第二十七話:アトリエの色彩と、お菓子だらけの勉強会
先日の日曜日の、海辺のカフェテラスでの不思議な体験。
月島暦の心には、あの鮮烈な異世界の光景と、胸を締め付けるような懐かしさが、まだ微かに残っていた。しかし、彼女はそれを心の奥底にそっとしまい込み、目の前の日常へと意識を戻していた。今は、期末テストが間近に迫り、学校全体が少しだけソワソワとした空気に包まれている時期だ。
暦にとって、そんなテスト前の緊張感を和らげてくれる場所の一つが、美術部だった。
キララチューブ主催のコンテストでの大賞受賞以来、彼女は部内でも一目置かれる存在となっていたが、暦自身は変わらず、真摯に、そして楽しそうに創作活動に取り組んでいた。
その日は、夏休み前最後の大きな課題である「自由テーマでの油絵制作」の追い込みだった。他の部員たちが、風景画や静物画といったオーソドックスなテーマに取り組む中、暦のキャンバスには、誰も見たことのないような、しかしどこか懐かしさを感じさせる幻想的な世界が、少しずつ形を成し始めていた。
それは、先日垣間見た、あの「三つの月が浮かぶ海辺のリゾート」の光景を、彼女自身のフィルターを通して再構築したものだった。クリスタルのように透き通った海、七色に輝く砂浜、そして空に浮かぶ柔らかな光を放つ月たち。その色彩は、現実にはありえないほど鮮やかでありながら、どこか夢の中のような儚さを湛え、観る者の心を不思議な感覚で満たしていく。
「…月島さん、また、すごい世界観を描いているね…。その色使い、本当に独創的だ」
隣でイーゼルを並べていた高橋涼介先輩が、感嘆の声を漏らしながら、暦のキャンバスに見入っていた。彼の瞳には、純粋な驚きと、そして芸術家としての強い興味が浮かんでいる。
「あ、高橋先輩…ありがとうございます。でも、なんだか、頭の中に浮かんだイメージを、そのまま描いているだけなので…自分でも、これが何なのかよく分からないんです」
暦は、少し照れながらも、正直な気持ちを口にした。
「頭の中に浮かんだイメージ、か…。君の頭の中は、きっと僕たちには想像もつかないような、美しいもので満ち溢れているんだろうな。その片鱗を見せてもらえるだけでも、すごく刺激になるよ」
涼介は、穏やかに微笑むと、再び自分の作品へと向き直った。彼の言葉は、いつも暦の心を温かくし、創作への意欲を掻き立ててくれる。
その時、少し離れた場所で作品に取り組んでいた、同じ1年生の山口玲奈が、難しい顔をして自分のパレットと格闘しているのが見えた。玲奈は、入学当初から美術の才能には自信を持っており、暦のコンテスト受賞を知って以来、どこかライバル意識を燃やしているようだったが、最近は暦の作品の持つ独特の世界観に、密かに影響を受けているようでもあった。
「うーん…この空の色、もっと深みを出したいんだけど…どうすれば…」
独り言のように呟く玲奈の声が、暦の耳に届く。
暦は、少しだけ躊躇したが、そっと玲奈のそばに近づき、声をかけた。
「山口さん…もしよかったら、だけど…その青に、ほんの少しだけ、このバーントアンバーを混ぜてみたらどうかな? そうすると、ただ暗くなるんじゃなくて、奥行きが出るかもしれないよ」
「え…月島さん…?」
突然のアドバイスに、玲奈は驚いたような顔をしたが、暦の真剣な眼差しと、具体的な提案に、素直に耳を傾けた。そして、恐る恐る、暦の言う通りに絵の具を混ぜ、キャンバスに色を乗せてみる。
すると、どうだろう。それまで平面的に見えていた空の色が、まるで呼吸を始めたかのように、深みと広がりを持ち始めたのだ。
「…すごい…! 本当だ…! 月島さん、ありがとう!」
玲奈の瞳が、驚きと感謝でキラキラと輝いた。その素直な反応に、暦も嬉しくなり、自然と笑顔がこぼれる。
「ううん、どういたしまして。山口さんの絵、いつもすごく丁寧で、素敵だなって思ってたから」
その言葉に、玲奈は少し顔を赤らめ、そして、何かを決意したように、再び力強く筆を握りしめた。
(よかった…少しは、役に立てたかな…)
暦は、そんな彼女の姿を、温かい気持ちで見守った。美術部での時間は、ただ自分の作品と向き合うだけでなく、こうして仲間たちと刺激し合い、共に成長していく喜びも与えてくれるのだと、改めて感じていた。
美術部の活動が終わると、暦は早川美咲たちと合流し、以前約束していた「勉強会」のために、美咲の家へと向かった。
美咲の部屋に集まったのは、暦を含めて女子5人。しかし、机の上に広げられたのは、教科書やノートよりも圧倒的に多い、色とりどりのお菓子の袋とジュースのペットボトルだった。
「よーし! 期末テスト必勝祈願(という名の、お菓子パーティー)&夏休みワクワク計画会議、兼、ちょこっとだけお勉強会、スタート!」
