第十六話:うたた寝の油断と、衝撃の二度見
Kの公式チャンネルが開設され、再編集された「銀髪の歌姫」の動画が公開されてから数日。
ネット上は、依然としてKの話題で持ちきりだった。称賛の声、今後の活動への期待、そして謎に包まれたKの正体への憶測。その熱狂は、中間テストを終え、少しだけ解放感を味わっていた暦の日常にも、静かに、しかし確実に影響を与え始めていた。
東雲翔真からの連絡は、ほぼ毎日あった。新曲のデモ音源のやり取り、MVのコンセプト会議(もちろんメールや匿名チャットで)、そして、次に公開するコンテンツの選定。その全てが、Kのプライバシーを最大限に尊重しつつ、しかし確実にKを世界のトップへと押し上げようという、キララチューブの熱意に満てていた。
暦もまた、Kとしてその期待に応えようと、学業と両立させながら、秘密裏に創作活動に没頭していた。並列処理思考と、瞬間移動や変身能力を駆使すれば、時間的にも物理的にも、不可能と思われるスケジュールをこなすことができた。
(ふふっ、東雲さんたち、まさか私が授業中もKの歌詞を考えてるなんて、夢にも思わないだろうな…)
そんな、ちょっとした優越感とスリルが、暦の日常を彩っていた。
その日、暦はKとして、キララチューブが用意した都内某所のプライベートスタジオを訪れていた。そこは、外部からの侵入を完全にシャットアウトできる、最新鋭のセキュリティシステムを備えた特別な場所。K専用の控え室もあり、東雲以外は基本的に立ち入り禁止という徹底ぶりだ。今日は、新曲のレコーディングと、MVの衣装合わせ、そして簡単なテスト撮影が行われる予定だった。
レコーディングは、暦の完璧な歌声のおかげで、驚くほどスムーズに終了した。
「素晴らしいです、Kさん! 今回も最高のテイクでした!」
ミキシングルームから、東雲の興奮した声が響く。
暦はKとして、優雅に微笑んでみせたが、内心は(よし、早く終わった! これなら帰って宿題する時間もたっぷりあるぞ!)と、中学生らしいことを考えていた。
続いて、MVの衣装合わせ。
用意されたのは、夜空を思わせる深い藍色のベルベット生地に、銀河のように無数の小さな宝石が縫い付けられた、息をのむほど美しいロングドレスだった。
「こちら、Kさんのイメージに合わせて、海外のデザイナーに特注した一点物です。いかがでしょうか?」
東雲が、誇らしげに差し出す。
「…とても、素敵です」
K(暦)は、そのドレスの荘厳な美しさに、思わずため息を漏らした。
フィッティングを終え、ドレス姿のまま、K(暦)はスタジオの隅に設えられた豪華なソファに腰を下ろした。次のテスト撮影まで、少し時間がある。
連日のテスト勉強とKとしての活動の疲れが、どっと押し寄せてきた。ふかふかのソファの心地よさも手伝って、暦の瞼が、自然と重くなってくる。
(…ちょっとだけ…ほんのちょっとだけ、目を瞑ろうかな…東雲さんも、次の準備で忙しそうだし…)
Kとしての緊張感が、ほんの少しだけ緩んだ瞬間だった。
いつものように「Kの姿を維持する」という意識が、うとうととした眠りの縁で、ほんの僅かに、本当に僅かに途切れてしまったのだ。
そして、暦は、Kの豪華なドレスを纏ったまま、すーすーと可愛らしい寝息を立てて、深い眠りに落ちてしまった。
数十分後。
「Kさん、お待たせいたしました。テスト撮影の準備が整い…ま…した……?」
控え室のドアを静かに開け、東雲が入ってきた。そして、ソファの上で眠っているKの姿を見て、思わず言葉を失った。
(…お疲れだったのだろうな。無理もないか…)
東雲は、Kの安らかな寝顔に、思わず頬を緩めた。どんなに神秘的なオーラを纏っていても、こうして眠っている姿は、どこか幼く、愛らしい。起こすのは忍びないな、と、そっと部屋を出ようとした、その時。
東雲の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
眠っているKの、あの美しい銀色の髪が…まるで幻だったかのように、艶やかな黒髪へと変わっている…?
