大切な何かを思い出させてくれるような…そんな不思議な感覚になるんだ」

その言葉は、まるでこよみの心の奥底に隠された、秘密の小箱の鍵を、そっと回すかのように、彼女の胸に深く、そして優しく響いた。彼女は、思わず筆を止め、驚いたように相田くんの顔を見つめた。彼の瞳は、いつもよりずっと真剣で、そしてどこか切なげな、それでいて吸い込まれそうなほど深い、不思議な色を帯びている。

「…僕ね、時々、とても鮮明な夢を見るんだ。一度も行ったことがないはずなのに、なぜか細部まで、まるで自分の記憶のように覚えている風景の夢を。そこには、いつも言葉では表現できないような、美しくて、そして少しだけ物悲しい音楽が流れていて…月島さんの絵を見ていると、その夢の中の風景と、そして君が時折、美術室で一人でいる時に、ふと口ずさんでいる鼻歌のメロディーが、どこか不思議と重なるような気がするんだ」

「え…?」

こよみは、息を呑んだ。相田くんの言葉は、まるで自分の心の奥底にある、誰にも見せたことのない秘密の庭に、そっと足を踏み入れられたかのように、彼女の心を激しく揺さぶった。彼もまた、何か特別な感受性を持っているのだろうか。それとも、これは、ただの偶然なのだろうか…。

「…ごめん、突然、訳の分からないことを言ってしまって。でも、君の絵には、そういう特別な力があると思うんだ。人を惹きつけ、そして、その人の心の奥底に眠っている、忘れかけていた大切な何かを、そっと呼び覚ますような、そんな優しい力が」

相田くんは、少し照れたように俯くと、おもむろに学生鞄の中から、小さな、アンティーク調の木製のオルゴールを取り出した。それは、長年大切に使い込まれたような、温かみのある、そしてどこか懐かしい風合いをしていた。

「…これ、僕の、たった一つの宝物なんだ。本当に小さい頃、誰かにもらったのか、それとも偶然どこかの古いお店で見つけたのか…全然覚えてないんだけど、なぜかずっと、肌身離さず持ってる。そして、このオルゴールの音色を聴くと、いつもあの不思議な夢を見るんだ。まるで、この音が、僕を夢の世界へと誘う、秘密の呪文になっているみたいに…」

彼が、そっとオルゴールの小さな金の留め金を外し、蓋を開けると、そこから流れ出してきたのは、澄み切った、どこか物悲しくも、しかし聴く者の心を優しく包み込むような、美しい、美しいメロディーだった。

その瞬間、こよみの脳裏に、再び、あの「三つの月が浮かぶ海辺のリゾート」の光景と、そこで聴いた、優しくて切ない子守唄のような歌が、鮮明に、そして抗いがたいほどの力で蘇った。

(…このメロディー…うそ…どうして…!? まさか…ありえない…!)

オルゴールの音色は、彼女の記憶の奥底に深く、深く刻み込まれていた、あの異世界の、二度と聴くことはないと思っていた歌と、寸分違わず、完全に、そして奇跡のように一致していたのだ。

全身の血が、一瞬にして沸騰し、そして次の瞬間には凍りつくような、強烈な衝撃。

「この曲…どこかで…ううん、私、この曲、知ってる…絶対に、知ってる…!」

こよみは、言葉を失い、ただ目の前の小さなオルゴールと、驚いたように、そして何かを期待するような眼差しでこちらを見つめる相田くんの顔を、交互に見つめることしかできなかった。

偶然? そんなはずはない。こんな、まるで運命の糸が手繰り寄せられたかのような奇跡的な偶然が、この世界にそうそうあってたまるものか。

それとも、これは、何か大きな、目に見えない力が、二人を、そして二つの世界を、再び引き合わせようとしているという、明確な啓示なのだろうか…?

