第三十七話:錯綜する感情と、夜明け前の誓い
月島暦は、自室のベッドの上で、ただぼーぜんと天井を見つめていた。
体育祭の興奮も、リレーで陸上部のエース(だったらしい人)に勝ってしまったかもしれないという冷や汗も、クラスメイトたちとの楽しい思い出も、全てが霞んでしまうほど、東雲翔真さんからのメッセージは衝撃的すぎた。
『暦さん…万事、整いました。明日のステージ、最高のパフォーマンスを期待しています。…本当に、申し訳ない…!』
(…万事、整いました…って、全然整ってないよぉぉぉ……!!!)
心の中で絶叫するが、声にはならない。
明日の午前10時、自分の通う中学校のグラウンドで、Kとしてライブをする。
そんなの、絶対にありえない。考えただけで、頭の中が真っ白になり、思考が停止しそうになる。
友達に、先生に、もしかしたら近所の人たちにも、Kの正体が月島暦だとバレてしまうかもしれない。そうなったら、もう二度と、普通の女子中学生としての穏やかな日々は戻ってこないだろう。
(どうしよう…どうすればいいの…? 誰か、助けて…!)
その時、スマートフォンの着信音が、静かな部屋にけたたましく響き渡った。
画面には「東雲翔真」の文字。
暦は、一瞬ためらったが、やがて意を決して、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし……」
「暦さん! すまない、本当にすまない…! 今、電話で話せる状況かな?」
電話の向こうから聞こえてくる東雲さんの声は、いつもの冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、焦りと、そして深い謝罪の色を帯びていた。
暦は、その声を聞いた瞬間、抑えきれない感情がこみ上げてくるのを感じた。
「…東雲さんっ! 今すぐ、そちらに行きます! 直接、お話がしたいです!」
「え、暦さん、しかし、もう夜も遅いし…」
「大丈夫です! すぐ行けますから!」
有無を言わせぬ暦の気迫に、東雲さんもそれ以上は何も言えなかった。
通話を切ると、暦はベッドから飛び起き、Kの姿へと一瞬で変身した。そして、東雲さんのいるであろう、キララチューブ本社の「サンクチュアリ」へと、意識を集中させる。
次の瞬間、K(暦)は、サンクチュアリの真ん中に立っていた。目の前には、電話を片手に呆然と立ち尽くす東雲さんの姿。
「東雲さんっ! 一体どういうことなんですか!? 私の学校でライブなんて、絶対に無理です! みんなにバレちゃったら、どうするんですか!?」
K(暦)は、普段の落ち着いたKとは全く違う、感情をむき出しにした、年相応の少女のような剣幕で東雲さんに詰め寄った。その瞳には、怒りと、不安と、そしてほんの少しの混乱が渦巻いている。
「…暦さん…本当に、申し訳ない…」
東雲さんは、深々と頭を下げ、事の経緯――クリスタル・プラザでのパフォーマンス中止、そしてスタッフたちの良かれと思っての「暴走」、そしてもはや後戻りできない状況――を、誠心誠意、K(暦)に説明した。彼の声からは、スタッフを責める気持ちではなく、むしろ彼らのKへの想いを汲み取れなかった自分自身への不甲斐なさが滲み出ている。
「…でも、もう後戻りはできないんだ。学校側にも、PTAにも、そして何よりも、明日を楽しみにしている生徒さんたちにも、キララチューブとして正式に約束をしてしまった。これを反故にすれば、Kの、そしてキララチューブの信用は完全に失墜する…」
「そんな…! じゃあ、私、本当に明日、歌わなきゃいけないんですか…? 友達や、先生たちの前で…? Kとして…?」
K(暦)の声が、絶望の色を帯びる。頭では理解できても、心が全く追いつかない。
