第三十九話:夜明けの決意と、鏡の中のK
体育祭の翌日。
月島暦は、まだ薄暗い早朝に、重い瞼をこじ開けるようにして目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日は、いつもと同じように穏やかで、小鳥のさえずりも聞こえてくる。しかし、暦の心は、鉛のように重く沈んでいた。
(…今日なんだ…本当に、今日、私の学校で、Kとして歌うんだ…)
昨夜、東雲翔真さんと電話で話した後、結局ほとんど一睡もできなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ち、頭の中では「無理だ」「でも、やるしかない」「もしバレたら…」という思考が、ぐるぐると無限ループを繰り返していた。
Kとしてステージに立つことには、もう慣れてきたはずだった。サンクチュアリでのレコーディングや、秘密のスタジオでのMV撮影。それは、緊張感はあっても、どこか「K」という仮面を被ることで、自分ではない誰かを演じているような、そんな安心感があった。
しかし、今回は違う。
場所は、自分の通う中学校のグラウンド。観客は、毎日顔を合わせるクラスメイトたち、お世話になっている先生たち、そして、もしかしたら近所の人たちも…。
その中で、Kとしてパフォーマンスをする。それは、月島暦という「素顔」と、Kという「仮面」の境界線が、極限まで曖昧になることを意味していた。
(…もし、誰か一人でも、Kが私だって気づいたら…? その瞬間に、私の日常は、全部壊れちゃうかもしれない…)
恐怖が、冷たい霧のように心を覆っていく。
それでも、心のどこかで、東雲さんのあの必死な声と、「君の力を貸してほしい」という言葉がこだましていた。そして、自分の歌で、みんなが喜んでくれるかもしれない、という淡い期待も。
のろのろとベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。そこに映っているのは、寝不足で少し目の下に隈ができた、ごく普通の13歳の少女、月島暦。
(…本当に、私にできるのかな…)
深呼吸を一つ。そして、彼女は目を閉じた。
意識を集中させる。Kとしての、あの圧倒的な存在感。神秘的なオーラ。そして、世界を魅了する歌声。
それは、彼女が持つ「力」の一部。そして、今の彼女にとっては、最大の武器であり、同時に最大の「秘密」でもある。
カチリ、と。心の中で、何かが切り替わる音がした。
再び目を開けた時、鏡の中にいたのは、もはや月島暦ではなかった。
艶やかな銀色の髪が、朝日にキラキラと輝き、瞳は夜空の深さを映したような、静謐な藍色に。いつもの制服は、どこからともなく現れた、ステージ衣装――今日のライブのために東雲さんが用意した、白を基調とした、軽やかで動きやすい、しかしどこか神聖な雰囲気も漂わせるデザインのドレス――へと変わっていた。
そこに立っていたのは、紛れもなく、世界の歌姫「K」だった。
しかし、その表情は、いつものKのような自信に満ちたものではなく、どこか不安げで、そして硬い。
(…大丈夫。私はK。東雲さんも、私を信じてくれてる。そして、私の歌を待ってくれている人がいる…)
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。
鏡の中のKが、ほんの少しだけ、力強く微笑んだように見えた。
その直後、暦のスマートフォンが軽快な着信音を鳴らした。画面には「美咲ちゃん」の文字。
「もしもし、暦ちゃん? おはよー! 今日のライブ、一緒に行こうよー! もう、今からドキドキが止まらないんだけど!」
電話の向こうから、美咲ちゃんの興奮した声が聞こえてくる。他の友人たちも一緒なのだろう、後ろからは「早く行こーぜー!」といった賑やかな声も聞こえてくる。
「あ、美咲ちゃん、おはよう。ごめんね、私、今日はちょっと…PTAの方から、イベントの裏方のお手伝いを頼まれちゃってて…だから、みんなとは別行動になっちゃうんだ。本当にごめん!」
暦は、心の中で(まさか、そのイベントのメインボーカルが私だなんて、絶対に言えない…!)と叫びながら、必死で平静を装って答えた。
「えー、そうなのー? 残念! でも、お手伝い頑張ってね! ライブ会場で会えるかな?」
「う、うん…もしかしたら、どこかで見かけるかもしれないけど…あんまり期待しないでね?」
(ステージの上からなら、確実に見えるけどね…!)
なんとか美咲ちゃんとの電話を終え、暦はふぅっと息をついた。嘘をつくのは心が痛むけれど、今はこうするしかない。
やがて、約束の時間。東雲さんが、いつもの黒塗りの車で月島家の前に迎えに来た。暦は、養父母に「今日は、PTA主催のイベントのお手伝い、頑張ってくるね! ちょっと朝早いけど、行ってきまーす!」と、元気よく(しかし内心はドキドキで)声をかけ、家を後にした。
車の中で、東雲さんは、努めて明るく、しかし暦の緊張を察したように、優しい口調で話しかけてきた。
「暦さん、昨夜はよく眠れたかな?」
「…はい、なんとか…」
嘘だ。本当はほとんど眠れていない。
「今日のステージは、僕が全てをコントロールする。音響、照明、そして何よりも、君のプライバシー。何も心配はいらない。君は、ただ、君の最高のパフォーマンスを見せてくれればいい。それが、僕からの、そして世界中からの、唯一の願いだ」
東雲さんの言葉は、不思議と暦の心を落ち着かせてくれた。この人がいる限り、きっと大丈夫だ。そう思える、絶対的な信頼感が、そこにはあった。
車は、厳重な警備体制が敷かれた、中学校の裏門へと到着した。そこから、K専用の控え室として用意された、校舎の一室へと、誰にも気づかれずに移動する。
控え室に入ると、そこにはすでに、Kのステージ衣装やメイク道具が完璧に準備されていた。そして、壁には大きなモニターが設置されており、グラウンドの様子がリアルタイムで映し出されている。
画面の中では、すでに数千人の観客が、今か今かと開演を待ち望んでいるのが見えた。その熱気と期待感が、モニター越しにでもひしひしと伝わってくる。
(…すごい人…みんな、私(K)を見に来てくれたんだ…)
暦は、ゴクリと唾を飲み込んだ。緊張で、心臓が早鐘のように鳴っている。
「K様、まもなく開演10分前です。最終準備をお願いいたします」
スタッフの一人が、緊張した面持ちで声をかけてきた。
暦は、頷くと、鏡の前に座り、最後の身だしなみを整える。
そして、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
(大丈夫…大丈夫…私は、月島暦であり、Kでもある…どちらの私も、私なんだから…)
鏡の中のKが、ほんの少しだけ、力強く微笑んだように見えた。
開演1分前。
ステージ袖にスタンバイしたK(暦)の耳に、司会者の興奮したアナウンスと、それに続く、地鳴りのような観客の歓声が聞こえてくる。
「皆様、本日は誠にありがとうございます! まもなく、Kによるスペシャルライブ、開演でございます! どうぞ、ご期待ください! 開演まで、あと1分です!」
そして、水を打ったような静寂。
K(暦)は、ぎゅっと目を閉じた。心臓の音が、体中に響き渡る。
(…東雲さん…みんな…見てて…)
そして、彼女は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや不安の色はなく、代わりに、これから始まるステージへの、静かで、しかし燃えるような闘志と、そして観客への愛しさが宿っていた。
運命のカウントダウンが、今、始まる。
月島暦の、そしてKの、人生で最も忘れられないステージの幕が、静かに上がろうとしていた。
「お読みいただきありがとうございます。〜かぐや〜の感想や裏話、時には登場人物たちの本音が聞ける『活動報告』を、各話の終わりに高確率で掲載しております。ぜひ、チェックしてみてください!」




