第三十一話:星降りの島の囁きと、二人の秘密の足跡
キララチューブ本社内、K専用セーフハウス「サンクチュアリ」。
月島暦は、Kの姿で、東雲翔真と向かい合っていた。彼女の小さな手は、東雲が差し出した、特殊な周波数を放つという小さな金属製のタグ(彼が言うところの「テレポートビーコン」)を、しっかりと握りしめている。そのタグが、これから向かう未知の島との、唯一の繋がりだった。
「準備はよろしいですか、暦さん?」
東雲の声は、いつものように落ち着いていたが、その瞳の奥には、未知への探求心と、そして目の前の少女への絶対的な信頼が宿っていた。
「…はい。大丈夫です、東雲さん」
暦は、深呼吸を一つすると、力強く頷いた。不安がないわけではない。しかし、それ以上に、これから体験するであろう「特別な冒険」への期待が、彼女の心を高鳴らせていた。
意識を集中させる。
握りしめたビーコンが放つ微弱な振動と、東雲さんから見せられた「星降りの島」の鮮烈なイメージを、頭の中で重ね合わせる。
次の瞬間、ふわりとした浮遊感と共に、視界が白い光に包まれた。
ほんの数秒にも満たない時間。しかし、それは永遠にも感じられるような、不思議な感覚だった。
そして、光が収まった時――。
暦と東雲は、言葉を失い、ただ目の前に広がる光景に圧倒されていた。
そこは、まさに東雲が見せてくれた写真通りの、いや、それ以上に幻想的で、神々しいほどの美しさを湛えた場所だった。
足元には、パウダーのようにきめ細かい、純白の砂。一歩踏み出すたびに、キュッ、キュッと心地よい音がする。目の前には、どこまでも続くエメラルドグリーンの海が、太陽の光を浴びてキラキラと輝き、その透明度は、海底の白い砂や、色とりどりの珊瑚礁まではっきりと見通せるほどだ。
そして、見上げれば、日本では決して見ることのできない、吸い込まれそうなほど濃く、深い青色の空が広がっている。遠くの水平線は、空と海の境界が曖昧になるほど、溶け合っていた。
「…すごい……」
暦は、思わずため息のような声を漏らした。こんなにも美しい場所が、本当に地球上に存在するなんて、信じられない。
「…ええ。まさに、奇跡の島、ですね」
東雲もまた、その絶景に目を見張りながら、静かに呟いた。しかし、すぐに彼はプロの顔つきに戻り、周囲を慎重に見渡し始めた。
「さて、暦さん。まずは、我々が今、この島のどのあたりにいるのかを正確に把握する必要がありますね。テレポートビーコンの座標は記録されていますが、実際の地形と照らし合わせないと…」
東雲は、手にしたタブレット端末を取り出し、事前に用意していた島の衛星写真らしきものと、ビーコンから発信される微弱な信号を頼りに、現在地の特定を試みる。しかし、周囲は見渡す限り同じような白い砂浜と、鬱蒼とした緑のジャングルが続いているだけで、明確な目印は見当たらない。
「うーん…どうやら、想定していたポイントからは、少しだけ南にずれてしまったようですね。風の影響か、あるいはビーコンの信号に何らかの干渉があったのかもしれません」
彼は少し眉を寄せたが、すぐに気を取り直したように暦に微笑みかけた。
「まあ、これも冒険の醍醐味というやつでしょう。まずは、少し周囲を探索して、目印になるような地形を見つけましょうか。そして、本番で佐伯くんたちがチャーター船で機材を搬入する予定の、あの岬の入り江の位置を確認し、そこへ安全に合流できるルートを確保することが、今日の最初のミッションです」
その言葉に、暦も頷いた。ただ美しい景色を眺めているだけではダメなのだ。これは、れっきとした「仕事」であり、「冒険」なのだと、改めて気を引き締める。
「はい! 頑張ります!」
二人は、ひとまず波打ち際を頼りに、太陽の位置とコンパス(もちろん東雲さんが用意周到に持参していた)で方角を確認しながら、慎重に歩き始めた。どこまでも続く白い砂浜には、二人の足跡だけが、まるで最初の訪問者の印のように、くっきりと残されていく。
白い砂浜に二人だけの足跡を残しながら、月島暦と東雲翔真は、太陽の位置とコンパスを頼りに、慎重に島の探索を開始した。打ち寄せる波の音、どこまでも続くエメラルドグリーンの海、そして時折聞こえてくる、日本では耳にしたことのない鳥たちの不思議な鳴き声。その全てが、暦の五感を優しく、そして力強く刺激していく。
(…なんだろう、この感じ…すごく懐かしいような…そして、新しい歌が、頭の中に生まれてきそう…)
ふと、暦は、あの美しいメロディーを口ずさみそうになるのを、慌てて堪えた。今は、Kではなく、月島暦としての(そして東雲さんのアシスタントとしての)役割に集中しなければならない。隣を歩く東雲さんは、時折タブレットで周囲の風景を撮影したり、植物のサンプルを採取したりしながらも、常に警戒を怠らず、暦の安全にも気を配っているのが分かった。
「東雲さん、あちらに見える、あの大きな岩、何か目印になりそうじゃないですか?」
しばらく歩いたところで、暦が指差した先には、海岸線から少し突き出た、巨大な黒い奇岩がそびえ立っていた。その形は、まるで天を指差す巨人の手のようだ。
