第四十三話:祭りの後の静けさと、水面下の奔流
眩い光と共に、月島暦は、Kの姿のまま、キララチューブ本社内にある「サンクチュアリ」へとテレポートした。
先ほどまでの、数千人の観客の熱狂と、地鳴りのような歓声が嘘のように、そこは静寂に包まれていた。
どっと、全身から力が抜ける。
暦は、ふらつきそうになるのをなんとか堪え、近くのソファに崩れるように座り込んだ。
「…はぁ…はぁ……お、わった……」
かすれた吐息と共に、ようやく絞り出した言葉は、深い安堵と、全身を支配する心地よい気怠さを伴う疲労感を物語っていた。繊細なレースがあしらわれたステージ衣装のドレスは、流れ落ちる汗でしっとりと肌に吸い付き、普段は隠されている華奢な鎖骨のラインや、少女らしい柔らかな肩の丸みを、仄かに浮かび上がらせる。激しいパフォーマンスで乱れた銀色の髪は、数本が汗で濡れて頬や首筋に絡みつき、普段のミステリアスなKの雰囲気とは異なる、どこか無防備で、それでいて見る者の目を離させない不思議な引力を放っていた。
(…本当に、終わったんだ…私…やりきったんだ…体の奥から、まだ熱が引かないみたい…心臓も、まだドキドキしてる…)
ほんのりと上気した白い頬、熱を帯びて潤んだ大きな瞳、そして、まだ少しだけ速い、浅い呼吸。その一つ一つが、先ほどまでの神々しいまでのパフォーマンスとは対照的な、生身の少女の存在を、鮮烈に印象付けていた。それは、Kという偶像の仮面が剥がれ落ち、月島暦という一人の少女の、ありのままの輝きが滲み出ている瞬間だったのかもしれない。
まだ夢の中にいるような、ふわふわとした感覚。しかし、耳の奥には、あの割れんばかりの拍手と歓声が、確かに残響している。
「お疲れ様でした、暦さん。…いや、K」
いつものように冷静なトーンを装ってはいたが、その声は微かに震え、そしてどこか熱っぽさを帯びていた。東雲翔真が、いつの間にかK(暦)のすぐそばに立っていた。その手には、冷たいミネラルウォーターのボトルが握られている。彼の額にも、うっすらと汗が滲んでいるのが見えた。普段は完璧に整えられたスーツの襟元も、ほんの少しだけ緩んでいる。
(…東雲さん…いつもと、少しだけ雰囲気が違う…?)
暦は、ぼんやりとした意識の中で、そんなことを感じた。
東雲は、目の前の少女――Kであり、月島暦である存在――から、目が離せないでいた。先ほどまでのステージでの神々しいまでの輝きと、今、目の前で無防備に息を整えている少女の、生々しいまでの存在感。そのあまりのギャップと、そしてそのどちらもが放つ強烈な引力に、彼はプロデューサーとしての冷静さを保つのに、必死だった。
「…最高の、本当に最高のステージでした。言葉になりません。あなたは、今日、本物の奇跡を…いや、奇跡以上のものを、私たちに見せてくれた。ありがとう」
ようやく絞り出した言葉は、プロデューサーとしての称賛以上に、一人の人間としての、偽らざる感動に満ちていた。彼は、差し出したミネラルウォーターのボトルを持つ手が、自分でも気づかないうちに微かに震えているのを感じていた。
「…東雲さん……」
差し出されたボトルを受け取り、暦は震える手でキャップを開け、渇いた喉を潤した。冷たい水が、火照った体に心地よく染み渡る。その無邪気な仕草が、また東雲の心を揺さぶる。
(…いけない。私は彼女のプロデューサーだ。しっかりしなければ…)
東雲は、内心で自分を叱咤し、努めて冷静な表情を取り戻そうとした。
「…はい…なんとか…でも、もう二度とやりたくないです…あんな…あんな心臓に悪いこと…」
暦は、本音と裏腹な言葉を、少しだけ拗ねたように呟いた。本当は、あのステージの上で感じた高揚感と、観客との一体感は、言葉にできないほど素晴らしいものだった。でも、それを素直に認めるのは、なんだか少しだけ恥ずかしい。
東雲さんは、そんな暦の強がりを優しく見透かすように、くすりと笑った。
「…そういえば、最後の曲の時、少しだけ、K様の周りの光の粒子が不安定になったように見えましたが…何か、トラブルでも?」