「え…?」
東雲は、自分の目を疑った。疲れているのだろうか。幻覚でも見ているのか。
しかし、何度瞬きをしても、そこに眠っているのは、Kの豪華なドレスを身に纏いながらも、明らかにKではない、黒髪の、どこかで見覚えのあるような…そう、まるで普通の中学生のような少女だった。
(ま、待て…この顔…どこかで…? いや、そんなはずは…KさんはKさんだ…でも、この髪の色は…?)
頭の中が真っ白になり、思考が停止する。
パニックになりかけた東雲が、恐る恐る、もう一度少女の顔をよく見ようと、ほんの少しだけ身を乗り出した、その瞬間。
「ん……ふわぁ……あれ…?」
暦が、小さなあくびと共に、目を覚ました。
そして、目の前に、信じられないほど近くに、東雲の驚愕に染まった顔があるのを見て、暦の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
「!!!!!!!!!!!」
声にならない悲鳴。
自分がKのドレスを着たまま、元の月島暦の姿で寝てしまっていたこと。そして、それを東雲に、至近距離でじっくりと見られてしまったこと。
その二つの事実を瞬時に理解した暦の頭の中は、まさに沸騰寸前だった。
(み、見られたーーーーーーーーーっ!!! しかも、寝顔までーーーーーっ!!!)
羞恥と絶望と焦りが一気に押し寄せ、暦の思考回路は完全にショート。
「あ、あわ、あわわわわわわわわわっ!!!!!」
意味不明な叫び声を上げながら、暦は、咄嗟に、本能的に、その場から逃げ出そうとした。
次の瞬間、彼女の姿は、まるで霞のように掻き消え――そして、同時に、部屋の隅に置いてあった花瓶がガシャン!と大きな音を立てて床に落ちて割れた。どうやら、パニックのあまり、転移のコントロールが暴走し、近くの物体にまで影響を与えてしまったらしい。
「…………………え?」
東雲翔真は、目の前で起こった一連の出来事――黒髪の少女の出現、その少女のパニックからの消失、そして謎の物体破壊――を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
床には、割れた花瓶の破片と、こぼれた水。そして、ソファの上には、持ち主を失ったかのように、あの美しい夜空色のドレスだけが、静かに残されていた。
彼の脳裏には、先ほどまでそこにいた黒髪の少女の、怯えたような、そしてどこか見覚えのある顔が、強烈に焼き付いていた。
その、あまりにも静かで、あまりにも非現実的な空間に、不意に、小さな声が響いた。
「…………あのぉ……」
東雲が、はっと顔を上げると、そこには――いつの間にか、先ほどの美しい夜空色のドレスを再び身に纏い、髪も完璧な銀髪に戻ったKが、部屋の入口のドアの影から、おそるおそる顔を半分だけ覗かせていた。
その表情は、いつもの神秘的なKとは程遠く、まるで悪いことをして叱られるのを待つ子供のように、不安と焦りでいっぱいだった。
そして、Kは、上目遣いで東雲の様子を伺いながら、か細い声で、こう言ったのだ。
「…………だめ……? (ごまかせ……ない……??)」
その言葉と、あまりにも分かりやすい動揺っぷりに、東雲翔真は、先ほどまでの衝撃と混乱が、一瞬だけどこかへ吹き飛んでしまうような、奇妙な感覚に襲われた。
いや、ダメだろう。どう考えても。
しかし、目の前で必死に(そして、明らかに無駄な)取り繕いをしようとしている「K」の姿は、あまりにも…。
彼の人生で、これほどまでに理解不能で、衝撃的で、そして何故かほんの少しだけ、微笑ましい(?)出来事は、間違いなく初めてだった。
Kの秘密。それは、彼の想像を、そしてこの世界の常識を、遥かに、遥かに超えた、とんでもなく可愛らしい大問題だったのだ。




