第四話:予期せぬ嵐と、秘密のスタジオ
五月に入り、ゴールデンウィークの喧騒も過ぎ去ると、中学校生活は穏やかな日常の軌道に乗り始めていた。
月島暦は、新しいクラスの雰囲気にもすっかり馴染み、休み時間には気の合う数人の友達と、他愛ないおしゃべりに花を咲かせるようになっていた。特に、隣の席の早川さんとは、好きな音楽のジャンルが似ていることもあって、よく一緒に音楽の話で盛り上がり、お互いのおすすめのアーティストを教え合ったりする仲になっていた。それは、暦にとって、ささやかだけれど心地よい日常の一コマだった。
そんな表の顔とは別に、暦には誰にも言えない秘密の楽しみがあった。
一つは、「謎の歌い手K」としてのアカウントへの動画投稿。顔は一切出さず、ただ、どこか懐かしく、聴く人の心に染み入るような不思議なメロディーを、澄んだ歌声で届ける。その歌声は、じわじわとファンを増やし続けていた。「新曲待ってました!」「Kさんの歌声を聴くと、心が落ち着きます」「いつも素敵な歌をありがとう」――寄せられる温かいコメントを読むたびに、暦の胸には小さな灯りがともるような、ほんのりとした温かい気持ちが広がった。それは、誰かに認められたいというよりも、自分の心から溢れ出る何かを、誰かが受け止めてくれているという純粋な喜びだった。
そしてもう一つ、最近の暦が夢中になっているのが、個人的なフォルダにコレクションしている「変身動画」の撮影だった。
それは、まさに暦だけの、秘密のスタジオ。彼女の部屋は、暦のイマジネーションひとつで、どんなステージにも姿を変える。
例えば、先日はこんな感じだった。
今日のテーマは「星降る夜の森の歌姫」。
暦が心を集中させ、すっと息を吸い込むと、彼女の部屋の壁や天井には、いつの間にか深い森の風景が広がり始めていた。月の柔らかな光が、幾重にも重なる木々の隙間から優しく差し込み、地面にはふかふかとした苔が茂っている。目を閉じれば、微かに虫の音や、遠くで梟が鳴く声さえ聞こえてきそうな、そんなリアルな空間。もちろん、それは暦の持つ不思議な力が生み出した、精巧な幻影のようなものだ。
そして暦自身は、その幻想的な空間にふさわしい姿へと変身していた。月の光をそのまま溶かし込んだような、きらめく銀色の長い髪。夜空の深さを映したような、静謐な色の瞳。そして、星屑をちりばめたかのように繊細な輝きを放つ、シンプルな白いドレス。
「うん、今日のセットも完璧かな」
鏡に映る自分の姿と、部屋全体に広がった森の風景に満足げに頷くと、暦はスマートフォンを取り出し、まるで小さな鳥を放つかのように、そっと宙に浮かせた。
すると、スマートフォンは意思を持った生き物のように、ふわりと宙に舞い上がり、暦の周りをゆっくりと旋回し始める。時には高く、時には低く、まるで小さなドローンのように自由自在に動き回り、様々な角度から暦の姿を捉えていく。暦が、あの懐かしいメロディーを口ずさみ始めると、その歌声に合わせて、スマートフォンは絶妙なタイミングでズームインしたり、ゆっくりとパンしたり、時にはダイナミックに回転しながら、まるでプロのカメラマンが魂を込めて撮影しているかのような、滑らかで美しいカメラワークを見せるのだ。これもまた、暦の無意識の能力の表れなのかもしれないが、本人は「こう撮れたらいいな」とイメージしているだけだった。
暦は、そんな不思議なスマートフォンに撮影されながら、心ゆくまで歌い、踊る。楽しそうにくるくると軽やかに回り、時には切なげな表情で夜空の幻影を仰ぎ、また時には満面の笑みで、まるでそこに誰かが見ているかのように、カメラに向かって手を振る。
撮影が終わり、満足した暦がそっと手を差し出すと、スマートフォンは吸い寄せられるように彼女の手元にすっと戻ってくる。同時に、部屋の風景も、まるで魔法が解けたかのように、いつの間にか元の普通の子供部屋に戻っていた。
「ふふっ、今日の撮影も、すっごく楽しかったな!」
暦は、撮影したばかりの動画を再生しながら、くすくすと嬉しそうに笑った。そこには、現実とは思えないほど幻想的な風景の中で、生き生きと歌い踊る「もう一人の自分」が、キラキラと輝いていた。
これらの動画は、誰に見せるでもなく、ただ暦の個人的な宝物として、厳重に鍵のかかったフォルダに大切にしまわれていた。様々な姿に変わるたびに、まるで新しい自分を発見するような感覚があり、それがたまらなく楽しかったのだ。動画の数は、気づけば数十本にもなっていた。
