第二十六話:日曜日のカフェテラスと、潮風のデジャヴュ
東雲翔真さんが「月島暦の美術の才能を支援する篤志家」として月島家を訪れ、養父母である譲さんと佐和子さんから温かく迎え入れられてから、数日が過ぎた。
暦の日常は、表面的には何も変わらないように見えた。朝起きて、学校へ行き、美術部の活動をして、家に帰る。そんな穏やかな日々。しかし、彼女の心の中には、確かな安堵感と、そして未来への新たな期待が、春の陽光のように静かに差し込んきていた。Kとしての活動で得られるであろう報酬が、月島暦としての「美術奨学金」という、誰にも胸を張れる形で自分の元へ届く道筋ができたのだ。それは、東雲さんの巧妙な手腕と、そして何よりも、自分の「美術の才能」が公に認められた結果だった。
(東雲さん、本当にすごい人だな…あんな風に、お父さんとお母さんを安心させてくれるなんて…でも、私ももっと頑張らないと。美術も、そして…Kとしても…)
キララチューブ主催のコンテストでの大賞受賞は、学校でもちょっとした話題となり、特に美術部では「月島さん、すごいね!」「将来は芸術家かな?」と、先輩や同級生たちから称賛の声が寄せられた。暦自身は、その喧騒から少し距離を置き、変わらずマイペースに絵と向き合っていたが、自分の作品が誰かに認められることの喜びを、少しずつ実感し始めていた。高橋涼介先輩との美術談義は、以前にも増して活発になり、互いの作品について意見を交わす時間は、彼女にとってかけがえのない刺激となっていた。
そんなある、梅雨入り前の貴重な晴れ間が広がった日曜日。
暦は、譲さんと佐和子さんと一緒に、少し足を伸ばして、海辺の街へドライブに出かけていた。
「暦、最近美術部も本格的に始まって、毎日頑張ってるみたいだし、たまにはのんびり息抜きも必要でしょ? お父さん、いいカフェを見つけたんだ」
運転席の譲さんが、バックミラー越しに優しく声をかける。その表情は、娘の才能が認められたことへの喜びと誇りに満ちているように見えた。
「うん、ありがとう、お父さん。嬉しいな」
助手席の佐和子さんも、にこやかに振り返る。
「本当にねぇ、東雲さんっていう、素晴らしい方にも出会えて…。暦の絵を、あんなに熱心に褒めてくださるなんて、お母さん、なんだか自分のことみたいに嬉しくて、ちょっと泣きそうになっちゃったわ」
「お母さんったら、大げさだよ」
暦は、少し照れながらも、養父母のその温かい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。東雲さんへの感謝の気持ちも、改めて込み上げてくる。彼が作ってくれたこの「月島暦としての道」を、大切に歩んでいこうと、心の中で静かに誓った。
車は、やがて海を見下ろす高台にある、白い壁と青い屋根が印象的なカフェテラスに到着した。雑誌にも取り上げられることがあるという、地元では人気のスポットだ。
「わぁ…! すごく素敵なところ!」
暦は、目の前に広がる、キラキラと太陽の光を反射する青い海と、どこまでも続く青い空に、思わず感嘆の声を上げた。潮の香りを乗せた風が、心地よく頬を撫でていく。
三人は、テラスの中でも特に眺めの良い、海に一番近い席に案内された。白いパラソルの下、柔らかな日差しがテーブルに落ち、遠くには白い帆船がゆったりと進んでいるのが見える。まるで絵葉書のような美しい光景だった。
それぞれが好きなケーキと飲み物を注文し、運ばれてくるのを待つ間、譲さんが、ふと思い出したように言った。
「そういえば暦、東雲さんもおっしゃってたけど、あのコンクールで大賞を獲った絵、お父さんたちにもまだちゃんと見せてもらってないじゃないか。今度、ゆっくり見せておくれよ。どんな絵なのか、すごく楽しみなんだ」
「あ…うん…でも、そんなに大した絵じゃないよ…たまたま、運が良かっただけだと思うし…」
暦は、少し俯きながら答えた。あの絵は、自分でもどうしてあんなものが描けたのか、よく分かっていない。ただ、心の奥底にある、ぼんやりとしたイメージを形にしただけなのだ。
「またまたー、暦ちゃんは謙遜しちゃって。お母さんは知ってるんだから! 暦ちゃんの絵は、昔から本当に綺麗で、何か特別な力があるって、ずっと思ってたのよ!」
佐和子さんが、いたずらっぽく笑いながら、暦の頭を優しく撫でた。その言葉は、Kの存在を知らない佐和子さんなりの、娘への最大の賛辞だった。
(…特別な力…か。お母さんには、何か見えてるのかな…)
暦は、内心ドキッとしながらも、養母の温かい手に、素直に甘えるのだった。そんなことを考えていると、注文したストロベリータルトと、アイスティーが運ばれてきた。
穏やかな日差し、心地よい潮風、遠くで聞こえるカモメの鳴き声、そして、目の前に広がるどこまでも青い世界。
暦は、フォークで切り分けたストロベリータルトを一口頬張り、その甘酸っぱさに目を細めた。そして、ふと顔を上げ、目の前の海を眺めた瞬間―――。
強い既視感が、まるで稲妻のように彼女の全身を貫いた。
(…あれ…? この景色…どこかで…ううん、知ってる…私は、ここにいたことがある…!)