「…確かに。あれなら、海上からも確認しやすいかもしれませんね。少し近づいてみましょう」
二人は、その奇岩を目指して歩みを進める。
奇岩の近くまで来ると、その圧倒的な大きさと、自然が作り出した荒々しい造形美に、改めて息を呑んだ。岩肌には、見たこともないような模様が刻まれており、それは風雨による侵食だけでは説明がつかない、どこか人工的な印象すら与えるものだった。
「この模様…どこかで…」
暦は、その不思議な模様に、なぜか強く惹きつけられるのを感じた。それは、彼女が時折見る夢の中に出てくる、謎の文字や記号に、どこか似ているような気がしたのだ。
東雲さんもまた、その奇妙な模様に気づき、熱心にカメラを向けていた。
「…これは、興味深いですね。もしかしたら、この島に存在したという古代文明の、何らかの手がかりになるかもしれません」
奇岩の周辺を調査した後、二人はさらに島の奥へと足を踏み入れた。
海岸線から離れると、植生はより豊かになり、見たこともないような色鮮やかな花々が咲き乱れ、巨大なシダ植物が天蓋のように頭上を覆っていた。まるで、太古の地球に迷い込んだかのような、神秘的で、そしてどこか畏怖の念を抱かせるような空間だった。
空気は、濃厚な花の香りと、湿った土の匂いで満たされている。時折、木々の間を、羽の色が虹のように変化する不思議な蝶が舞い、梢の奥からは、美しい旋律を奏でるような鳥の声が聞こえてくる。
「…東雲さん、あちらに何か…光っているものが…!」
暦が、ふと茂みの奥を指差した。そこには、木漏れ日を受けて、何かがキラキラと淡い光を放っているのが見える。
二人が慎重に茂みをかき分けて進むと、そこには、小さな泉が静かに水を湛えていた。そして、その泉の水面には、まるで星屑を溶かし込んだかのように、無数の小さな光の粒子が揺らめき、幻想的な輝きを放っていたのだ。
「これは…一体…?」
東雲も、そのあまりにも美しく、そして不可思議な光景に、言葉を失う。
暦は、まるで何かに導かれるように、そっと泉に近づき、その水に指先を浸してみた。ひんやりとした心地よい感触と共に、指先から、微かな温かいエネルギーのようなものが流れ込んでくるのを感じた。
(…この水…なんだか、すごく優しい感じがする…そして、どこか懐かしい…)
その瞬間、暦の脳裏に、再びあの「三つの月が浮かぶ海辺のリゾート」の光景と、優しい両親の笑顔が、鮮明にフラッシュバックした。そして、あの美しい子守唄のようなメロディーが、今度ははっきりと、彼女の心の中に響き渡ったのだ。
(…思い出した…この歌…お母さんが、いつも歌ってくれた歌だ…!)
全身が、鳥肌立つのを感じる。これは、ただのデジャヴュではない。紛れもない、自分の記憶だ。
「…暦さん? 大丈夫ですか? 顔色が…」
東雲さんの心配そうな声に、暦ははっと我に返った。
「あ…だ、大丈夫です! ちょっと、あまりにも綺麗だったので、びっくりしちゃって…」
慌てて笑顔を作るが、心臓はまだ激しく高鳴り、全身が微かに震えている。
(今の記憶…そして、この泉…この島は、一体…?)
彼女の心の中に、大きな疑問と、そして何か運命的なものを感じさせる、強い予感が芽生え始めていた。
その後も、二人は島の探索を続けた。
苔むした石畳が続く古道、謎の祭壇らしきものが残る広場、そして、島の中心部には、天を突くようにそびえ立つ、巨大な水晶のような岩山…。そのどれもが、この島がただの無人島ではない、何か特別な場所であることを物語っていた。
東雲は、その全てを詳細に記録し、MV撮影の具体的なロケーション候補を絞り込んでいく。そして、暦は、この島で感じる不思議な感覚や、時折蘇る記憶の断片を、Kとしての新たな楽曲のインスピレーションへと昇華させていくのだった。
太陽が西に傾き始め、空が美しいグラデーションに染まる頃、東雲は満足げに頷いた。
「よし、今日のところはこれくらいにしておきましょう。暦さん、おかげで素晴らしい下見ができました。危険な場所もなさそうですし、スタッフとの合流ポイントも確保できました。これで、本番の撮影は、きっと最高のものが撮れるはずです」
「はい! 私も、すごく楽しみです! なんだか、新しい歌がたくさん生まれそうな気がします!」
暦も、心からの笑顔で答えた。今日の体験は、彼女にとって、ただの「下見」以上の、大きな意味を持つものとなっていた。
そして、再び東雲が取り出したビーコンを頼りに、二人はサンクチュアリへとテレポートした。
ほんの数時間の滞在だったが、暦にとっては、まるで数日間の大冒険をしたかのような、濃密で、刺激的な時間だった。
「星降りの島」の美しい光景と、そこで感じた不思議な感覚、そして蘇った記憶の断片は、彼女の心に深く刻み込まれ、Kとしての新たな創造の源泉となるだろう。
そして、この秘密の共有と、二人だけの小さな冒険は、暦と東雲の間の「共犯者」としての絆を、さらに強く、深く結びつけたのだった。
夏休みは、まだ始まったばかり。
この島での体験が、これからどんな物語を紡ぎ出していくのか、それはまだ、二人にも想像できない、未来へのプロローグだった。




