旅に出ます
「カズ兄、あたし」
「ダメ」
カズ兄の部屋に入って、最初の一言を言ったところでダメといわれた。カズ兄はというとあたしのほうを向きもせず、自分の部屋においてあるかごのなかで毛づくろいをしているハムスターを延々と見続け、ぼへらーとしている。まったく、カズ兄の中であたしはハムスター以下なの?
「え、ちょっと、ねえ。ちょっとはあたしの話を聞いてくれてもいいんじゃないかなあって思うんだけど」
まだ何も言っていないのにダメなんていわれるのはとても心外だ。
「どうせヤヨイのことだから、あれだろ? チョコほしいとか、チップスほしいとか、クッキーほしいとか、そんな事言うだけだろ?」
「ち、ちがいますー! カズ兄ってばあたしのことなんだと思ってるのさ!」
全く失礼しちゃうな。ほんとに。
「あ、そー。ほしいって言うんだったらヤヨイにあげよーと思ってたんだけど、じゃあこのチョコチップクッキーはいらないってことでいいな。ほれー、ハム太郎、こっちのえーさはあーまいぞー」
「あ、ダメダメダメー! あたしが食べる!」
カズ兄が見せたチョコチップクッキーがハムスターの餌になってしまう前に、慌ててひったくって自分の口に入れる。
「……さっきいらないって言って癖に」
それとこれとは話は別なんですー。ああ、おいし。やっぱりお茶うけにはチョコチップクッキーだよね。
「ああ、おいしかったー。カズ兄、それじゃね」
「はいはい、そんじゃまたな」
ふぅ、クッキー食べれて満足満足……思いがけない幸運に心弾ませながら、カズ兄の部屋を後にする。
ってあれ? あたし、何かを忘れているような……? ああ!
「カズ兄! 忘れてた。あたしね、すごく言いたいことがあったんだよ!」
慌ててカズ兄の部屋に戻り、もう一度宣言をするあたし。あぶないあぶない、危うくクッキーの魅力にやられるところだった。
「ちぇっ……クッキーでごまかせたと思ったのに」
「カズ兄? 今なんか言った?」
「いやいや、何にもー?」
くぅ、絶対に何か言った気がするのに、なんて言ったかがわからない。ちょっと悔しい。
「それで、ヤヨイは何言いたかったんだ?」
ようやくハムスターから目をそらしてあたしのほうを向いてくれたカズ兄。
「あ、そうそう! それそれ!」
「どれどれ?」
額に手をあてて目をきょろきょろとさせて、おどけたようにカズ兄が茶化す。
「もう、途中で茶々を入れないでよ! 今からあたし大大大宣言するんだから!」
「はいはい、わかったから。さっさと言えよ」
「あのね、あたしね! 旅に出ます!」
「いってらっしゃい」
「ほら、よく言うじゃない。かわいい子には旅をさせよって。だからね、目に物を入れても痛くないかわいい妹を旅にださせるカズ兄としてはとても心配だと思うけど、そこはほら、身を切る思いで……って? あれ? 『いってらっしゃい』? 今なんか変な言葉が聞こえた気がするんだけど」
「へんなことは言ってないぞ、ただ単に言ってらっしゃいって言っただけだぞ」
「え゛」
あれ? あたしの中では、ここはカズ兄が『絶対にダメだ!』って言ってくれるタイミングだったはずなのに。何でカズ兄はこんなに淡々としているんだろう?