東雲さんの鋭い指摘に、暦はドキリとした。
(う…やっぱり、気づかれてた…)
実は、最後のアンセムで観客の手元に光を灯した時、あまりにも多くの人々の感情と自分の力が共鳴しすぎて、一瞬だけ、能力のコントロールが揺らぎそうになったのだ。変身が解けそうになったり、テレポートの座標が不安定になったりするような、嫌な感覚。なんとか持ちこたえたが、一歩間違えれば大惨事になっていたかもしれない。
「…だ、大丈夫です! ちょっと、気合が入りすぎちゃっただけですから! 全然、問題ありませんでしたよ、ねっ!?」
暦は、慌てて笑顔を作り、必死で取り繕う。これ以上、東雲さんに心配をかけたくなかった。
東雲さんは、その暦の表情をじっと見つめていたが、やがて何も言わずに頷いた。
「…そうですか。それならいいのですが。とにかく、今日はゆっくり休んでください。素晴らしいパフォーマンスをありがとう。そして、本当にお疲れ様でした」
その労いの言葉に、暦は、ようやく心の底からホッと息をつくことができた。
(…本当に、終わったんだ…)
サンクチュアリの柔らかなソファに深く体を沈めながら、暦は、心地よい疲労感と共に、ゆっくりと瞼を閉じていくのだった。
暦が深い眠りに落ちていくのを見届けた東雲翔真は、彼女の健闘を心から労いつつも、プロデューサーとしての冷静な思考を即座に巡らせ始めていた。K(暦)の肩にそっとブランケットをかけ、彼は静かにサンクチュアリを後にする。今日のところは、無理に帰宅させず、ここでしっかりと疲れを取らせるべきだと判断した。ご両親には、彼から『美術部の強化合宿が、予想以上にハードな内容で、今夜は合宿所に宿泊することになった』と、上手く連絡を入れておく手はずも整っている。
東雲の足は、K特別対策チームが待つオフィスへと急いでいたが、その胸には、先ほどのライブの興奮と、そして目の前で眠る少女への、言葉にできないほどの深い責任感と庇護欲が渦巻いていた。
(彼女のこの穏やかな寝顔を、絶対に守り抜かなければ…)
オフィスに到着した東雲は、スタッフたちからの熱狂的な報告を冷静に受け止めつつ、すぐに的確な指示を出し始めた。
「SNSのトレンド分析と、ネガティブ情報の早期発見・対応を最優先! 広報は、公式声明の準備を! そして社長には、私が直接ご報告に上がる!」
短時間でオフィス内の状況を把握し、指示系統を確立すると、彼は再びグラウンドへと向かうべく動き出す。Kの秘密を守り、この熱狂をコントロールするためには、現場の指揮が不可欠だった。
(暦さんが安心して休めるように、そして明日、笑顔で目覚められるように…私が、全てを完璧に終わらせる…!)
その決意を胸に、東雲は、再び喧騒の待つ戦場へと、その身を投じていくのだった。
その間、中学校のグラウンドでは、東雲から全権を託された現場指揮官、佐伯と田辺が、まさに獅子奮迅の働きを見せていた。
「佐伯さん! 正門付近、帰宅する生徒と、Kの情報を聞きつけて集まってきた野次馬で、少しパニック寸前です!」
「田辺さん! ステージ周り、まだ興奮した一部の生徒が残っていて、機材に近づこうとしています! 警備員だけでは手が足りません!」
インカムから、現場スタッフの悲鳴に近い報告が次々と飛び込んでくる。
佐伯は、元国際ネゴシエーターとしての冷静沈着さを武器に、警察や学校関係者と巧みに連携し、群衆をスムーズに誘導していく。時にはユーモアを交え、時には毅然とした態度で、混乱を最小限に抑えようと奮闘する。
一方、元舞台監督で数々のトラブルを経験してきた田辺は、ステージ周りの安全確保と、機材の保護に全力を注ぐ。彼の的確な指示と、時に荒々しいまでの迫力で、好奇心旺盛な生徒たちを巧みに遠ざけ、貴重な機材を死守していた。
彼らは、東雲がオフィスで対応している間も、常にインカムで状況を共有し、東雲からのリモートでの指示を受けながら、まさに阿吽の呼吸で現場をコントロールしていたのだ。
(東雲部長が戻られるまで、我々がこの場を支えなければ…K様の、そして会社の未来のために!)
