第十一話:秘密の契約と、最初の約束
暦の言葉は、静かなラウンジの中に、確かな重みをもって響いた。
「私のあらゆる秘密が、完全に守られることが絶対条件です。そして、その上で、私という存在の価値を正当に評価し、それに見合う対価を提示していただける場合に限ります」
東雲翔真は、目の前に座る「K」と名乗る少女――いや、その落ち着きと理路整然とした話しぶりは、もはや少女というよりも、一人の成熟した交渉相手と呼ぶべきかもしれない――の姿を、改めて見つめた。変装しているとはいえ、その瞳の奥に宿る強い意志と知性は隠しようもない。
(…とんでもない才能だ。そして、とんでもない覚悟だ)
東雲の背筋に、心地よい緊張感が走る。これは、生半可な気持ちでは太刀打ちできない相手だ。しかし、だからこそ、この才能を世に送り出す価値がある。
「Kさん、率直なお言葉、ありがとうございます」
東雲は、穏やかな笑みを崩さず、しかし真剣な眼差しで応じた。
「まず、Kさんの秘密の完全な保護。これは、キララチューブが社運を賭けてお約束いたします。契約書には、Kさんのプライバシーに関するあらゆる事項を網羅し、万が一の漏洩時のペナルティについても、Kさんがご納得いただける形で明記させていただきます。そして、それは私、東雲翔真個人の名誉にかけても、お守りすることをお誓い申し上げます」
その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
「次に、Kさんという存在の価値、そしてそれに見合う対価についてですが…」
東雲は、少しだけ間を置いた。
「率直に申し上げて、Kさんの才能は、我々の想像を遥かに超えています。その価値を、既存の枠組みで評価すること自体が難しい。しかし、だからこそ、我々はKさんに最高の条件をご提示したいと考えています」
彼は、鞄から数枚の書類を取り出し、テーブルの上に丁寧に並べた。
「こちらが、現時点で弊社がご提案できる、Kさんとの契約プランの骨子です。複数の選択肢をご用意いたしました。専属アーティスト契約、プロジェクト単位での業務委託契約、あるいは、Kさんご自身が代表となる新たなレーベルの設立支援という形も考えられます。それぞれのメリット、デメリット、そして報酬体系(固定報酬、成功報酬の割合、印税分配率、関連グッズのロイヤリティなど)を明記してあります。もちろん、これはあくまで叩き台です。Kさんのご意向を伺いながら、Kさんにとって最も有利で、かつモチベーションを高く維持していただける形を、一緒に作り上げていきたいと考えております」
書類には、驚くほど具体的な数字と、柔軟な選択肢が並んでいた。それは、キララチューブがKという才能を、いかに高く評価しているかの証左だった。
「そして、著作権についてですが、楽曲、映像、その他Kさんが創作される全てのコンテンツの著作権は、原則としてKさんご自身に帰属します。弊社は、その利用許諾を得る形で、Kさんの活動をサポートさせていただきます」
暦は、黙って書類に目を通した。その内容は、彼女の想像を遥かに超える好条件だった。特に、著作権が自分に帰属するという点は、彼女にとって非常に大きな意味を持っていた。それは、自分の「作品」に対するコントロールを、完全に自分の手に残せるということだからだ。
(…ここまでしてくれるなんて…)
正直、驚きを隠せない。しかし、暦は表情には出さず、冷静に言葉を続けた。
「…ありがとうございます。大変魅力的なご提案であることは理解いたしました。詳細については、持ち帰って検討させていただきます」
「もちろんです。ご納得いただけるまで、何度でもご説明、ご相談させていただきます」
東雲は、にこやかに頷いた。
それから約一時間、二人は具体的な契約内容の細部について、質疑応答を繰り返した。
暦の質問は、常に的確で、時には東雲ですら即答に窮するような鋭いものもあった。しかし、東雲は決してはぐらかすことなく、誠実に、そして時には法務担当者に電話で確認を取りながら、一つ一つの疑問に丁寧に答えていった。
そのやり取りを通じて、暦は、東雲翔真という人物に対する信頼を、さらに深めていった。この人なら、本当に自分の秘密を守り、自分の才能を正しく導いてくれるかもしれない。
「…最後に、一つだけ、個人的な質問をよろしいでしょうか」
交渉が一通り終わったところで、東雲が、少しだけ改まった口調で切り出した。
暦は、わずかに身構えた。