「…そうだ。本当に、君には過酷な状況を強いることになる。だが、どうか、力を貸してほしい。これは、僕個人の、一生のお願いだ。君のパフォーマンスで、この状況を、最高のサプライズに変えてほしいんだ」
東雲さんの、悲痛なまでの懇願。
K(暦)は、しばらくの間、何も言えなかった。
Kとして、世界中の人を魅了する自分。
月島暦として、穏やかな日常を送りたい自分。
その二つの自分が、今、激しくぶつかり合い、引き裂かれそうになっている。
(…どうして、こんなことに…でも…東雲さんは、いつも私を守ってくれようとしてる…スタッフの人たちも、悪気があったわけじゃない…それに…)
ふと、体育祭で、自分の応援旗を見て喜んでくれたクラスメイトたちの顔が浮かんだ。リレーで一緒に喜びを分かち合った友人たちの笑顔が。
(…もし、私の歌で、みんなが…本当に喜んでくれるなら…それは、Kとして、私がやるべきことなのかもしれない…)
それは、義務感ではない。誰かに強いられたわけでもない。
ただ、自分の歌を聴いてくれる人がいて、その人たちが笑顔になってくれるなら、Kとして、それ以上の喜びはない。その純粋な想いが、彼女の中で、か細いけれど確かな光となって灯り始めていた。
「…………分かりました」
ぽつりと、K(暦)が呟いた。その声は、まだ震えていたが、そこには確かな意志が宿っていた。
「…暦さん…?」
「やります。Kとして、明日のステージに立ちます。…でも、条件があります」
「条件…?」
「はい。絶対に、私の正体がバレないように、完璧にサポートしてください。そして…もし、それでもダメだった時は…東雲さんが、責任取ってくださいね?」
最後は、少しだけ悪戯っぽく、しかし真剣な眼差しで、K(暦)は東雲さんを見据えた。
その言葉と表情に、東雲さんは、一瞬息を呑んだ。そして、すぐに、深く、深く頷いた。
「…ああ、約束する。君の秘密は、僕が命に代えても守る。そして、万が一のことがあれば、全ての責任は僕が取る。だから、安心して、明日は最高のパフォーマンスを見せてほしい」
その言葉には、揺るぎない自信と、そしてK(暦)への絶対的な信頼が込められていた。
「…東雲さん…ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらの方だ、暦さん。…今夜は、もう休んでくれ。明日の朝、私が必ず君を迎えに行く。そして、最高のステージを、一緒に創り上げよう。…いいね?」
「……はいっ……!」
K(暦)は、まだ不安は消えないけれど、それでも、東雲さんの言葉に、確かに背中を押された気がした。
サンクチュアリを出て、K(暦)は再び月島暦の姿に戻り、自宅のベッドにもぐり込んだ。
心臓はまだドキドキと大きく脈打っている。
何度も「やっぱり無理だ」と弱気になりそうになる。しかし、その度に、東雲さんの力強い言葉と、そして、自分の歌を待っていてくれる(かもしれない)友人たちの顔を思い出し、なんとか踏みとどまる。
(…やるんだ…私なら、できるはず…Kなんだから…! そして、月島暦でもあるんだから…!)
それは、13歳の少女が、人生で初めて経験する、大きな大きな試練。そして、その試練の先に、きっと新しい自分が待っている。そんな予感を胸に、彼女は静かに目を閉じた。
そして、その夜、東雲翔真は、一睡もせずに、明日の「前代未聞のサプライズライブ」を成功させるための、完璧なシナリオと、あらゆる不測の事態に対応するためのシミュレーションを、ただ一人、黙々と練り続けていた。彼のプロデューサーとしての、そして「執事」としての、真価が問われる一夜だった。
暦の心の安定と、Kのパフォーマンスの成功。その二つを両立させるために、彼は文字通り、全てを賭ける覚悟だった。
窓の外には、体育祭の興奮がまだ残っているかのような、ざわめいた夜空が広がっていた。
その空の下で、二人の「共犯者」は、それぞれの場所で、運命の朝を待っていた。