二人の間に、甘酸っぱいという言葉では到底表現しきれない、もっと深く、もっと根源的で、そしてどこかミステリアスな何かが、まるで目に見えない、しかし強靭な絆のように、流れ始めた瞬間だった。

こよみは、相田翔という、物静かで、しかしその瞳の奥に底知れない何かを秘めた少年の存在が、自分にとって、ただのクラスメイトではない、何か特別で、そしてもしかしたら、自分の失われた過去と未来を繋ぐ、重要な鍵となるのかもしれないと、漠然と、しかし強く感じ始めていた。そしてそれは、Kとしての自分にも、否応なく、そして決定的な影響を与えていくことになるのかもしれない、という、抗いがたい、そして少しだけ恐ろしい予感を伴っていた。


文化祭の熱狂が冷めやらぬ一方で、こよみの心の中には、あのオルゴールの澄み切った音色と、相田くんの真剣な眼差し、そして彼の語った不思議な夢の話が、まるで小さな棘のように、ずっと、ずっと残り続けていた。

それは、美しいけれど、触れれば血が滲みそうな、甘くて痛い、記憶の棘。

授業中も、美術部の活動に没頭している時でさえも、ふとした瞬間に、あのメロディーが頭の中でリフレインし、胸が締め付けられるような、切ない感覚に襲われる。

そして、それに呼応するかのように、あの「恐ろしい記憶」の断片――暗く冷たい場所の感触、誰かの荒い息遣い、そして、遠くで聞こえる悲痛な叫び声――もまた、以前よりも頻繁に、そしてより鮮明に、彼女の心を容赦なくよぎるようになっていた。

その度に、こよみは言いようのない恐怖感や息苦しさを感じ、顔色が悪くなったり、持っている絵筆を床に落としてしまったり、周囲の音が全く聞こえなくなるほど集中力が完全に途切れてしまったりする。

友人たちからは「こよみちゃん、最近ちょっと顔色が悪いことが多いけど、大丈夫? 無理してない?」と心配されるが、本当のことは誰にも言えず、彼女はただ「うん、ちょっと寝不足なだけだから、心配しないで」と、力なく微笑むことしかできなかった。一人で、その得体の知れない恐怖と、そして徐々に輪郭を現し始める「過去」と、必死で向き合おうとしていたのだ。


Kとしての創作活動にも、その影響は顕著に、そして தவிர்க்க(よ)けようもなく現れ始めていた。

東雲しののめさんとの、次のシングル曲に関する、いつものサンクチュアリでの極秘会議。

「暦さん、次の曲のコンセプトですが、何か具体的なイメージはありますか? 前回の『瑠璃色の潮騒』が、Kの世界観を新たなステージへと押し上げたと、各方面から非常に高い評価を得ています。その流れを汲みつつ、さらにKの深淵しんえんへと迫るような楽曲も良いかもしれませんね」

東雲しののめさんのその言葉に、こよみは、ふと、あのオルゴールの切ないメロディーと、そして胸を締め付けるような「恐ろしい記憶」の断片を、鮮明に思い浮かべていた。

そして、まるで何かに憑かれたかのように、無意識のうちに、こんな言葉を口にしていた。

「…もっと…もっと、心の奥底にある、言葉にならない、どうしようもない叫びのような…あるいは、誰にも届かない、孤独な祈りのような…そんな歌が、歌いたいです…。綺麗なだけの夢物語じゃなくて、痛みも、苦しみも、そして絶望も…でも、その闇の向こうに、ほんの少しだけ見える、か細い光も…その全てを、ありのままに詰め込んだような…そんな、魂の歌を…」

その言葉と、彼女の大きな瞳に宿る、以前とは明らかに違う、どこか切実で、痛々しいほどに純粋で、そして影を帯びた、しかし強烈な輝きに、東雲しののめは息を呑んだ。それは、もはや13歳の少女の言葉とは思えないほどの、深い絶望と、それでもなお失われない希望を内包した、魂の告白のようだった。

「…暦さん…何か、あったのですか…? 最近のあなたの作品のアイデアや、その表情には、以前とは違う、何か…魂の最も深い場所からの叫びのような、強烈なものを感じます。それは、素晴らしい芸術的衝動であると同時に、見ているこちらが胸を抉られるような、少しだけ…危うさも感じるのですが…」

東雲しののめさんは、Kのプロデューサーとして、そして月島暦つきしま こよみの唯一の理解者として、彼女の心の奥底にある異変に鋭く気づき、心配そうに、しかし決して彼女の領域に踏み込みすぎないよう、慎重に言葉を選んで問いかけた。

