第三十六話:秋晴れの喝采と、忍び寄るサプライズの足音
澄み渡る秋晴れの空の下、月島暦の通う中学校では、年に一度の体育祭が開催されていた。グラウンドには、各クラスのカラフルな応援旗がはためき、生徒たちの熱気と興奮が渦巻いている。
暦もまた、1年A組の一員として、この特別な一日に胸を高鳴らせていた。昨夜、東雲翔真さんからかかってきた、あの鬼気迫るような緊急連絡のことは、今は一旦頭の片隅に追いやり、目の前の体育祭に全力で臨もうと決めていた。
(…東雲さん、大丈夫かな…でも、今は私が心配しても仕方ない。まずは、クラスのみんなと、この体育祭を楽しまないと!)
午前中の競技は順調に進み、暦は、クラスメイトたちと一喜一憂しながら、応援に声を嗄らした。
そして、午後の部のハイライトの一つ、クラス対抗リレー。アンカーを任された暦は、緊張した面持ちでスタートラインに立っていた。
「暦ちゃーん! 頑張ってー!」
「月島さんなら絶対いける!」
クラスメイトたちからの声援が、背中を押してくれる。
(…大丈夫。練習通りに走れば…でも、あまり目立ちすぎないように、上手く…)
バトンを受け取り、走り出す。驚異的な身体能力を隠し、あくまで「ちょっと足の速い普通の女子中学生」を演じながら、しかし確実に前方の走者を追い抜いていく。最後の直線、隣のレーンを走る選手と、まさにデッドヒートとなった。相手も必死の形相で、一歩も譲らない。暦は、ただゴールだけを見つめ、無心で腕を振り、足を前に運んだ。
そして、本当に僅かな差で、しかし見事に一位でゴールテープを切った!
「やったー! 暦ちゃん、すごーい!」
「A組、リレー優勝だー!」
クラスメイトたちが、歓喜の声を上げながら暦の元へ駆け寄ってくる。暦も、息を切らしながら、満面の笑みでその喜びを分ち合った。
「…はぁ…はぁ…よかった、勝てて…!」
その時、クラスメイトの一人が、興奮した様子で言った。
「暦ちゃん、今の相手、2年生の陸上部のエースだったんだよ! まさか勝てるなんて、思わなかったよ! すごすぎる!」
「えっ…!? り、陸上部の…エース…!?」
その言葉に、暦の顔からサッと血の気が引いた。
(や、やっちゃったーーーーーっ!!! どうしよう、絶対に変に目立っちゃったよぉぉぉ…!!!)
周囲の大騒ぎとは裏腹に、暦の心の中は、冷や汗と後悔の嵐が吹き荒れていた。
そして、もう一つの暦の活躍の場は、応援合戦だった。
彼女がデザインし、クラスメイトたちと協力して制作した応援旗は、その独創性と色彩の美しさで、審査員の先生たちからも高い評価を得ていた。
「見て見て! A組の旗、やっぱり一番カッコイイよね!」
「暦ちゃんがデザインしたんだって? すごい才能!」
他のクラスの生徒たちからも、そんな声が聞こえてくる。暦は、少し照れくさそうに微笑んだ。この旗が、クラスの団結の象徴となり、みんなの力になっているのなら、それ以上に嬉しいことはない。
全ての競技が終わり、閉会式。
1年A組は、残念ながら総合優勝には一歩届かなかったものの、リレーでの優勝や、応援旗のデザイン賞など、素晴らしい成績を収め、クラス全体が達成感と満足感に包まれていた。
「みんな、お疲れ様ー! 最高の体育祭だったね!」
美咲ちゃんたちと肩を叩き合い、健闘を称え合う。暦にとっても、忘れられない一日となった(色々な意味で)。
「さーて、それじゃあ、後片付け、頑張るぞー!」
クラス委員の号令で、生徒たちはテントや長机の撤収作業に取り掛かろうとした。
しかし、その時だった。
校長先生がマイクを握り、少し興奮した様子でアナウンスを始めた。
「えー、生徒諸君、並びに保護者の皆様、本日は誠にお疲れ様でした! 素晴らしい体育祭となりましたことを、心より感謝申し上げます! …さて、この後、グラウンドでは明日開催予定のスペシャルイベントの準備に入ります。つきましては、後片付けはPTAと先生方にお任せし、生徒諸君は速やかに下校してください」
「え? 明日、何かあるの?」
「スペシャルイベントって、なんだろうねー?」
生徒たちは、何が起こるのか分からず、期待と戸惑いの表情でざわめき始める。
すると、グラウンドの一角に、いつの間にか大型のトラックが数台入り込み、見慣れない機材が次々と運び込まれ、ステージらしきものが組まれ始めているのが見えた。作業をしているのは、キララチューブのロゴが入ったジャンパーを着たスタッフたちだ。
「うわ、なんかすごい本格的なステージができてきてるよ!」
「キララチューブって…もしかして、Kの!?」
「えー! まさか、Kが来るの!? そんなわけないよねー!?」
友人たちが、興奮気味に噂し合っている。
暦は、その光景を目の当たりにし、全身の血の気が引いていくのを感じた。
(…うそ…でしょ…? 東雲さん…ひょっとして…ここ…!? 明日…!?)
昨夜の、あの絶望的な電話の内容が、鮮明に蘇ってくる。
「なお、明日のスペシャルイベントですが、なんと、ある超有名アーティストによるシークレットライブが決定いたしました! 本校生徒及び保護者の皆様は、明日の午前10時から、特別にご招待いたします! 詳細は、追って連絡網で回しますので、お楽しみに!」
校長先生の、どこか誇らしげなアナウンスが続く。
「…超有名アーティスト…? え、じゃあ、本当にKが来るの!?」
「明日、ライブ!? 絶対行くしかないでしょ!」
友人たちは、もはや興奮の坩堝だ。
しかし、暦だけは、その言葉の意味を正確に理解し、そして、これから自分に降りかかるであろう、とんでもない事態を想像して、ただただ青ざめることしかできなかった。
(…明日…午前10時…って…私、どうすればいいの…!? しかも、私の学校で…なんて…)
帰り支度を促され、友人たちと一緒に校門を出る暦。しかし、その足取りは、まるで鉛のように重かった。
自宅に帰り着き、自分の部屋に駆け込むと、スマートフォンのメッセージ通知が点滅しているのに気づく。
それは、東雲さんからの、短い、しかし決定的なメッセージだった。
『暦さん…万事、整いました。明日のステージ、最高のパフォーマンスを期待しています。…本当に、申し訳ない…!』
暦は、そのメッセージを読んだ瞬間、ベッドに倒れ込み、ぼーぜんと天井を見つめることしかできなかった。
体育祭の興奮も、友人たちとの楽しい思い出も、リレーで陸上部のエースに勝ってしまった、という冷や汗も、全てが遠い過去のように感じられる。
明日の今頃、自分は一体どうなっているのだろうか。
そして、この前代未聞のサプライズライブは、一体どんな結末を迎えるのだろうか。
暦の、人生で最も長い夜が、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。




