第二十八話:答案用紙の向こう側と、星降りの島への密約
七月に入り、梅雨明けを告げる蝉の声が、少しずつ校庭の木々から聞こえ始める頃。
月島暦の通う中学校では、期末テストという大きな山場が終わり、生徒たちの間には、待ちに待った夏休みへの期待感が充満していた。答案用紙も全て返却され、教室のあちこちで、歓声とため息が入り混じった賑やかな声が響いている。
「やったー! 暦ちゃんのおかげで、数学、過去最高点だったよー!」
早川美咲が、答案用紙を片手に、満面の笑みで暦に抱きついてきた。
「私もー! 英語の長文、暦先生の解説通りに読んだら、スラスラ意味が分かったの!」
先日の「お菓子だらけの勉強会」に参加した友人たちも、次々と喜びの報告にやってくる。暦は、その一人一人に「よかったね!」「頑張ったね!」と声をかけながら、自分のことのように嬉しく感じていた。
もちろん、暦自身の成績は、今回も素晴らしく、どうやら学年トップだったようだ。しかし、彼女にとってそれ以上に嬉しかったのは、友人たちが自分の助けで少しでも良い結果を出せたこと、そして、みんなで一緒に頑張ったという達成感を共有できたことだった。
(…誰かの役に立てるって、こんなに嬉しいことなんだな…)
Kとして、自分の歌やパフォーマンスで多くの人を魅了することとはまた違う、ささやかだけれど温かい喜びが、暦の胸を満たしていた。それは、彼女が「月島暦」として、この世界で確かに生きている証のようでもあった。
そんなテスト明けの、少し浮かれた雰囲気の昼休み。
暦は、美術室で一人、静かに油絵の具の匂いに包まれていた。夏休み前の最後の作品として、先日フラッシュバックで見た、あの「三つの月が浮かぶ海辺のリゾート」の風景を、記憶を頼りに小さなキャンバスに描き留めていたのだ。誰に見せるでもない、彼女だけの秘密のスケッチ。
(…あの場所…本当に、どこなんだろう…そして、あの人たちは…)
筆を動かしながら、ふと、あの鮮烈なデジャヴュの感覚が蘇り、胸の奥がチクリと痛む。それは、懐かしさと切なさが入り混じった、言葉にできない感情だった。
そして、再び――。
目の前のキャンバスが揺らぎ、意識が遠のいていく。
クリスタルの海、七色の砂浜、空に浮かぶ三つの月。そして、優しい笑顔の両親…。
(…お父さん…お母さん…!)
幼い自分が、その美しい風景の中で、無邪気に笑っている。その声、その温もり…。
暦の瞳が、現実を映さず、遠い過去を見つめているかのように、虚ろになる。その瞳の奥には、またしても、あの鮮やかなコバルトブルーの光が、微かに灯っていた。
「――月島さん? 大丈夫か、月島さん!」
不意に、肩を揺さぶられる感覚と、心配そうな声。
はっと我に返ると、目の前には美術部顧問の田中先生が、眉を寄せて暦の顔を覗き込んでいた。
「あ…先生…すみません、ちょっと、ぼーっとしてしまって…」
「いや、ぼーっというより、なんだか顔色も悪かったし、声をかけても反応がなかったから、少し心配したんだよ。疲れているのかい?」
「だ、大丈夫です! ちょっと、集中しすぎてたみたいで…」
暦は、慌てて笑顔を作った。また、あの不思議な感覚に囚われていたらしい。
(…最近、なんだか多いな…あの光景…)
田中先生は、なおも心配そうな顔をしていたが、暦が無理に明るく振る舞うのを見て、それ以上は深く追求せず、話題を変えた。
「それにしても、その絵…また一段と、君独自の世界観が深まっているね。夏休みには、何か大きな作品に挑戦してみるのもいいかもしれないね。市の美術展も秋にあるし、君ならきっと、素晴らしい作品を生み出せるはずだ」
「はい! 頑張ります! 夏休みは、もっと大きなキャンバスに、思いっきり描いてみたいです!」
暦は、先ほどの動揺を振り払うように、力強く答えた。Kとしての活動も、美術の創作も、どちらも今の自分にとっては大切なもの。どちらも諦めるつもりはなかった。その瞳には、世紀の芸術家への道を歩み始めた者の、静かな闘志が燃えていた。