こよみは、その東雲しののめさんの真摯な眼差しに、一瞬、全てを打ち明けてしまいたいという、強い衝動に駆られた。あのオルゴールのこと、相田くんの不思議な夢のこと、そして、日に日に鮮明になり、自分を苛む、あの恐ろしい記憶の断片のことを…。

しかし、まだ、その得体の知れない恐怖を、正確に言葉にすることができない。そして、東雲しののめさんに、これ以上心配をかけたくないという気持ちも、彼女の中で強く作用していた。

「…いえ、別に…何もありません。ただ…Kとして、もっともっと、たくさんの感情を、色々な側面から表現できるようになりたいんです。光だけじゃなくて、影も…喜びだけじゃなくて、悲しみも…そういう、人間の持つ全ての感情を、私の歌で伝えられたらなって…そう、思っただけです」

こよみは、努めて落ち着いた、しかしどこか寂しげな笑顔を作り、そう答えた。

東雲しののめさんは、しばらくの間、じっとこよみの顔を見つめていたが、やがて、深く、そして静かに頷いた。

「…分かりました。あなたのその想い、確かに受け止めました。ならば、Kの次なるステージは、その『魂の叫び』を、そしてその奥にある『光』を、最高の形で世界に届けるためのものにしましょう。私が、あなたの表現したい全てのものを、全力でサポートします。ですから…決して、一人で抱え込まないでください。どんな些細なことでもいい。何かあったら、必ず私に話してください。いいですね?」

彼の言葉には、K(暦)への絶対的な信頼と、そして彼女が抱えるであろう「何か」を、共に乗り越えていこうという、プロデューサーとしての、そして一人の人間としての、揺るぎない決意が込められていた。その温かさに、こよみの張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩んだような気がした。


学校生活は、やがて中間テストが近づき、再び慌ただしい勉強モードへと切り替わっていく。友人たちとの「お菓子だらけの勉強会」も再開されたが、こよみは時折、フラッシュバックの影響で集中できない自分に、苛立ちと焦りを感じずにはいられなかった。

しかし、そんな時、相田くんが、何も言わずにそっと彼女の机の上に、小さなハーブティーのティーバッグと、「無理しないで」とだけ書かれた短いメモを置いてくれたり(彼もまた、こよみの微妙な変化に、そして彼女が抱えるであろう「何か」に、薄々気づいているのかもしれない)、美咲ちゃんが、いつものように底抜けの明るさで「こよみちゃん、大丈夫? ちょっと顔色悪いよ? 今日はもう休んで、また明日頑張ろっか!」と、何も深くは詮索せずに、ただ隣にいて笑いかけてくれたりすることで、こよみの心は、少しだけ、本当に少しだけ救われるのだった。

友人たちのさりげない優しさ、東雲しののめさんの揺るぎない支え、そして、相田くんとの間に生まれた、言葉にならない特別な繋がり…。それらが、今のこよみを、かろうじて、しかし確かに支えているのかもしれない。


その夜、こよみは一人、サンクチュアリのグランドピアノの前に座っていた。

窓の外には、冷たく澄んだ秋の月が、まるで全てを見透かすかのように、静かに、そして厳かに輝いている。

彼女は、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。そして、目を閉じ、心の奥底にある、あの言葉にできない「恐ろしい記憶」の断片と、相田くんのオルゴールの、あの切なくも美しいメロディーと、そして自分自身の魂の叫びと、真正面から向き合うように、衝動的に、鍵盤を叩き始めた。

それは、激しく、情熱的で、そしてどこまでも悲しい旋律だった。喜びと絶望、光と影、希望と諦め…相反する感情が、嵐のように彼女の中でぶつかり合い、そして一つの壮大な、そしてどこか祈りにも似た音楽となって、防音設備が施されたはずのサンクチュアリの壁を震わせるかのように、部屋中に響き渡る。

彼女の小さな体から、どうしてこれほどの激情が、そしてこれほどまでに深い悲しみが生まれるのか。その指先から紡ぎ出される音色は、もはや単なる音楽ではなく、彼女の魂そのものの慟哭であり、あるいは、まだ見ぬ未来への、か細いけれど消えない希望の歌のようだった。

