第一話:春浅き日の、大パニックと小さな飛翔
肌を撫でる風に、まだ冬の名残が感じられる三月。暦の上ではもう春だというのに、マフラーが手放せない日が続いている。月島暦は、間もなく卒業式を迎える小学六年生。ピカピカだったランドセルも、今ではすっかり体に馴染み、その役目を終えようとしていた。
彼女が住むのは、古くからの住宅と新しい家々が程よく混在する郊外の街。月島家の庭には、養母の佐和子が丹精込めて育てているパンジーやビオラが、寒さに負けじと健気に色とりどりの花を咲かせている。暦は毎朝、その小さな花壇に「いってきます」と心の中で声をかけてから学校へ向かうのが、ささやかな習慣だった。
「暦、おはよう! 今日は一段と冷えるから、ほら、ちゃんとマフラー巻いていきなさいね」
リビングのドアを開けると、ふわりと甘いフレンチトーストの香りが鼻をくすぐる。佐和子がエプロン姿で、フライパンを軽快に振っていた。テーブルには、ほかほかと湯気を立てるミルクティーと、彩り豊かなフルーツサラダが並んでいる。
「おはよう、お母さん」
暦は少し眠そうな目をこすりながら、自分の席に着いた。向かいでは、新聞を広げていた養父の譲が、顔を上げてにっこりと微笑む。
「おはよう、暦。卒業式の練習、順調かい? 昨日は歌の練習で、暦のパート、すごく良かったって先生が褒めてたそうじゃないか」
「え、あ、うん…まあ、なんとか」
暦は頬を微かに赤らめ、俯いた。実は歌は得意な方だ。なぜか初めて歌う歌でも、すぐに音程もリズムも掴めてしまう。でも、それを大っぴらにするのは少し恥ずかしかった。
月島家に引き取られたのは、まだ幼い頃。それ以前の記憶は、まるで古い映画のフィルムのように途切れ途切れで、はっきりしない。けれど、譲と佐和子の温かい愛情は、暦にとって太陽のような存在だ。二人がいるから、毎日笑っていられる。
それでも、心の奥底に、小さな空洞があるような感覚が消えることはなかった。「自分は、みんなと何かが違うんじゃないか」。そんな漠然とした不安が、時折、胸をチクリと刺す。
それは、例えば体育の授業。逆上がりができなくて泣いている子がいる横で、暦は初めて挑戦したその日に、くるりと軽やかに回れてしまった。先生には「暦ちゃん、運動神経いいね!」と褒められたけれど、自分ではどうしてできたのか、さっぱり分からない。まるで、体が勝手に動いたみたいに。
今日も、学校へ向かう通学路で、その「何か」が、とんでもない形で顔を出した。
お気に入りの雑貨屋さんの前を通りかかった時、ショーウィンドウに飾られた、キラキラと輝く髪飾りに目が釘付けになった。それは、透き通るようなブルーの蝶をモチーフにしたもので、陽の光を浴びて幻想的にきらめいている。
(…この髪飾り、どこかで見たことがあるような気がする…古い洋書の挿絵に出てくる、秘密を抱えた伯爵令嬢がつけていたような…。もし私が彼女なら、きっと髪は月光を反射するようなプラチナブロンドで、瞳の色は夜の森のように深いグリーン。そして、誰も知らない隠し通路を通って、古い図書室で禁断の魔法書を読み解いているのかも…)
まるで自分が物語の主人公になったかのように、スリリングでミステリアスな妄想に心を遊ばせた、その瞬間だった。
「きゃっ!?」
思わず小さな悲鳴が口から飛び出た。ショーウィンドウのガラスに映る自分の姿が、明らかに異様だったからだ。
艶やかな黒髪のはずの自分の頭が、まるで月光そのものを溶かし込んだような、眩いばかりのプラチナブロンドに変わっていたのだ! しかも、肩までだった髪は、そのミステリアスな雰囲気にふさわしい、ゆるやかなウェーブを描いて腰のあたりまで伸びている!
「な、ななな、何これぇっ!?」
暦はパニックに陥り、思わず自分の髪を両手で掴んだ。指に絡まるのは、確かに自分の髪のはずなのに、いつもと違う、さらさらとした細い感触。そして、視界の端に映る、ありえないほど鮮やかなプラチナの色。
(ど、どうしよう! こんな頭で学校行けない! お母さんに何て言えばいいの!? 悪い魔法にかかったとか!?)
頭の中はぐるぐると大混乱。心臓は早鐘のようにドクドクと鳴り響き、顔からサッと血の気が引いていくのが分かった。
「も、元に戻ってよぉぉぉ! お願いだからっ!」
半ば泣きそうになりながら、目をぎゅっと瞑り、必死に念じる。まるで、壊れたおもちゃに言い聞かせるように。
恐る恐る、薄目を開けてガラスを見る。
そこには――いつもの黒髪の自分が、涙目で呆然と立ち尽くしていた。
「…………あれ?」
暦は自分の髪を何度も触り、引っ張ってみる。うん、いつもの黒髪だ。長さも普通。
(ゆ、夢…? いや、でも、さっきの感触は確かに…)
頬をつねってみる。痛い。現実だ。
心臓はまだバクバクと音を立てている。さっきの鮮烈な金髪のイメージが、目に焼き付いて離れない。
(き、気のせい…だよね? ちょっと疲れてるだけ、うん、きっとそう!)
