そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.9
集団生活を送るうえで、最低限守らなければならないルールとマナーがある。けれどもそのルールとマナーは、出身地域、生活環境、経済状況等によって大きく異なり、他の集団のそれと互換性のない、『ご当地ルール』なる規範も存在する。
この口論も、そんなご当地ルールに起因するものであった。
「だってゴヤ、さっき食べていいって言ったじゃないですか!」
「全部とは言ってないだろ! 一口くらいだと思ったから『いいよ』って言ったのに!」
「だから、私は一口しか食べてませんよ!」
「嘘つけ! 一口で無くなるはずないだろ! 謝れよ!」
「嫌です! 私、悪くないんですから!」
「いいや、お前が悪い!」
「どうしてそうなるんです!?」
「はあっ!? 何言ってんだよ! そのくらい常識的にわかるだろ!?」
「そっちこそ常識的な説明をしてくださいよ!」
「なんだと!? 何が何でも自分が悪いって認めない気か!?」
「それはゴヤだって同じでしょう!?」
「この……っ!」
「っ!」
先に手を挙げたのはゴヤだった。
レインの頬に極まる右ストレート。しかしレインはヒットの瞬間に体を液化し、打撃を無効化していた。
すかさず繰り出されるレインのカウンターアタック。だが、触手でゴヤを絡めとることはできない。レインは触手を鞭のように動かし、小刻みな攻撃を繰り返す。
戦闘時、ゴヤは無意識のうちに防御魔法を展開する。それは《鬼火》と同じ効果を持ち、死者に対しては一撃必殺の高破壊力呪文として作用する。では生きた人間相手には何が起こるかというと、一種の精神攻撃として作用してしまうのだ。それは短時間、軽い接触であれば無視できる程度の影響だ。しかし長時間の接触を行えば、ひどい焦燥感、虚脱感、絶望感などに苛まれ、戦闘続行が難しくなる。
変幻自在の不定形生物シーデビル。
霊的・精神的攻撃を得意とする特殊能力者。
どちらも攻防一体型能力であるがゆえに、なかなか決着がつかない。これは非常に難しい対戦カードだった。
「くらえっ!」
「この程度っ!」
「これならっ!」
「甘いんですよっ!」
仲間同士の『些細なケンカ』であることは自覚している。武器も魔法も用いず、互いの基本能力のみでぶつかり合う。
しかし、その基本能力が型破りな二人である。騒ぎを聞きつけて駆け付けた仲間たちも、どこからどうやって仲裁に入ればよいものか、判断に困って立ち尽くしてしまう。
そんなこんなで、ゴヤとレインが揉み合うこと十分少々。出先から戻ったグレナシンは、野次馬と化した隊員らに尋ねる。
「も~、なんなのよぉ~? あの子たち、今日は何が原因でじゃれ合ってるワケぇ?」
隊員同士の野良試合は日常茶飯事。問われたキールとハンクも、のんびりとした口調で答える。
「俺たちが聞いた限りでは、ゴヤの買ってきた菓子をレインが全部食ったとか、何とか……」
「一口のつもりで『いいよ』と答えたら、全部食べられてしまったそうです」
「あらま。そりゃあ怒るわよね。で? そのお菓子って?」
キールは「さあ?」と首をかしげたが、ハンクには心当たりがあったようだ。休憩用のソファーの上に放置された巨大な包装紙を指差し、ためらいがちに答える。
「おそらく、実物大のジャクソンシーバスチョコレートではないかと……」
「ジャクソンシーバス……って、ジャクソン湾の固有種のアレよね? スズキ目のでっかい魚?」
「はい、そうです」
「え? シーバスチョコレートってことは、まさかチョコレートに魚肉が……!?」
「あ、いえ、そうではなく、先月の釣り大会で塗り替えられたワールドレコードと同じ大きさと重量のチョコレートをオーダーできるというサービスで……何日か前に、チョコレート屋のチラシを持って大騒ぎしていましたから。間違いないと思います」