「何でそんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてんだ? 旅に出るんだろ? 頑張れ」
「あれ? あれ? カズ兄ってば心配じゃないの? この世の中には危険がいっぱいなんだよ。ほら、ことわざにもあったでしょ? 『渡る世間は鬼ばかり』って。だからここはカズ兄は引き止めなきゃいけないタイミングなんだよ。そこをあたしが必死に説得することで、カズ兄もようやく納得して、号泣しながらあたしを送り出すんだよ!」
「どこの三文芝居だよそれ……ちなみに本当のことわざは『渡る世間に鬼は無し』だからな。ドラマの見すぎだぞヤヨイ」
あ、あれ? 『渡る世間は鬼ばかり』ってあれ、ことわざじゃないの? うあ、なんだかだんだん恥ずかしくなってきちゃった。
「ヤヨイ、顔赤いぞ」
う、うるさいなあ……人の勘違いをねちねちと。
「カズ兄、それじゃあ、はい」
はいと言いながら、カズ兄に手を差し出す。
「何だこの手?」
「旅をするにはいろいろと物入りでしょ? だからほら、軍資金をあたしにちょっとだけください。あ、安心してね。海外まで旅立つつもりはないから。卒業した春休みって何かと暇じゃない。だからちょっと旅に出て人生経験をつまなきゃいけないと思うんだよ。そのための元手をちょっとだけ融資してよ。というか金よこせー」
最後の言葉をしゃべった瞬間、ぱしっ、と手をはたかれた。
「いたっ! カズ兄、何するのさ!? こんなにかわいい妹が平身低頭に頼んでるのに!」
「どこがだよ……平身低頭の使い方間違ってんぞ。俺にはかわいくない妹のために払うような金はない」
「かわいい妹に払うお金はあるってことだよね」
「かわいい? どこに?」
手を双眼鏡のようにして、カズ兄はまた目をきょろきょろする。ほんと失礼だ。
しつこく何度も手を差し出しても、毎回毎回手をはたかれて終わり。なかなか折れない。そろそろ根負けしてお金をくれてもいいのに。
「ほれ、しっしっ。自分で金を出せないようなら旅なんか出るな。お年玉やら小遣いやらをためてれば余裕だろ」
「何言ってるのカズ兄!? お年玉は使うためにあるんだよ! 1月に使い切ってしまったよ! そんなお金1円も残ってるわけないじゃない!」
全く、そんな常識を知らないなんて、カズ兄もぼけているんだから。
「自慢して言うな! ほれ、もう戻れ戻れ。お前なんぞにやる金はない」
「そこをなんとか」
「ダメ」
「もう一声」
「ダメ」
「清水の舞台から飛び跳ねる気持ちで」
「飛び降りろよ、そこは。でもダメ」
くぅ、カズ兄ってばここまで粘れば普段だったらいくらかくれるはずなのに、今日はなんて頑固なんだ。
「いいですよおだ。カズ兄なんて当てにしないんだから」
カズ兄に向かって捨て台詞をはいて、私はカズ兄の部屋を後にした……うーん……もうちょっと慌ててくれると思ったんだけどなあ。ほとんど慌てなかったなあ、なんか残念。もうちょっとドッキリするような発言をしなきゃ、カズ兄は心配してくれないかなあ……なんか、無いかなあ。
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全くヤヨイのやつはいつも突拍子のないことばっかり言うよな。がりがりと頭をかきながら、ヤヨイが出て行ったドアを見る。
来月から高校生になるんだから、もうちょっと落ち着きが出てもいいのになあと思うんだが。
ふぅ……なんかヤヨイをからかっていたら、ちょっとのどが渇いたな。ちょっと、お茶でも飲むか。
よっこらせと立ち上がり、2階からどたどたと階段を下りて、台所に行ってウーロン茶を取り出す。
バタッと冷蔵庫を閉じた時、ふと冷蔵庫に張ってある1枚の紙が目に入った。
これは……ヤヨイの文字だな。えっと……。
『旅に出ます、探してください』
「いや、それ違うだろ」
誰もいない中、つい紙に突っ込みを入れてしまった。
……ま、ほっといても夕飯の時間には帰ってくるだろ。
お茶を飲んだら、のども潤ったので部屋に戻った。ベッドに寝転びながら漫画を読みふけって、ちょうど1冊読み終わったころ、突然ガチャッとドアが開いた。
「カズ兄、探してよ!」
……おいヤヨイ、旅はどうした。