無理やり自分に言い聞かせ、暦は逃げるようにその場を駆け出した。背後で、雑貨屋の店員さんが「あら、あの子どうしたのかしら?」と不思議そうに首を傾げている気配を感じながら。
小学校の教室は、卒業間近のそわそわした雰囲気と、ちょっぴりおセンチな空気が混じり合っていた。
暦は、朝の出来事が頭から離れず、授業中もずっと上の空だった。チャイムが鳴り、放課後になると、友達の誘いもそこそこに、一人で誰もいない場所を探した。
(確かめなきゃ…あれが本当に気のせいだったのか…)
向かったのは、普段あまり使われていない、校舎裏の古い体育倉庫の脇。ひんやりとしたコンクリートの壁が、暦の緊張感を高める。人気はなく、シンと静まり返っている。
ごくり、と唾を飲み込み、暦は震える手で、そっと自分の髪に触れた。
(もし、またなったらどうしよう…でも、もし本当に…私が…)
意を決して、朝と同じように、あの蝶の髪飾りと、それに似合うであろうフワフワの金髪を強くイメージする。
(…なってほしい、なんて思ってないからね! 確認するだけなんだからっ!)
心の中で必死に言い訳をしながら、おそるおそる、自分の影が落ちる地面に視線を落とす。
すると――黒いはずの自分の影の頭の部分が、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
まさか、と思って自分の髪に手をやると、指に絡みつくのは、やはりあのさらさらとした、羽のように軽い感触!
「ひゃああああああああああっ!!!!!」
本日二度目の、しかし今度は間違いなく現実を認識した上での絶叫が、人気のない校舎裏に甲高く響き渡った。慌てて両手で口を塞ぐが、もう遅い。自分の叫び声が、壁に反響して耳に返ってくる。
心臓が、まるで破裂しそうなくらい激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。
パニックで頭の中が真っ白になり、思考がぐちゃぐちゃに絡み合う。
(ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう! 本当になっちゃった! 私の髪、本当に! これ、元に戻るの!? 誰かに見られたら!? 絶対に変な目で見られる! 噂になる! もしかしたら…もっと大変なことに…!)
恐怖と混乱で、目の前がチカチカする。足元がぐらつくような感覚。
(まずい! まずい、まずい! ここ、校舎裏だけど、いつ誰が来るか分からない! 先生とか、他の生徒とか…! もし、見られたら...!)
思考がぐるぐると空回りし、焦りだけが募っていく。
(逃げなきゃ! 早く! どこか…どこか安全な場所に! 誰にも見つからない、ところにっ! 今すぐ! この瞬間、この場から、消え去りたいぃぃぃーーーーーっ!!!)
その、心の底からの、もはや祈りにも似た、切羽詰まった強い願いが、まるで何かの引き金を引いたかのように。
ぐるんっ!
世界が、一瞬にして反転した。
まるで強風に煽られた木の葉のように、暦の体がふわりと浮き上がり、視界が急速に回転する。何が起こったのか理解する間もなく、次の瞬間には、ドンッという軽い衝撃と共に、見慣れた自分の部屋の床に、尻餅をついていた。
目の前には、自分の勉強机。読みかけの漫画。そして、窓の外には、さっきまでいたはずの学校ではなく、いつもの月島家の庭が広がっている。
「…………………は?」
状況が全く飲み込めない。さっきまで学校にいたはずなのに。金髪パニックを起こしていたはずなのに。どうして自分の部屋に?
恐る恐る、自分の髪に触れてみる。
…金髪だ。まだ、あのフワフワの金髪のまま。
「え、え、え、えええええええええええええええええええっ!?」
三度目の絶叫は、もはや悲鳴に近い。
髪が金色になっただけでもパニックなのに、今度は瞬間移動(?)までしてしまったらしい。
(わ、私、どうなったの!? 頭がおかしくなったの!? いま、夢、見てるの!?)
混乱のあまり、暦は部屋の中を意味もなくウロウロと歩き回り始めた。その姿は、まるで檻の中の熊だ。
「お、お母さーん! …って、ダメよ! あ...頭がっ!」
助けを求めようとして、自分の今の姿を思い出して慌てて口を噤む。
しばらくの間、ベッドの上で「うー」「あー」と呻きながら転げ回っていた暦だったが、やがて、はっと我に返った。
(…と、とりあえず、この髪が元に戻らないと…なんとか、も、戻さない...と。そうじゃないと…!)
深呼吸を一つ、二つ。そして、半ばヤケクソ気味に、強く、強く念じた。
「黒髪に戻れーっ! いつもの私に、お願いだからなってっ!!!」
すると、まるで願いを聞き届けたかのように、金色の髪はスルスルと元の艶やかな黒髪へと戻っていった。
「…………はぁ、はぁ……」
ようやく元に戻った自分の姿を鏡で確認し、暦は全身の力が抜けたように、その場にへなへなと座り込んだ。
心臓はまだバクバクと暴れているし、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
(髪の色が変わって…それで、いきなり家に戻っていて…なんなの、これ…)
信じられない出来事の連続に、もはや何が何だか分からない。
ただ一つ確かなのは、自分の身に、とんでもない異変が起きているということ。
それは、まだほんの小さなざわめき。けれど、今日のこのとんでもない大パニックと、ありえない「小さな飛翔」は、暦の日常に、そして運命に、大きな、大きな波紋を投げかける、まさしくその始まりだったのだ。