第十二話:夜明けの契約と、最初のファンファーレ
月島暦と東雲翔真の最初の会談から数日。
暦は、東雲から提示された契約プランの骨子を、隅々まで検討していた。養父母に打ち明けないと決めた以上、契約に関する全ての判断は自分一人で行わなければならない。それは中学生の少女にはあまりにも重い責任だったが、暦は持ち前の冷静さと、そして東雲という人物への信頼感を頼りに、一つ一つの項目を吟味していった。
特に暦が重視したのは、やはり「秘密の絶対保護」と「活動の自由度」、そして「著作権の帰属」だった。これらに関して、キララチューブ側の提示内容は、暦の想像を遥かに超える、誠実かつ最大限の配慮に満ちたものだった。
そして、報酬の受け取り方。東雲からは、Kの収益を管理・運用するための信託制度の活用や、将来的にはKの名前を冠した文化振興財団のようなものを設立し、社会貢献にも繋げるという壮大なプランも提示された。暦自身への報酬は、Kの活動に必要な経費(これには、暦の生活や学業をサポートするための費用も、無理のない範囲で含まれるという説明だった)として計上され、それ以外の大きな金額は信託などで安全に管理し、暦が成人した時や、本当に大きな目的ができた時に使えるようにするという。
(…すごい。ただお金をくれるだけじゃなくて、私の将来のことまで考えてくれてる…)
その配慮の深さに、暦は心を打たれた。この人になら、そしてこの会社になら、自分の未来を託してもいいかもしれない。
数日後、暦は東雲に、契約締結の意思を伝えるメールを送った。いくつかの細かな条件修正の要望と共に。
東雲からの返信は迅速だった。暦の要望をほぼ全て受け入れる形で、正式な契約書案が送られてきた。それは、法務部の専門家が作成した、極めて厳格かつ公正な内容の電子契約書だった。匿名性を保つため、契約は電子署名で行われることになった。
そして、ある週末の深夜。
暦は、自室でパソコンに向かい、静かに深呼吸をした。画面には、キララチューブとの専属アーティスト「K」としての契約書が表示されている。
これが、自分の運命を大きく変えるかもしれない、一枚の紙。
震える指で、電子署名のボタンをクリックする。
その瞬間、画面に「契約が成立しました」というメッセージが表示された。
まるで、何かの魔法が解けたかのように、暦の全身からふっと力が抜ける。安堵感と、そしてこれから始まるであろう未知の世界への、期待と不安が入り混じった、不思議な感覚だった。
(…これで、私は「K」になったんだ…)
窓の外は、まだ暗い。しかし、東の空が、ほんの少しだけ白み始めているのが見えた。まるで、新しい夜明けを告げるかのように。
契約成立の報は、即座に東雲翔真の元にも届いた。
「…やった…! ついに…!」
深夜のオフィスで、一人静かにガッツポーズをする東雲。彼の胸には、大きな安堵と共に、計り知れないほどの責任感が押し寄せていた。この天才少女の未来を、そして会社の未来を、自分が背負うのだと。
翌朝、キララチューブは、社長である星影の承認のもと、世間に対して二つの大きな発表を行った。
一つは、先日の非公開動画流出事故に関する、改めての深い謝罪と、再発防止策の徹底、そして被害ユーザーへの補償について。これは、企業の信頼回復に向けた、当然の責務だった。
そしてもう一つ、それと同時に発表されたのが、今回の流出動画で世界的な注目を集めた「謎の美少女K」に関しての公式声明だった。
『【重要なお知らせ】アーティスト「K」に関するご報告
平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
株式会社キララエンターテイメントは、この度、先日来インターネット上で大きな注目を集めておりますアーティスト「K」様と、専属マネジメント契約を締結いたしましたことを、ご報告申し上げます。
K様は、ご自身のプライバシー保護を最優先されるご意向であり、今後も本名、年齢、国籍、その他一切の個人情報を公表することなく、アーティスト「K」として活動を継続されます。弊社は、K様のご意向を最大限尊重し、その匿名性と安全を、社を挙げてお守りすることをお約束いたします。
また、現在インターネット上に拡散されておりますK様の動画につきましては、その多くがK様の許諾を得ない無断アップロードであり、著作権及び肖像権を侵害するものでございます。弊社は、K様の正式な代理人として、これらの違法動画に対し、断固たる措置を講じてまいります。
ファンの皆様、並びに関係各位におかれましては、K様のプライバシーにご配慮いただき、節度ある応援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
なお、近日中に、アーティスト「K」の公式チャンネルをキララチューブ内に開設し、K様の正式な許諾を得た、ハイクオリティなコンテンツをお届けする予定でございます。K様の新たな才能の開花に、どうぞご期待ください。
株式会社キララエンターテイメント
代表取締役社長 星影 龍一郎
クリエイターサポート部 部長 東雲 翔真』
この発表は、まさにネット社会に投じられた爆弾だった。
「K、キララチューブと契約!」「運営のミスからスター誕生か!?」「プライバシー完全保護での活動宣言!」
瞬く間に、ニュースサイトやSNSでトップトレンドとなり、様々な憶測や期待の声が飛び交った。
特に、キララチューブが「Kの代理人として違法動画に断固たる措置を講じる」と宣言したことは、大きな反響を呼んだ。それは、Kという才能を本気で守り、育てようという、キララチューブの強い意志の表れと受け止められたのだ。
そして、宣言通り、キララチューブは違法アップロード動画の削除をさらに徹底。数日後には、ネット上からKの流出動画はほぼ一掃された。代わりに、キララチューブのトップページには、Kの公式チャンネル開設を予告する、スタイリッシュなティザー映像が公開された。
その映像は、ほんの数十秒。銀色の髪をなびかせたKの後ろ姿と、「The legend begins soon…(伝説は、間もなく始まる…)」というミステリアスなメッセージ。そして、あの流出動画で世界を魅了した、Kの澄んだ歌声が一瞬だけ流れ、期待感を煽る。背景には、どこか異世界を思わせる、幻想的で美しい風景がCGで描かれていた(もちろん、それは暦の能力で作り出した「本物の」風景の片鱗だったが、誰も気づくはずもなかった)。
この一連の鮮やかな対応と、期待感を高めるプロモーションは、キララチューブの失墜しかけていた社会的信頼を、驚くべき速さで回復させつつあった。「事故をチャンスに変えた」「Kという才能を本気で守ろうとしている」という好意的な評価が、徐々に広がり始めていたのだ。
その頃、月島暦は、いつものように中学校の制服に身を包み、親友たちと笑い合いながら、春の陽だまりの中を歩いていた。
彼女のスマートフォンには、東雲からの「公式チャンネル、まもなくオープンです。最初のコンテンツ、何にしましょうか? Kさんのアイデア、聞かせてください」という、ワクワクするようなメッセージが届いていた。
暦の胸には、ほんの少しの緊張と、そしてそれを遥かに上回る、大きな期待が膨らんでいた。
自分だけの秘密だった「魔法」が、今、世界を舞台にした壮大な「エンターテイメント」へと変わろうとしている。
その最初のファンファーレが、今まさに、鳴り響こうとしていた。