「それ、何センチで何キロよ?」
「150cm、34kg……だったと記憶しています」
「それを、レインが、全部食べちゃった……?」
「と、口論しているようでしたが……?」
「34kgのチョコレートを、一口で……?」
「少なくとも、我々にはそう聞こえました。なあ、キール?」
同意を求められたキールも、神妙な顔で頷く。
「間違いありません。『一口いいよ』と言ったのに、全部なくなった、という内容でした」
「……どうやって食べたのかしら……?」
三人の会話の間にも、ゴヤとレインは決着のつかない戦いを続けている。
一発目のパンチは液化することで無効化できたが、ゴヤの攻撃速度はレインを上回る。反応しきれなかったパンチは固体部分にヒットし、レインの体力を少しずつ奪っていた。
レインは体の液化と自在な変身、五メートル先にも届く器用な触手が売り。しかしそれは物陰からの奇襲、暗殺に適した能力であり、スピードもパワーも、他種族の平均値を下回る。面と向かってやりあう戦い方は向いていないのだ。
対するゴヤは、接近戦の技能を重点的に磨いたナイフ使い。徒手空拳の野良試合であっても、その拳速と体捌きは別格である。霊的能力による特殊防御を生かし、相手の間合いにぐいぐい入り込む。
得意の締め技を封じられるも、打撃の無効化はそれなりに通用しているレイン。
数発に一発しか有効打とならないため、地味に消耗しているゴヤ。
これは互いの長所を潰し合い、なおかつ短所も突けない対戦カードだった。だが、見ている側がどれだけ煮え切らない気持ちになろうとも、止めに入るには危険すぎる。異能者の戦いを仲裁するには、命を捨てるほどの覚悟が要求されるのだ。
「えーと……どうしようかしら? まあ、とりあえずあの二人は体力が尽きるまでやらせておくとして、その後のリカバリーよね。ちゃんと仲直りできないまんまじゃ、仕事しづらいものねえ?」
「それなら、俺は他の連中に連絡を入れておきます。現場を見ていない人間がどちらかに肩入れすると、話がややこしくなりますから」
「ん、お願いね、キール」
「では、俺はチョコレートのオーダー価格を調べてきます。金銭トラブルは尾を引くでしょうし」
「そうね。もう一個買い直すなら、それはレインに払ってもらいましょ」
キールとハンクは携帯端末を取り出し、揉み合う二人の声が入らぬよう、オフィス奥のミーティングルームに移動した。
サッと提案、即実行。
たいへん有能な部下たちの行動に、グレナシンは溜め息を吐く。
「……あの子たち、ホント頭いいわよねぇ……」
そう、キールとハンクは頭がいい。なぜなら彼らは知っているのだ。さっさと『自分の役割』を見つけてこの場を離脱してしまえば、もし喧嘩が激化しても、あの異能バトルの仲裁に入らず済むということを。
「んー……若い子の喧嘩って、どのあたりで止めればいいか、わっかんないのよねー……?」
ぼやいて頭をボリボリと。
ああ、自分もすっかりオジサンになってしまったものだなぁ、などと感傷に浸っていると、やはりその時が来た。
「もう! いい加減にしてください! ゴヤの馬鹿!」
先に『喧嘩のレベル』を超えてしまったのはレインだった。
レインが使ったのは《防壁》の魔法。これは物理防御用の魔法だが、すでにゼロ距離で掴み合い状態になっている場合、相手に直接《防壁》が当たることになる。その衝撃は非常に強く、鈍器で思い切り殴るのと変わらない。当たり所によっては致命傷を負ってしまう。
「がっ……!?」
ゼロ距離では避けようも防ぎようもない。ゴヤは腹部に打撃を受け、二歩ほど退く。
しかしゴヤのほうも頭に血が上っている。二歩目が接地した時には、魔法による反撃を開始していた。
「ひっ!?」
すべての触手を一斉に引っ込めるレイン。