美咲が、ポテトチップスの袋をバリッと開けながら、高らかに宣言する。
「え、美咲ちゃん、勉強は…本当にちょこっとなの…?」
暦が、少し不安そうに尋ねると、
「大丈夫だって! まずは糖分補給と情報交換からだよ! どの科目がヤバいか、とかね!」
と、全く悪びれない様子。他の友人たちも、「そうだそうだー!」とクッキーを頬張りながら同意している。
結局、最初の1時間は、お菓子を食べながらの近況報告や、夏休みの計画(「Kのライブがあったら絶対行きたいよねー!」「でもチケット取れるかなぁ?」といった、暦にとっては冷や汗ものの話題も飛び交う)、そして、最近流行っている動画サイトの面白い動画の共有などで、大いに盛り上がった。途中、誰かが持ってきた携帯ゲーム機で白熱した対戦が始まったり、お気に入りの音楽をかけて、部屋の中で即席のファッションショー(という名の、変なポーズ大会)が繰り広げられたりと、およそ勉強会とはかけ離れた、しかし最高に楽しい時間が過ぎていく。
暦は、そんな友人たちの底抜けの明るさと賑やかさに、最初は少しだけ戸惑いながらも、いつの間にか心の底から笑っている自分に気づいていた。Kとしての活動では決して味わうことのできない、等身大の、くだらなくて、でもかけがえのない、キラキラとした時間。
「…で、そろそろ本当にヤバいから、ちょっとは真面目に勉強始めない?」
一通り騒ぎ疲れた頃、ようやく誰かがそう切り出した。
「あー、そうだねー。でも、数学のあの証明問題、教科書読んでも全然意味分かんないんだよねー」
「英語の長文も、単語が難しすぎて心が折れそう…」
途端に、部屋の空気が現実に戻り、どんよりとする。
その時、美咲がポンと手を叩いた。
「そうだ! 困った時の暦先生! お願い! 私たちに、愛の手を差し伸べて!」
「え、ええっ!? だから、私、先生なんて、本当に無理だってば…!」
「大丈夫大丈夫! 中間テストの時も、暦ちゃんの説明、神がかってたもん! あの後、クラスの半分くらいが『月島塾に入りたい』って言ってたよ!」
友人たちの期待に満ちた、そしてどこか切実な眼差しに、暦は観念して、一番大きなテーブルの前に座った。
最初は「私なんかが教えられるわけ…それに、みんなの方が詳しいところもあるかもしれないし…」と恐縮しきりだった暦だったが、いざ友人たちの質問に答え始めると、彼女の頭脳は驚くほどクリアに回転し始めた。複雑な問題も、ポイントを整理し、分かりやすい言葉で、時にはお菓子の袋の裏(!)に可愛らしいイラストを描きながら解説していく。その教え方は、まるで難しいパズルを一つ一つ丁寧に解き明かしていくようで、聞いている友人たちも、自然と引き込まれていった。
「わー! すごい、暦ちゃん! 今ので、あのややこしい関係代名詞の使い分け、完璧に理解できた!」
「なんで暦ちゃんの説明だと、あんなに難解だった物理の法則が、こんなにスッと頭に入ってくるんだろう…? もしかして、暦ちゃん、本当に魔法使いなんじゃ…」
友人たちの驚きと感謝の声に、暦は少し照れながらも、役に立てたことが純粋に嬉しかった。お菓子と笑い声に満ちた部屋で、いつの間にか「月島暦先生」の、世界で一番楽しい(そして美味しい)特別授業が、和気あいあいとした雰囲気の中で進んでいた。
夕方になり、勉強会(という名のお楽しみ会)もお開きになった。
「暦ちゃん、今日は本当に本当にありがとうね! おかげで期末テスト、赤点回避どころか、平均点超えも夢じゃないかも!」
美咲に大げさな感謝の言葉と共に拝まれ、暦も笑顔で手を振った。
帰り道、一人になった暦は、今日の出来事を思い返していた。美術部での創作の喜び、友人たちとのおしゃべりや、ちょっとした騒動、そして、みんなに頼りにされた小さな達成感。どれも、Kとしての華やかな世界の裏側にある、暦にとってかけがえのない、等身大の日常の一コマだった。
(…私、ちゃんと、月島暦として、ここにいるんだな…みんなと一緒に、笑ったり、悩んだりしてる…)
そんな当たり前の事実が、なぜか今はとても温かく、そして力強く感じられた。
空には、梅雨の晴れ間の、美しい三日月が優しく輝き始めている。それは、まるで彼女の二つの顔を、どちらも等しく、そして優しく照らしているかのようだった。
期末テストが終われば、いよいよ待ちに待った夏休み。そして、Kとしての活動も、さらに本格化していくのだろう。
その先にどんな未来が待っているのか、まだ分からない。
けれど、今の暦の胸には、確かな希望と、そしてほんの少しの冒険心のようなものが、静かに、しかし力強く芽生え始めていた。




