第四十二話:グラウンドに舞う星屑と、万感のアンセム
あの、ちょっぴりユーモラスで、しかしK(暦)の素直な気持ちが垣間見えたMCの後。
会場のボルテージは、もはや制御不能なほどに高まっていた。割れんばかりの拍手と歓声が、K(暦)の背中を力強く押し、彼女の心に確かな勇気を与えてくれる。
(…大丈夫…みんな、笑ってくれてる…私、歌える…!)
先ほどまでの、心臓を鷲掴みにされるような緊張は、不思議と和らぎ、代わりに、心地よい高揚感が全身を包み始めていた。
K(暦)は、深呼吸を一つすると、マイクを握り直し、そして、静かに次の曲の始まりを待った。
ふっと、ステージ上の照明が変わり、会場全体が深い海の底のような、幻想的なコバルトブルーの光に包まれる。先ほどまでの熱狂が嘘のように、一瞬にして空気が澄み渡り、観客たちは息を呑んだ。
そして、流れ始めたのは、誰も聴いたことのない、繊細で、どこか切ないピアノのアルペジオだった。それは、まるで星の雫が一つ、また一つと水面に落ちていくような、透明感のある美しい旋律。その音色は、聴く者の心の琴線に優しく触れ、静かな感動を呼び覚ます。
(…この曲…知らない…でも、なんだかすごく…心が惹かれる…胸の奥が、きゅっとなる…)
誰もが、そう感じていた。それは、魂が震えるような、初めて出会うはずなのに、どこか懐かしい感覚。
それは、K(暦)が、あの「星降りの島」での体験からインスピレーションを得て、夏休みの間に創り上げたばかりの新曲だった。まだ、東雲さんと一部のスタッフしか聴いたことのない、まさに「初披露」の楽曲。
タイトルは、「瑠璃色の潮騒」。
異世界の海の記憶、三つの月、そして、失われた何かへのノスタルジア…。暦自身の、心の奥底にある風景が、そのまま音と歌詞になったような、そんな曲だった。
ピアノの旋律に導かれるように、K(暦)の歌声が、静かに、しかし力強く響き渡る。
その声は、先ほどのアップテンポな曲の時とは全く違う、どこまでも透き通るような、それでいて深い情感を湛えた響きを持っていた。まるで、月光を浴びた真珠が、静かにその輝きを放つかのように。
歌が静かに始まると、ステージ上空から、まるで本物の星屑を撒いたかのように、キラキラと輝く無数の光の粒子が、ふわり、ふわりと舞い降り始めた。それは、照明効果だけでは説明がつかない、あまりにも繊細で、美しい輝きだった。K(暦)がそっと息を吹きかけると、その光の粒子が、まるで意志を持ったかのように、いくつかの小さな蝶の形を作り、ひらひらと観客席の方へと飛んでいくように見えた。観客たちは、思わず空を見上げ、その幻想的な光景にため息を漏らす。
「…きれい……」
「…夢みたいだ…」
誰かが、そう呟いた。
“瑠璃色の波間に 揺蕩う古の歌
三つの月が見守る 約束の岸辺…”
サビの部分で、K(暦)が天を仰ぐように力強く歌い上げると、ステージ背後の巨大LEDスクリーンに映し出された「星降りの島」のコバルトブルーの海が、まるでKの歌声に呼応するかのように、一瞬だけ、本物の潮騒の音と共にきらめいた。そして、どこからともなく、微かな潮の香りを乗せた優しい風が、観客席の前の方までふわりと届き、人々を驚かせた。
(…え? 今、海の匂いがした…? 風も…本当に吹いてる…?)
それは、最新の特殊効果なのか、それとも…。観客たちは、Kの創り出す、あまりにもリアルで美しい世界観に、完全に没入していく。
歌詞は、古語のようでもあり、未来の言葉のようでもあり、そしてどの国の言葉でもないような、不思議な響きを持っていた。しかし、その言葉の意味が分からなくても、そこに込められた感情――切なさ、憧れ、そして消えない希望――は、痛いほど伝わってくる。
ある者は静かに涙を流し、ある者は言葉を失ってステージを見つめ、またある者は隣の人と顔を見合わせて、この奇跡の瞬間の感動を分かち合っていた。観客たちは、もはや声を出すことも忘れ、ただただ、その圧倒的な歌の世界に引き込まれていた。
曲のエンディング。K(暦)が、そっと天に手を差し伸べると、彼女の指先から生まれたかのように、数匹の小さな、淡い光を放つ蝶が、ふわりとステージ上を舞い始めた。蝶たちは、まるでKの歌声に誘われるように、優雅に観客席の上を旋回し、そして、最後の音が消えると同時に、はかなく光の粒子となって消えていった。そのあまりにも詩的で、美しい演出に、会場は一瞬の静寂の後、嵐のような拍手と歓声に包まれた。
「ブラボー!」「K、最高だ!」「涙が止まらない…! この曲、絶対に忘れない!」
その熱狂は、K(暦)自身にも、ビリビリと伝わってくる。
(…届いた…私の歌が、みんなの心に…! あの島の想いが、みんなに…!)