ゴヤはこの時、《魔笛》という魔法を使っていた。《魔笛》は幻覚魔法の一種で、対象者に高音かつ大音量の幻聴を聞かせるものである。実際には何の音もしないが、脳が『大きな音を聞いている』と誤認している間、その他の音が一切聞こえなくなってしまう。そして甲高くて不快な音を聞いている間は、その他の事象への注意がおろそかになる。
対戦相手の足音も息遣いも聞こえない。戦うことに集中できない。
これはゴヤのような接近戦タイプにとって、最も使い勝手の良い幻覚魔法であった。
「もらった!」
「くっ……!」
しゃがみこんで一回転しながらの足払い。そして回転の勢いを殺すことなく足を振り上げ、体勢の崩れたレインに、強烈な踵落としを見舞う。
が、しかし。
相手は不定形生物・シーデビルである。通常の生物であれば致命傷となる頭への打撃も、実はそれほど効いていない。
「はああっ!」
「!?」
ゴヤの両側から一斉に打ち付けられる触手。これではゴヤは、右にも左にも避けられない。かといって、後方に飛び退るには態勢が悪い。レインは、あえて避けずに一発食らうことで、ゴヤが片足で着地する、最も不安定な一瞬を衝いたのだ。
「こんっのおおおぉぉぉーっ!」
「なんのおおおぉぉぉーっ!」
そしてゴヤとレインの戦いは、再び単純な『タコ殴り対決』へとなだれ込む。
「……ホント、止めるタイミングが難しいのよねぇ、この二人の喧嘩って……」
グレナシンのつぶやきは、当人たちには聞こえない。彼らは喧嘩に夢中で、その他の人間の存在など目に入っていないのだ。
だから彼らは、まだそれに気づいていない。
それは、はじめから休憩用ソファーの裏側に転がっていた。
「……ん?」
何かが動いたような気がして、グレナシンはソファーの奥を覗き込む。
するとどうだろう。
三頭の黒犬がそろって泡を吹き、痙攣しているではないか。
「ちょ……やだ! トニー! あんたもしかしてチョコレート食べたの!?」
イヌ科種族にチョコレートは有毒である。が、それを自覚している者はいない。なぜなら、イヌ科種族はただの犬ではなく、『犬の特徴を併せ持つ人類』だからだ。内臓機能もイヌよりはヒトに近く、チョコレートの入った菓子を普通に食べたくらいでは、何の問題も起こらない。
体に不調を来すのは、一度に多量のチョコレートを摂取した場合。ケルベロス族の成人男性であれば、500gを超えたあたりで麻痺や痙攣といった中毒症状が現れる。
しかし、多量のチョコレートを食べて体を壊すのは普通の人間も同様である。糖分の過剰摂取で急性糖尿病になってしまうし、そんな馬鹿な大食いチャレンジをする人間は、常識的に考えれば存在しない。もしもいたとしても、それで体を壊すのは自業自得というものだ。よって保健衛生省も、現状、これといった注意喚起を行っていない。
「んもぉ~っ! このおバカ! 自分がイヌ科種族だってことくらい自覚しときなさいよね! ほら! しっかりしなさい! お~い!」
グレナシンは黒犬を抱き起し、その口元を見て「あっ」と声を上げた。
口の端に付着していたのは、ミントチョコレートであった。
グレナシンはこの事態の原因を理解した。
レインは確かに『一口しか食べていない』のだろう。だから正直にそう言っているし、自分の言葉を疑われたことに対して、怒りを表明している。
そしてゴヤは『一口ならいいよ』と言ってその場を離れ、戻った時点でチョコレートが無くなっていることを確認した。その場にいたのがレイン一人なら、レインが食べてしまったと思うのも当然だ。
ゴヤとレインはトニーの存在に気づいていない。彼がいつからソファーの裏で昼寝中だったのかは定かでないが、二人が気付かないタイミングで目を覚まし、巨大なチョコレートの塊を発見、勢いに任せて完食してしまったに違いない。