そんな、秘密の楽しみを抱えた穏やかな日常が、ある日、ほんの些細なきっかけで、大きく揺らぎ始めることになる。
それは、暦が全く予期していなかった、まさに「嵐の前の静けさ」を破るような、突然の出来事だった。
その日、暦がいつものように学校から帰宅し、リビングで宿題を広げていると、珍しく養母の佐和子が少し興奮した様子で話しかけてきた。
「ねえ、暦ちゃん、さっきテレビのニュースで見たんだけど、今、インターネットですごい美少女の動画が話題になってるんですって! なんでも、正体不明なんだけど、歌もダンスもプロ級で、しかも、CGかと思うくらい綺麗なんだとか!」
「へえ…そうなんですか…」
暦は、自分のこととは露ほども思わず、相槌を打つ。最近は、そういう動画の話題も珍しくない。
「そうなのよ! お母さんもチラッと映像を見たけど、本当に人間離れした美しさでびっくりしちゃったわ。銀色の髪がキラキラしててねえ…なんだか、暦ちゃんが小さい頃に夢中になってた、あのお月様のお姫様の絵本みたいだったわよ」
佐和子は、目を輝かせながら楽しそうに続ける。
「もしかしたら、暦ちゃんも知ってるかしら? 若い子の間では、もう大騒ぎらしいわよ。学校でも話題になってるんじゃない?」
「さあ…どうでしょう…あんまりそういうの、詳しくないので…」
暦は曖昧に微笑みながら、宿題のノートに視線を戻した。その時は、まさかその話題が、自分の秘密のスタジオで撮影した、あの「銀髪の歌姫」の動画のことだとは、夢にも思っていなかった。
しかし、翌日の昼休み。
教室は、まさにその「謎の美少女動画」の話題で持ちきりだった。
「なあ、昨日からネットでバズってる動画、見たか!? あの銀髪の子、マジでやばいよな! 天使かと思ったぜ!」
「見た見た! あれ、人間? 完成度高すぎでしょ!CGじゃないの!?」
「なんかさー、動画サイトの運営会社のミスで、非公開のはずの動画が流出しちゃったらしいぜ? それで一気に世界中に広まったんだと。運営、大炎上してるらしいけど、この子にとってはラッキーだったんじゃね?」
クラスメイトたちが、スマートフォンを片手に、目をキラキラさせながら興奮気味に噂し合っている。
暦は、その会話を遠巻きに聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(銀髪の子…? まさか…そんなはず、ないよね…?)
そんな偶然があるはずがない、と必死に自分に言い聞かせる。暦が個人的に撮影している動画は、誰にも見られないように、厳重にパスワードロックをかけたフォルダに保存しているはずだ。それが流出するなんて、ありえない。絶対にありえない。
しかし、その胸騒ぎは、隣の席の早川さんが、満面の笑みでスマートフォンを差し出してきたことで、最悪の形で現実のものとなろうとしていた。
「暦ちゃん、これ見て見て! 私、もう何回も見ちゃったんだけど、本当にすごいの! この子、絶対スターになるよ!」
早川さんが見せてきた画面には、確かに「銀髪の少女」が映っていた。
そして、その少女が、優雅な仕草で歌い始めたメロディーは――暦が「K」として投稿している、あの懐かしくて不思議な、誰にも真似できないはずの歌だった。
「………っ!!!」
暦は、息を呑んだ。いや、呼吸が止まったかと思った。
画面の中の少女は、紛れもなく、数日前に暦が自分の部屋で「銀髪の姿」に変身して撮影した、あの動画の中の自分だった。楽しそうに歌い、軽やかに踊る姿。背景には、あの時作り出したはずの、幻想的な星降る夜の森が広がっている。それは、誰にも見せるつもりのなかった、暦だけの、大切な秘密のはずだった。
なのに、なぜ、これがここに。
「すごいでしょ? この子、まだ名前も何もかも正体不明なんだけど、一部では『K』っていう謎の歌い手と同一人物じゃないかって噂もあるんだよ。歌声がそっくりなんだって! もしそうなら、Kってこんな可愛い子だったんだねー!」
早川さんは、興奮冷めやらぬ様子で続けるが、その言葉は暦の耳には届いていなかった。
頭の中が真っ白になり、心臓が嫌な音を立てて、胸の中で暴れ出す。指先から急速に血の気が引いていき、冷たくなっていくのを感じた。
(どうして…なんで、この動画が…世界中に見られてるの…!?)