胸がいっぱいになり、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
数曲のアップテンポなナンバーと、しっとりとしたバラードを織り交ぜ、ライブはあっという間にクライマックスへと近づいていく。K(暦)は、曲の合間に時折見せる、はにかんだような笑顔や、一生懸命に感謝の言葉を伝えようとする姿で、観客との距離をさらに縮めていった。
そして、最後にK(暦)が選んだ曲は、彼女が「K」として初めて世に出た、あの「銀髪の歌姫」の動画で歌っていた、どこか懐かしくも力強い、希望に満ちたアンセムだった。
「…最後に、この曲を、今日ここに集まってくれた全ての人たちへ、そして、昨日、このグラウンドで、一生懸命頑張った、全ての生徒さんたちへ、心からの感謝と、エールを込めて、贈ります」
K(暦)のその言葉に、会場からは再び大きな歓声が上がる。
イントロが流れ始めると、観客たちは自然と手拍子を始め、そして、サビの部分では、まるで示し合わせたかのように、会場全体が一つになって歌い始めた。
その時、K(暦)が両手を大きく広げると、不思議なことが起こった。観客一人一人の手元(あるいは胸元)に、まるで小さな星が灯ったかのように、淡く、温かい光が点滅し始めたのだ。それは、事前に配布されたものではなく、まるでKの想いが、彼女の「力」が、具現化したかのような、奇跡の光だった。その光は、温かく、そして優しく、人々の心を包み込んでいく。
グラウンド全体が、無数の星々で埋め尽くされたような、壮大で、そして息をのむほど美しい光景。
それは、もはやK一人のステージではなく、Kと観客たちが共に創り上げる、感動的な光と音のシンフォニーとなっていた。
K(暦)は、その光景を、目に焼き付けるように見つめていた。
自分の歌が、こんなにも多くの人々の心を繋ぎ、一つにしている。
その事実に、彼女は、Kとして、そして月島暦として、これまで感じたことのないほどの、大きな喜びと、そして深い感動を覚えていた。
(…これが、私が歌う意味…これが、Kとしての私なんだ…! みんなの心が、こんなにも温かい…!)
涙で視界が滲みそうになるのを、必死で堪えながら、彼女は、最後の力を振り絞るように、高らかに歌い上げた。
その歌声は、秋晴れの空へとどこまでも吸い込まれていくように、力強く、そして美しく響き渡った。
曲が終わり、万雷の拍手と、鳴り止まないアンコールの声。
しかし、K(暦)は、深々と一礼すると、ステージ上の照明がゆっくりと落ちていく中、その姿が徐々に透明になり始めた。まるで、朝霧が晴れていくかのように、あるいは、美しい夢が覚めていくかのように、彼女の輪郭がぼやけ、そして、完全に光の中に溶け込むように、静かに、そして美しく消えていった。
そのあまりにも幻想的で、まるで魔法のような退場に、観客たちは、あっけに取られながらも、ただただその余韻に浸るしかなかった。
「…消えた…?」
「Kちゃん…本当に、妖精だったのかもしれない…」
「…なんだか、明日から、また頑張れそうな気がするよ」
そんな囁き声が、あちこちから聞こえてくる。グラウンドには、まだあの温かい光の余韻と、Kの歌声の感動が、満ちているようだった。
幻の歌姫は、一陣の風のように現れ、そして嵐のような感動と、数えきれないほどの星屑の記憶を残して去っていった。
その鮮烈な記憶は、そこにいた全ての者の心に、永遠に消えないであろう、美しい傷跡のように、深く、深く刻み込まれたのだった。
そして、その奇跡のステージの裏側で、一人の13歳の少女が、自分の秘密を守り抜き、そして多くの人々を笑顔にできたという、大きな達成感と、そしてほんの少しの安堵感に包まれながら、静かに息を整えていた。まだ夢の中にいるような、不思議な感覚だった。
月島暦の、そしてKの、新たな伝説が、今まさに、このグラウンドから、世界へと羽ばたこうとしていた。