チョコレートは犬には有害。しかもこれは、よりにもよってミントチョコレートだ。ミントは犬の肝機能に大ダメージを与える。いずれか一方ならば軽い体調不良程度で済んだのかもしれないが、両方を同時に摂取したトニーは泡を吹いて昏倒。そのまま誰にも気づかれることなく、ソファー裏に放置されていたようだ。
「……え? これ、アタシどっから突っ込んだらいいのかしら?」
よく確認もせずに殴り合っているゴヤとレインも大馬鹿者だが、それ以上に馬鹿な犬がいた。見たところ、命にかかわるほど重篤化してはいない。食べたモノを吐き出せば、すぐに回復するだろう。
グレナシンは黒犬の腹をぎゅうぎゅう押して、胃袋の中身を吐き出させる。
「っとに……どんだけ食い意地張ってんのよぉ、このおバカ犬……」
胃液と混ざった緑色のチョコレートを見て、どっと疲れが押し寄せた。
「うっわ~、身体に悪そうな色。どんだけ着色料使われてんのよ、コレ」
色もさることながら、なにしろ量がすごい。総重量34kgのチョコレートだ。分身して三頭がかりで食べたとしても、一頭につき、10kg以上食べた計算になる。さぞかし大量に吐き出すものと考え、後始末の心配をしていたのだが――。
「……あら? 変ね? これしか食べてないのかしら……?」
吐き出した量は、せいぜい数百グラム。どれだけ多く見積もったとしても、1kgには届かないだろう。残りの二頭も同じようなもので、これ以上はどれだけ叩いても、逆さ吊りにして振り回しても、何も出てくる気配がなかった。
「……ん? ということは、トニー以外の誰かも、一緒に食べていたのかしら……?」
そこまで考えて、グレナシンは思い出す。
この場にいるべき人物がいない。
今日の本部待機任務はゴヤとレインの二人。
トニーは午前中に中央市内での任務が入っていたが、今ここにいるということは、さっさと終わらせて戻っていたのだろう。
キールとハンクも、市内での任務を終え、戻ってきたところで二人の口論を目撃することになった。
さて、問題は残る一人だ。
その人物は夕方から地方任務の予定が入っているが、今この時間、まだ本部内にいることになっていて――。
「ねえ! ちょっと! ゴヤッチ! レイレイ! アンタたち、ロドニー見なかった!?」
ゴヤとレインは、殴り合いながらも律義に答える。
「見てねえッス!」
「見てません!」
そんなはずはない。
必ずどこかにいるはずだ。
ロドニー・ハドソンは人狼族。ケルベロス族のトニー同様、イヌ科種族に分類される。彼もミントチョコレートを食べたのだとしたら、本部内のどこかで昏倒している可能性がある。
「キール! ハンク! ちょっと来なさい! ロドニーがぶっ倒れてる可能性があるわ!」
この声に応えてミーティングルームから出てきたキールは、気まずい顔でこう言った。
「副隊長、ロドニーの端末につながりません」
「やっぱり……っ!」
キールとハンクも、倒れたトニーを見てロドニーの関与に気がついた。
トニーはお預けができないワンコではない。テーブルやソファーに置かれた菓子類を、勝手にガツガツ食べたりしないのだ。もしもトニーが『食べても良いもの』と判断したのなら、その場には、間違いなくロドニーがいたはずだ。
「念のため確認しておきたいんだけど、ロドニーがトニーの前でチョコレートをつまみ食いして、そのまま部屋を出ていったら……どうなるかしら?」
キールとハンクも考える。
イヌ科種族の食事ルールでは、目上の者が手を付けてからでないと、目下のものは食事を始められない。似たような慣習はその他の種族にも存在するが、イヌ科種族の場合、かなり極端にルールが運用される。
一例としては、一緒に食事するときのみならず、目下の者へのギフトでも似たようなことをするのだ。大きな肉や魚の場合、目上の者が自分の分を少しとりわけ、残りを目下の者に渡す。逆に目下の者からの贈り物は、目上の者が半分くらいを取り分けて、もう半分を送り主にそのまま返す。それがイヌ科種族の『食品ギフトのやり取り』である。