「…内容によりますが」
「Kさんは…なぜ、あのような素晴らしい音楽と映像を創り出せるのですか? そして、なぜ今まで、それを世に出そうとしなかったのですか?」
それは、東雲がずっと抱いていた、純粋な疑問だった。
暦は、少しの間、黙って窓の外の景色を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「…私にも、よく分からないんです。ただ、気がつくと、頭の中にメロディーが流れてきて…それを形にしないと、なんだか落ち着かなくて。誰かに見せるとか、有名になりたいとか、そういうことは、あまり考えたことがありませんでした。ただ、自分の中にあるものを、記録しておきたかっただけなんです」
その言葉には、嘘偽りのない、彼女の素直な気持ちが込められていた。
東雲は、その言葉を静かに受け止めた。
「…そうでしたか。貴重なお話、ありがとうございます」
彼は、それ以上深く詮索することはしなかった。それが、彼女の「秘密」の核心に触れることになると、直感的に理解したからだ。
別れ際、東雲は、暦に向かって、改めて深く頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました。Kさんのご連絡、心よりお待ちしております。そして、もし、もし我々と共に歩んでいただけるのでしたら…キララチューブの全てを賭けて、Kさんを世界の頂点へと導くことをお約束いたします」
その言葉は、もはやビジネスライクなものではなく、一人のクリエイターに対する、心からの敬意と熱意に満てていた。
暦は、小さく頷き、ラウンジを後にした。
その背中を見送りながら、東雲は、大きな仕事を成し遂げたような達成感と、そして、これから始まるであろう壮大な物語への期待に、胸を高鳴らせていた。
自室に戻った暦は、東雲から受け取った契約プランの骨子を、改めてじっくりと読み返した。
(…本当に、すごい条件だ…これなら、私の秘密も守られるかもしれないし、ちゃんと私の価値も認めてもらえそう…)
キララチューブとなら、何か新しいことができるかもしれない。そんな確かな手応えを感じていた。
なにしろ、暦には普通の人間にはない「アドバンテージ」がある。テレポート能力と瞬時の変装能力は、時間と場所の制約をほぼ無効化し、一人で二人分以上の活動量をこなすことを可能にする。並列処理思考は、学業と芸能活動、そして友人との交流といった複数のタスクを、それぞれ高いレベルで維持することを容易にする。
(学校生活がメインなのは変わらない。お仕事の方は…そうね、私にとっては、ある意味「遊び」の延長線上にあるのかもしれない。もちろん、真剣に取り組むけれど、この力があれば、きっと何とでもなるはず…)
そんな自信と、ほんの少しの油断が、暦の心の中に芽生え始めていた。それは、いずれ敏腕プロデューサーである東雲の慧眼によって、彼女の「普通ではない何か」が露見する遠因となるのかもしれないが、今の暦は知る由もなかった。
しかし、その一方で、暦の胸には、もう一つの大きな問題が重くのしかかっていた。
養父母の譲と佐和子のことだ。
この話を、二人にどう伝えればいいのだろうか。いや、そもそも伝えるべきなのだろうか。
自分の秘密の力のこと。動画が流出してしまったこと。そして、プロのアーティストとして活動するかもしれないということ。
それを知ったら、二人はどれほど心配するだろう。驚かせてしまうだろう。もしかしたら、悲しませてしまうかもしれない。
(お父さんもお母さんも、私が普通の中学生として、穏やかに暮らすことを望んでいるはず…こんな、とんでもない話…)
二人の優しい笑顔を思い浮かべるたびに、胸がチクリと痛んだ。
あの温かい日常を、自分のせいで壊したくない。心配をかけたくない。
(…もう少しだけ…もう少しだけ、このことは、私だけの秘密にしておこうかな…)
それは、養父母への深い愛情と、そして、まだ全てを打ち明ける勇気が持てない、暦の正直な気持ちだった。
キララチューブとの交渉は、秘密裏に進めるしかない。
幸い、東雲さんは、こちらのプライバシーを最大限に尊重すると言ってくれている。彼なら、きっと理解してくれるはずだ。
暦は、そっと契約書案を机の引き出しの奥にしまい込んだ。
それは、彼女が選んだ、もう一つの「秘密」。
輝かしい未来への扉と、大切な日常を守るための、切なくて、そしてちょっぴりずるい選択だったのかもしれない。