目の前の、現実のカフェテラスの光景が、急速に色褪せ、陽炎のように揺らぎ始める。そして、次の瞬間、暦の意識は、まるで魂だけが肉体から抜け出したかのように、全く別の場所へと飛んでいた。
そこは、もっと鮮やかで、もっと幻想的で、そしてどこか現実離れした、息をのむほど美しい海辺のリゾート地。クリスタルのようにどこまでも透き通った海が、空の色を映してエメラルドグリーンに輝き、波打ち際には、ダイヤモンドダストのように七色にきらめく砂浜が広がっている。そして、空には、見たこともないような、柔らかな乳白色の光を放つ、三つの月が仲良く浮かんでいた…。
幼い自分が、その美しい砂浜を裸足で駆け回っている。その後ろから、優しい笑顔を浮かべた男女が、温かく自分を見守っている。その声、その温もり、その匂い…。
(…お父さん…お母さん…!)
懐かしさと愛しさが、奔流のように暦の心を打ち、全身の血が逆流するような感覚と共に、強烈なめまいに襲われる。
頭の中で、澄み切った、どこか子守唄のような美しいメロディーが、大音量で鳴り響き始めた。それは、Kとして自分が時折、無意識のうちに口ずさんでしまう、あの不思議な歌そのものだった。
現実のカフェテラスに座っているはずの暦の体は、微動だにしていない。しかし、その瞳は、夕日のオレンジ色を反射しているはずなのに、ほんの一瞬、まるで内側から発光するかのように、鮮やかなコバルトブルーの光を宿した。そして、周囲の時間が、ほんの僅かだけ、コンマ数秒ほど、歪んだように感じられた――。
「…暦? どうかしたの、ぼーっとして。顔色も、なんだか少し悪いみたいだけど…ケーキ、お口に合わなかったかしら?」
佐和子さんの心配そうな声が、まるで遠いどこかから聞こえてくるように感じられた。その声に、暦は、はっと我に返った。
目の前には、いつもの優しい養父母と、半分ほど食べかけのストロベリータルト。先ほどまでの幻想的な光景と、魂が抜け出すような感覚は、まるで荒れ狂う嵐が過ぎ去ったかのように、跡形もなく消え去っていた。
しかし、全身にはまだ、あの異世界の潮風と、両親の温もり、そして胸を締め付けるような切なさが、生々しく残っている。
「う、ううん、なんでもないの! ちょっと、日差しが強かったからかな…景色が綺麗だなって思って、見とれてただけ…ケーキ、すごく美味しいよ!」
暦は、必死で平静を装い、作り笑顔を浮かべた。しかし、心臓はまだバクバクと激しく高鳴り、指先は氷のように冷たく、そして微かに震えているのが自分でも分かった。
(今の…何だったんだろう…? ただのデジャヴュじゃなかった…私は、確かに、あの場所にいた…あの人たちと…)
それは、もはや「夢」という言葉では片付けられない、あまりにも鮮烈で、そして確かな「体験」だった。
その美しい記憶の断片は、彼女の心の奥深くに、消えない傷跡のように、そして同時にかけがえのない宝物のように、深く刻み込まれた。
それは、彼女がこの世界に来る前の、遠い、遠い異世界の記憶のかけら。
そして、そのかけらが、やがて彼女の運命を、そしてKとしての活動を、大きく、そして否応なく揺るがしていくことになるのかもしれない。
そんなこととは露知らず、暦は、動揺を隠すように、再び目の前のストロベリータルトにフォークを伸ばした。しかし、その甘酸っぱさは、もはや先ほどのように素直に味わうことはできなかった。
潮風が、彼女の髪を優しく撫でていく。その瞬間、彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、あの幻想的な海の、忘れられないほどの青さが宿ったように見えたのは、養父母には気づかれなかった、彼女だけの秘密だった。