そのあまりにも強大な「想い」の奔流は、こよみ自身も気づかないうちに、彼女の持つ「力」と激しく共鳴し、目に見えないエネルギーの波となって、サンクチュアリの特殊な遮断壁を、ほんのわずかに、しかし確実に、超え始めていた。


その頃、キララチューブ本社の別のフロア。残業していた数人の社員たちが、ふと奇妙な現象に気づき、顔を見合わせていた。

「…ん? おい、今の、聞いたか? まただ…ピアノの音みたいなのが…それも、ものすごく綺麗で、でも、なんだか胸が締め付けられるような…」

「え、先輩、また言ってるんですか? 疲れてるんですよ、きっと。こんな時間にピアノなんて、ありえないですよ。第一、どこから聞こえてくるって言うんです?」

「だよな…気のせいか…でも、なんだか、本当に、すぐ近くで誰かが泣きながらピアノを弾いてるような気がするんだよな…」

別の場所では、オフィスのメインサーバーの冷却ファンが、一瞬だけ異常な高速回転を始め、警告ランプが微かに点滅した。すぐに正常に戻ったが、システム管理部のエンジニアは、原因不明のその現象に、訝しげに首を傾げた。

小さな、しかし説明のつかない異常現象が、社内のあちこちで、まるで何かの前触れのように、散発的に起こり始めていた。それは、K(暦)の心の奥底にある嵐が、現実世界に僅かな波紋を広げ始めている証なのかもしれなかった。


そして、その「異変」の源泉に最も近い場所にいた東雲翔真しののめ しょうまは、自室でKの今後のプロモーション戦略に関する膨大な資料と格闘していた時、背筋にぞくりとした、これまで感じたことのないほどの強烈な悪寒を感じ、思わず顔を上げた。

(…この感覚…まずい…! まさか…!?)

彼の研ぎ澄まされた感覚が、サンクチュアリの方角から放たれる、尋常ではない、そして明らかに制御を失いかけた強大なエネルギーの波動を、明確に捉えていたのだ。それは、以前、K(暦)が初めてその力の片鱗を見せた時とも、そしてあの「女神モード」の時とも違う、もっと荒々しく、そしてどこか悲痛な叫びにも似た、危険な波動だった。

(暦さん…! 一体、何が起こっているんだ…!? あのサンクチュアリの遮断壁が、彼女の力に耐えきれず、揺らいでいるのか…!? このままでは…!)

東雲しののめの顔から、サッと血の気が引く。彼は、読んでいた資料をデスクに叩きつけるように置き、すぐさま立ち上がり、サンクチュアリへと続く秘密の通路へと、全力で駆け出そうとした。

(まずい…! もし、彼女の力が完全に暴走でもしたら…この会社全体が…いや、そんなレベルの話ではない…! それ以上の、取り返しのつかない事態に…!)

彼の脳裏に、最悪のシナリオがいくつも浮かび上がり、冷たい汗が額を、そして背中を伝う。

K(暦)の才能は、まさに奇跡だ。しかし、その力の底知れなさと、そして彼女の心の奥底に潜む「影」の深さは、時として、彼自身が想像する以上の「危険」を孕んでいるのかもしれない。

そのことを、東雲しののめは、今、改めて、そして骨身に染みて痛感させられていた。


サンクチュアリでは、こよみは依然として、一心不乱にピアノを奏で続けていた。

彼女の瞳からは、とめどなく涙が溢れ、頬を伝って鍵盤の上に、まるで雨だれのように落ちていく。しかし、その表情は、単なる悲しみだけではなく、何か大きな、得体の知れないものと必死で対峙し、それを乗り越えようとする、悲痛なまでの強い意志の光を宿していた。

彼女の指先から紡ぎ出される音色は、まるで万華鏡のように、次々とその表情を変えながら、秋の夜空へと、そして彼女自身の魂の最も深い場所へと、どこまでも高く、どこまでも深く、響き渡っていくのだった。

その音楽が、彼女自身の魂を浄化し、そして新たなKの伝説を紡ぎ出すための、力強い産声となるのか、それとも、彼女自身をも飲み込んでしまうほどの、危険な嵐の前触れとなるのか…。

答えはまだ、誰にも分からない。ただ、運命の歯車は、また一つ、大きく、そして確実に、そして少しだけ不穏な音を立てながら、回転を始めていた。


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