第十四話:試験前の静けさと、水面下の胎動
五月も半ばを過ぎ、暦が通う進学校では、中間テストが目前に迫っていた。教室には、いつもより少しだけ張り詰めた空気が漂い、休み時間にも教科書やノートを広げる生徒の姿が目立つ。分厚い問題集のページをめくる音、小さなため息、そして「今回の範囲、広すぎない?」といった囁き声が、静かなプレッシャーとなって教室を満たしていた。
月島暦もまた、そんな試験前の日常の中にいた。得意な科目もあれば、少し苦手意識のある科目もある。それでも、彼女は持ち前の集中力と並列処理思考を駆使し、淡々とテスト勉強に取り組んでいた。
しかし、その穏やかな水面下では、彼女の人生を大きく揺るがす出来事が、着々と進行していた。キララチューブとの契約、そして「K」としての本格的な活動開始の準備。その全てが、まだ誰にも知られていない、暦だけの秘密だった。
昼休み。いつもならもう少し賑やかな教室も、今日はどこか落ち着いている。それでも、やはり話題の中心は、テスト範囲の確認や、難解な問題についての情報交換だ。
「ねえ、今回の古典の範囲、あの有名な歌人の和歌、解釈が難しいわよね」
「数学の応用問題、先生がヒント出してくれたけど、やっぱり解けない…」
そんな会話が、あちこちで交わされている。
暦は、親友の早川美咲と一緒にお弁当を広げていた。美咲も、少し疲れた顔でため息をついている。
「はぁー、中間テスト、憂鬱だよね。特に歴史、覚えること多すぎ…」
「うん、確かに。でも、一つ一つやっていくしかないよね」
暦は、努めて明るく答えた。本当は、テスト勉強と並行して、Kとしての活動準備も進めているため、内心はかなり忙しいのだが、そんな素振りは見せない。
(…東雲さんとの打ち合わせ、今日の放課後だったな…うまく時間作れるかな…)
頭の中では、テスト勉強の計画と、Kとしてのスケジュールが目まぐるしく交錯していた。
そんな時、クラスの中でも特に情報通で、少しお調子者な男子生徒、佐藤くんが、声を潜めながらも興奮した様子で話し始めた。
「なあ、ちょっと聞いたか? キララチューブで、近々なんかデカい発表があるらしいぜ。例の、動画が流出して大騒ぎになった『謎の美少女K』関連の…」
その言葉に、それまでテスト勉強の話題で持ちきりだった教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。いくつかの視線が、佐藤くんに集まる。
「え、本当? Kって、あの銀髪の子でしょ? 結局、何者だったの?」
別の女子生徒が、興味深そうに尋ねる。
暦は、心臓がドクンと跳ねるのを感じたが、平静を装い、お茶を一口飲んだ。まさか、その「謎の美少女K」が、今まさに隣の席で教科書を広げている自分だとは、誰も夢にも思わないだろう。
(…もう、そんな噂まで…東雲さん、情報管理は大丈夫なのかな…でも、これも計算のうちなのかも…)
暦は、数日前に東雲と交わした契約内容と、今後の活動プランを思い出していた。公式チャンネルの開設、流出動画の再編集版の公開、そして新曲の準備…。その全てが、水面下で着々と進められている。
「それがさー、まだ詳細は不明なんだけど、キララと正式に契約したんじゃないかっていう説が濃厚なんだよ。だとしたら、マジでビッグニュースだぜ。あんな逸材、他の事務所が放っておくわけないしな」
佐藤くんは、得意げに続ける。
クラスメイトたちは、テスト勉強の息抜きとばかりに、その話題に耳を傾けていた。Kのミステリアスな存在は、鬱々とした試験前の空気に、ちょっとした刺激と好奇心をもたらしたようだった。
「Kかぁ…あの歌声とダンス、本当に人間業とは思えないよね。もし本当にデビューしたら、世界の音楽シーン、塗り替えちゃうんじゃない?」
「ありえるありえる! でも、プライベートは謎のままにしてほしいなー。その方が、カリスマ性保てると思うし」
友人たちの無邪気な、しかし的を射た(?)会話を聞きながら、暦は苦笑いを浮かべるしかなかった。
美咲も、目を輝かせて暦に話しかけてきた。
「ねえ、暦ちゃん。Kの噂、本当だったらすごいよね! 私、あの流出動画、何回も見ちゃったんだ。あの神秘的な雰囲気、暦ちゃんが描く絵の世界観と、なんだか通じるものがある気がするんだよね」
「え…そ、そうかな…?」
思わぬ言葉に、暦は少しだけ動揺した。
「うん! なんか、こう…静かで、綺麗で、でもどこか切ない感じがするの。もしKが本当にデビューしたら、暦ちゃんも絶対ファンになると思うな!」
「う、うん…楽しみだね」
(…ファンになるっていうか、張本人なんだけどね…)
内心でそう思いながら、暦は曖昧に微笑んだ。
家路につく頃には、空は茜色に染まっていた。
スマートフォンを取り出すと、東雲からのメッセージが一件。
『Kさん、お疲れ様です。公式チャンネルのティザー映像、明朝10時に公開予定です。最終チェック、お願いできますでしょうか?』
添付されていたのは、数十秒の短い動画ファイル。
暦は、イヤホンを耳に当て、再生ボタンを押した。
画面に映し出されたのは、自分の後ろ姿。そして、あの歌声。背景には、異世界の森を忠実に再現した(と暦は思っているが、実は彼女の能力の片鱗が作り出した)美しいCG。
(…いよいよ、始まるんだ…)
胸が高鳴るのを感じながら、暦は、明日からの世界が、少しだけ変わるような予感を覚えていた。
それは、まだ誰にも気づかれていない、小さな月影が、やがて満月のように輝きを放つ、そのほんの始まりの合図だったのかもしれない。




