第二十九話:昼休みのヒソヒソ話と、窓辺の小さな騒動
期末テストという大きな山場を乗り越え、月島暦の通う中学校には、夏休みを目前にした、開放的でどこか浮かれたような空気が漂っていた。
授業中も、先生の話を聞いているようで聞いていないような、そわそわとした生徒たちの視線は、窓の外の青空や、教室の壁に貼られた夏祭りのポスターへと吸い寄せられがちだ。
暦もまた、そんなクラスの雰囲気を感じながら、Kとしての次なる大きなプロジェクト――あの「星降りの島」でのMV撮影――への期待と緊張を胸の奥に秘めつつ、目の前の「普通の女子中学生」としての日常を、大切に過ごしていた。
昼休み。
暦は、いつものように早川美咲や数人の仲の良い女子グループで集まり、お弁当を広げていた。話題の中心は、やはり目前に迫った夏休みの計画だ。
「ねえねえ、夏休み、どこか行きたいとこある? 私、家族で海に行くんだー!」
「いいなー! うちはおばあちゃん家だけど、それもそれで楽しみ!」
そんな会話が弾む中、ふと、美咲が声を潜め、意味ありげな笑みを浮かべた。
「…で、さ、夏休みといえば、やっぱりアレじゃない?」
「アレって、何よー?」
他の女子たちが、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「もー、分かってるくせにー。…恋バナだよ、コ・イ・バ・ナ!」
美咲が、茶化すように言うと、周りの女子たちから「きゃー!」とか「ちょっと美咲ちゃん、声大きいって!」といった、楽しそうな悲鳴が上がった。
暦は、そんな友人たちの賑やかなやり取りを、少しだけ離れた場所で微笑ましく見守っていた。自分にはまだ縁遠い話のような気もするが、友人たちのキラキラとした表情を見ているのは、なんだかこちらまで楽しくなってくる。
「で、実際のところ、どうなのよ? 最近、気になる人とか、できた子いるー?」
一人がそう切り出すと、途端にヒソヒソとした雰囲気になる。
「私はねー、やっぱりバスケ部のキャプテンの田中先輩かなー! あのクールな感じ、たまんないよね!」
「あー、分かるー! 試合の時の真剣な眼差しとか、ヤバいよね!」
「私は、吹奏楽部の斎藤先輩! いつも優しくて、トランペット吹いてる姿、超カッコイイんだもん!」
きゃっきゃと盛り上がる女子たち。それは、憧れの先輩への、淡くて甘酸っぱい、まさに「青春」の一ページだった。
近くの席で、男子生徒たちが何気ない顔をしてパンをかじりながらも、明らかに耳をそばだてているのが、暦には少しだけ可笑しかった。特に、クラスのムードメーカーである佐藤健太くんは、時折こちらをチラチラと気にしているようだ。
「暦ちゃんは、どうなの? 気になる人とか、いないの?」
不意に、美咲が話を振ってきた。
「えっ!? わ、私…? ぜ、全然いないよ、そんなの!」
暦は、思わず顔を赤らめ、慌てて手を横に振った。Kとしての活動や、自分の秘密のことで頭がいっぱいで、正直、恋愛なんて考える余裕もなかったのだ。
「えー、本当ぉ? 暦ちゃんなら、密かに想いを寄せてる男子とか、絶対いそうだけどなー。だって、成績優秀で、絵も上手くて、それに、なんかミステリアスな雰囲気あるし!」
「そうそう! なんか、こう…影のある美少女って感じ?」
友人たちの勝手なイメージに、暦はますます困惑するしかなかった。
「も、もう、みんなして私をからかわないでよ!」
「だってー、暦ちゃん、美術部の高橋先輩とはどうなのよ? いっつも二人で楽しそうに絵の話してるじゃない。あれ、絶対いい雰囲気だって、もっぱらの噂だよ?」
美咲が、ニヤニヤしながら突っ込んでくる。
「た、高橋先輩は、ただの部活の先輩だってば! 絵のことで、色々教えてもらってるだけで…!」
暦は、必死で否定するが、顔の赤みは増すばかりだった。確かに、高橋先輩は優しくて頼りになるし、一緒に絵の話をするのは楽しい。でも、それは別に…。
(…別に、恋愛感情とかじゃ…ない、はず…たぶん…)
自分の心の中にも、ほんの少しだけ、よく分からないモヤモヤとしたものがあることに、暦は気づかないフリをした。
そんな女子たちの恋バナで教室が甘酸っぱい空気に包まれていた、まさにその時だった。
バシャーン!!!
突然、開いていた窓から、何かが勢いよく飛び込んできた。それは、少し空気の抜けた、柔らかいゴム製のサッカーボールだった。ボールは、教室の壁に当たり、教科書や筆箱をなぎ倒しながら床に転がる。
「きゃっ!」「うわっ!」
一瞬、教室が騒然となる。
窓の外からは、慌てたような男子生徒たちの声が聞こえてきた。
「やっべー! 教室入っちゃったよ!」
「おい、誰か取ってこいよー!」
どうやら、校庭で遊んでいた男子たちが、ボールを大きく蹴り損ねてしまったらしい。
教室の中が「誰がやったんだよー」「危ないだろー」と少しざわつく中、暦は、なぜか冷静だった。
(…あ、ボール…)
彼女は、転がってきたボールを拾い上げると、何気ない動作で、しかし驚くほど正確なコントロールで、窓の外に向かって軽く投げ返した。ボールは、美しい放物線を描き、校庭で呆然と立ち尽くしていた男子生徒の一人の胸元に、すっぽりと収まった。
「「「おおーっ!!」」」
教室の内外から、思わず感嘆の声が上がる。
「すげえ、月島さん、コントロール良すぎ!」
「ナイスボール!」
校庭の男子生徒たちも、驚いたように暦を見上げ、そしてペコペコと頭を下げている。
暦は、特に気にするでもなく、自分の席に戻ろうとした。しかし、友人たちの尊敬と好奇の入り混じった視線に、再び顔が赤くなるのを感じた。
「暦ちゃん、すごーい! もしかして、運動も得意なの!?」
美咲が、目をキラキラさせて尋ねる。
「う、ううん、そんなことないよ…たまたま、だよ、たまたま…」
(…昔、お父様やお母様と、よく光の球を投げ合って遊んだっけ…あの頃の感覚が、少しだけ残ってるのかな…)
ふと、そんな遠い記憶の断片が、暦の脳裏をよぎった。しかし、彼女はすぐにその思考を振り払うように、小さく首を横に振った。
そんな小さな騒動も収まり、昼休みの喧騒は、やがてチャイムの音と共に終わりを告げ、生徒たちはそれぞれの午後の授業へと戻っていく。
暦は、まだ少しだけ頬を火照らせながらも、友人たちとの他愛ないおしゃべりや、予期せぬハプニングの余韻に、どこか心地よさを感じていた。
Kとしての非日常。美術の才能への注目。そして、こうしてクラスメイトたちと笑い合い、時にはちょっとした注目を集めてしまう、どこにでもいる(はずの)女子中学生としての日常。
その全てが、今の月島暦なのだと、改めて胸に刻む。
夏休みが明ける頃には、この甘酸っぱい噂の風も、そして彼女を取り巻く日常も、また少し違う色合いを帯びているのかもしれない。
そんな予感を胸に、暦は、そっと午後の授業の教科書を開いた。