その強い使命感が、彼らを突き動かしていた。
やがて、東雲が再びグラウンドに到着した時には、佐伯と田辺の奮闘により、大きな混乱は避けられ、観客の誘導も比較的スムーズに進み始めていた。
「佐伯くん、田辺くん、ご苦労だった。状況は?」
「はい、部長。なんとかコントロールできています。大きな事故やトラブルもありません。ただ、SNS上でのK様の目撃情報や、無許可撮影と思われる動画のアップロードが散見され始めています」
佐伯からの報告を受け、東雲は頷いた。
「よし。ここからは私が指揮を執る。PTAの方々にもご協力を! 生徒たちに冷静な退場を呼びかけていただいてください! そして、くれぐれも、K様に関する憶測やデマが広がらないよう、情報統制を徹底する!」
東雲が現場に戻ったことで、スタッフたちの士気はさらに高まり、撤収作業と情報管理は、より一層迅速かつ的確に進められていく。
そんな中、東雲のスマートフォン(キララチューブ本社とのホットラインだ)が、けたたましく鳴り響いた。画面には「社長」の文字。
「…はい、東雲です」
努めて冷静な声で応答する。
『東雲くんっ!!! 君は…君はやはり天才だっ!!! 今、ネットニュースの速報を見たぞ! 「中学校にK降臨! 数千人が熱狂!」だと!? 株価もとんでもないことになっている! Kは我が社の宝だ! 全力で守り抜け! そして、よくやった! 本当によくやってくれた!』
電話の向こうから聞こえてくる、星影社長の興奮しきった、そして心からの称賛の声。
「…ありがとうございます、社長。しかし、まだ戦いは終わっておりません。今は、現場の安全確保と、情報統制が最優先です。詳細は、後ほど改めてご報告させていただきます」
冷静にそう答えながらも、東雲の口元には、確かな達成感と安堵の笑みが浮かんでいた。
数時間が経過し、ようやくグラウンドの興奮も少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。観客のほとんどは帰宅し、スタッフによるステージ機材の撤収作業も、慎重かつ迅速に進められている。
東雲は、ようやく一息つき、ペットボトルの水を一気に飲み干した。全身は汗だくで、疲労感はピークに達している。しかし、その表情は不思議と晴れやかだった。
彼のスマートフォンには、キララチューブ本社のK特別対策チームから、SNSやネットニュースの状況が、リアルタイムで報告され続けていた。
『東雲部長! SNS、トレンドワード、K関連でトップ10独占状態です! 『#K降臨』『#中学校ライブの奇跡』『#銀髪の女神』など、絶賛の嵐です!』
『海外メディアからも問い合わせ殺到! 特設したK様専用回線、パンク寸前です! 現在、広報部が対応中!』
『K様の公式チャンネル、新規登録者数がこの数時間で100万人を突破! サーバーダウン寸前です!』
その報告の一つ一つが、今回のライブがいかに衝撃的で、そして歴史的なものであったかを物語っていた。
「…やはり来たか。想定内だが、対応は迅速に」
東雲は、無許可撮影と思われる動画が海外サイトにアップロードされ始めているという報告に対し、冷静に指示を出す。
「すぐに削除申請を。そして、今後同様の動画がアップロードされた場合の対応マニュアルを、再度全部署に徹底させろ。Kのコンテンツは、我々が完全にコントロールする。一瞬たりとも、その主導権を渡すな」
その言葉には、Kの権利を守り抜くという、彼の揺るぎない決意が込められていた。
全ての撤収作業が完了し、中学校のグラウンドが元の静けさを取り戻したのは、すでに陽が傾き始めた頃だった。
東雲は、最後に校長先生とPTA会長に深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。二人とも、まだ興奮冷めやらぬ様子で、Kの素晴らしさと、キララチューブの行動力に、改めて称賛の言葉を送っていた。
「…暦さん、君は本当にすごいことを成し遂げたよ。だが、これはまだ、壮大な物語の序章に過ぎないんだ」
誰もいなくなったグラウンドを見渡し、東雲は静かに呟いた。
彼の瞳には、K(暦)と共に、世界のエンターテイメントの歴史を塗り替えていくという、大きな野望の炎が、静かに、しかし力強く燃え上がっていた。
祭りの後の静けさ。しかし、その水面下では、新たな、そしてさらに大きな奔流が、すでに世界に向けて解き放たれようとしていた。