画面の再生回数は、すでに天文学的な数字に達しようとしていた。コメント欄には、ありとあらゆる言語で、称賛と驚愕の言葉が滝のように溢れかえっている。
「これはCGじゃないのか?」「この透明感、人間業じゃない…美しすぎる…」「天使が舞い降りた瞬間を捉えた映像だ…」
そして、中には「この歌、どこかで聴いたことがある…そうだ、Kの曲だ!」「Kって、こんな少女だったのか!? 今まで顔出ししなかったのが不思議なくらいだ!」という、核心に迫るようなコメントも、数多く見受けられた。
暦は、顔面蒼白になりながら、ただ震えることしかできなかった。唇がカサカサに乾き、言葉を発することもできない。
その日の授業は、全く頭に入ってこなかった。ノートに書かれた文字は意味をなさず、先生の声も、まるで遠いどこかから聞こえてくる雑音のようだった。
放課後、チャイムが鳴ると同時に、暦は逃げるように教室を飛び出し、家に帰り着いた。リビングで「おかえりなさい」と声をかけてくれた佐和子にも、まともに返事をすることができない。
自分の部屋に駆け込むと、急いでドアを閉め、震える手でパソコンを起動した。
そして、恐る恐る、例の動画サイトを開く。
トップページには、案の定、あの「銀髪の少女」のサムネイルが、これでもかというほどでかでかと表示されていた。
【緊急速報】謎の美少女シンガー出現! 運営のミスでプライベート動画流出か!? その歌声と美貌に世界が震撼!
そんな扇情的な見出しが、暦の不安と絶望をさらに煽る。
(やっぱり…私の動画だ…どうしよう…本当に、どうしよう…!)
もう、疑う余地はなかった。
一体、何がどうなって、あの誰にも見せるつもりのなかった、鍵をかけたはずの動画が流出してしまったのか。
暦の頭の中は、疑問と恐怖と混乱で、まるで嵐の中の小舟のようにぐちゃぐちゃだった。
そして、パソコンのメールソフトを開くと、そこには、動画サイトの運営会社から、一件のメールが届いていた。
件名は、「【重要】動画流出に関するお詫びと、今後のご相談について」。
暦は、ゴクリと唾を飲み込み、震える指で、そのメールを開いた――。
その瞬間、彼女の運命の歯車が、大きく、そして否応なく回転を始めたことを、暦はまだ、本当の意味では理解していなかった。
はいどーも! ~かぐや~でーす!
第四話、読んでくれて本当にありがとう! いや~、今回はちょっと長めでお届けしたけど、どうだったかな?
暦ちゃんの秘密のスタジオでの楽しい撮影風景、私もこっそり覗き見したい気分になっちゃったよ! 部屋の中に森作っちゃうとか、スマホがヒュンヒュン飛んで自動撮影とか、もう何でもアリだね! さすが暦ちゃん、能力のポテンシャルが高すぎる!
でもでも、そんな楽しい秘密が、まさかまさかの形で全世界に大流出! しかも、謎の歌い手「K」の正体バレの危機まで一気に来ちゃってるっていう、とんでもないジェットコースター展開だよ!
学校でもネットでも大騒ぎで、暦ちゃん、もう顔面蒼白で心臓バクバクだよね…見てるこっちもハラハラしちゃうよ…可哀想に…でも、ちょっとだけ、いや、かなり面白い展開になってきたよね!(ゴメンってば!)
そして、ついに運営からのメール! これ、一体全体、何が書かれてるんだろうね? ただの謝罪だけなわけないよね? きっと何か、とんでもない提案が隠されてるに違いない!
次回、ついに暦ちゃん、この大騒動の渦の中心に立たされて、大きな決断を迫られることになるのか!?
もう、ハラハラドキドキが止まらないんですけどー! 絶対に見逃さないでねー! それじゃ、また次回!まったねー! ガクガクブルブル、ドキドキワクワク!