その日の放課後。暦は、東雲翔真さんとの定期的な連絡のため、キララチューブ本社内にある「サンクチュアリ」へとテレポートした。
「お待ちしておりました、暦さん。期末テスト、大変お疲れ様でした。素晴らしい結果だったと伺っておりますよ」
いつものように完璧なスーツ姿の東雲さんが、穏やかな笑顔で迎えてくれる。テーブルの上には、冷たいフルーツティーと、暦の好きそうな焼き菓子が用意されていた。その細やかな気遣いに、暦は改めて感謝の気持ちを抱いた。
「さて、暦さん」
東雲さんの表情が、ふと真剣なものに変わる。その瞳には、プロデューサーとしての熱い情熱が燃え盛っていた。
「Kの快進撃は、もはや誰にも止められません! あなたの歌声、あなたのパフォーマンス、あなたの創り出す世界観…その全てが、今、世界を熱狂の渦に巻き込んでいるんです! これは、単なる流行じゃない。まさに『現象』です! 我々はその中心にいる。そして、この奇跡を、さらに大きく、さらに美しく咲かせる義務がある!」
彼の言葉の一つ一つから、ほとばしるような熱意と興奮が伝わってくる。それは、決して計算されたものではなく、Kという才能への純粋な感動と、共に未来を創り上げることへの渇望から生まれるものだった。
「…はい! 私も、もっとたくさんの人に、私の音楽を届けたいです!」
暦もまた、その熱意に応えるように、力強く頷いた。
「つきましては、夏休みを利用して、Kとしての新たなコンテンツ制作を、集中的に行いたいと考えております。セカンドシングルのレコーディング、そしてそのMV撮影です。そして、そのMVですが…暦さん、一つ、ご相談があるのですが…」
東雲さんは、そこで一旦言葉を切り、そして、まるで極秘の作戦を打ち明けるかのように、声を潜めた。
「実は…Kのイメージに合致する、究極とも言えるロケーションの候補地を見つけました。ですが、そこは通常の手段ではまず立ち入り不可能な、地図にも載っていない秘密の島なのです。地元では『星降りの島』と呼ばれているとか…」
彼は、息をのむほど美しい、幻想的な島の写真を暦に見せた。エメラルドグリーンの海、真っ白な砂浜、そして空にはオーロラのように揺らめく不思議な光。
「…すごい…本当に、こんな場所があるんですか…?」
「ええ。しかし、問題はそこへの『移動』です。もし、暦さんの『力』…その、テレポート能力をお借りできるのであれば、我々は最小限のスタッフと機材で、誰にも知られることなく、この島で前人未到のMV撮影を行うことができるかもしれません。もちろん、安全面は私が全て保証いたしますし、暦さんのご負担も最小限に抑えるよう、万全の準備をいたします。これは、世界中の誰も見たことのない、最高のMVを創り上げるための、ある意味『賭け』とも言える提案です。…暦さん、この挑戦、ご一緒していただけませんか?」
東雲さんの瞳は、挑戦的な輝きと、そして暦への絶対的な信頼に満ちていた。それは、一方的な指示ではなく、共に困難なミッションに挑む「共犯者」への、熱い呼びかけだった。
それは、あまりにも大胆で、そして常識外れな相談だった。
しかし、暦の胸は、不思議と高鳴っていた。
秘密の力を使って、誰も行けない場所へ行き、誰も見たことのない作品を創り上げる。それは、まるで壮大な冒険の始まりのようだった。
そして、何よりも、東雲さんが、自分の「力」を恐れるのではなく、それを「Kの最強の武器」として最大限に活かそうとしてくれていることが、嬉しかった。
(…この人となら、きっと、もっとすごいことができる…! 私のこの力も、誰かを傷つけるためじゃなくて、たくさんの人を笑顔にするために使えるんだ…!)
暦は、目の前に広がる「星降りの島」への、秘密の招待状を、しっかりと見つめ返した。
その瞳には、もはや不安の色はなく、代わりに、新たな挑戦への期待と、そして困難を乗り越えていくことへの静かな闘志に満ちた、力強い光が灯っていた。
夏休みは、もうすぐそこまで来ている。
それは、月島暦にとって、そしてKにとって、忘れられない「特別な夏」の始まりを告げる、秘密の密約が交わされた瞬間だったのかもしれない。