そしてその『返礼役』を務めるのは、目上の者から信任された弟分と決まっている。
「ひょっとしてトニーの奴、ここにあったチョコレートを、ロドニー宛の『食品ギフト』だと思ったのかな……?」
キールの声に、ハンクが頷く。
「そうかもしれない。この包装紙も、いかにもギフト用っぽいし……」
近年では、腐りやすい生魚の代わりに、魚の形の砂糖菓子を贈ることもある。
トニーがイヌ科種族の常識に照らし合わせて行動していたのなら、目上のロドニーが『自分の分を食べてその場を離れること』は、『返礼と仲間への分配はお前に任せた』という意思表示になってしまう。
三人は生ぬるい視線を交錯させ、ほとんど同時にため息を吐いた。
「フリーダムなオオカミ先輩と忠犬すぎるケルベロス後輩って、組み合わせ最悪じゃないかしら?」
「ロドニーの奴、けっこう説明不足なところがありますからね」
「しかし、そういうことであれば、残りのチョコレートは傷まないように、冷蔵庫かどこかに仕舞われているはずです」
「そうね。トニーがそれほど食べてないってことは、仲間の分も順番に切り分けられているでしょうし……」
イヌ科種族の食料分配ルールは単純明快。上が多くて下が少ない。トニーはイヌ科種族の掟には忠実な男であるため、全員分を均等に切り分けることはない。何があっても、絶対に、掟に従った分量で食べ物を取り分ける。
だがしかし、それでも忘れてはならない。ここに倒れている黒犬は『三頭』だ。掟に忠実な黒ワンコはルールの穴を突く小狡さを発揮し、分身して頭数を増やすことで、取り分を三倍にしたのだ。
「まったく、自業自得よね。欲張って人の三倍も食べようとするからこうなるのよ。このおバカ犬!」
気を失ったままのトニーの頭をパコンと叩き、グレナシンはゴヤとレインに目をやる。あちらはあちらで、もう何が原因であろうと喧嘩をやめる気はないようだ。幾度目かも分からぬ魔法での小競り合いを経て、結局、元の殴り合いに戻っている。
どちらも顔はボコボコ、髪はボサボサ。ゴヤはともかく、レインのほうは美形に分類される顔立ちなのだが、もはやイケメンのイの字もない。
「もぉホントに嫌ぁ~。レイレイが可愛くないぃ~……」
「あの、副隊長? ロドニーを捜しに行くべきでは……?」
控えめに尋ねるハンクに、グレナシンは肩をすくめてみせる。
「やあねえ。可愛い弟分がこれだけひどい目に遭ってるのよ? 心配性のお兄ちゃんが何もしていないと思う?」
「え? いえ、ですから、ロドニーもトニーと同様に……」
「あぁん! そっちじゃないわよ! ゴヤッチのほう!」
「ゴヤの……あ! なるほど! たしかに、そちらの『お兄ちゃん』でしたら……」
と、話している最中だった。
ノックもなしにオフィスの扉が開け放たれ、室内に何かが放り込まれた。
それは運搬しやすいよう、両腕を背中側で固定された成人男性で――。
「おい、ロドニー? 大丈夫か……?」
「息はあるよな……?」
乱暴に放り投げられ、床に転がったロドニー。グレナシンらの予想通り、彼は口から泡を吹いて気絶していた。
そしてロドニーをここまで連れてきた男、『情報部最強戦力』のシアンは、淡々とした口調で言い放つ。
「便所で吐かせてきた。中毒の心配はない」
「あら、じゃあ今気絶してるのは?」
「俺がシメた。ガル坊のおやつを無断で食った罰だ」
「ってことは、やっぱりロドニーが元凶なのね?」
「ああ、こいつが諸悪の根源だ」
「説明してもらえる?」
「ガル坊が魚型チョコレートを買ってきて、レインと一緒に一口ずつ食べた。それからガル坊が団長に呼び出され、間もなくレインも、事務方に呼ばれて出ていった。直後にロドニーが入ってきて、チョコレートを見つけてつまみ食い。ほぼ同時にトニーが目を覚まして、ロドニーに、『それはなんだ』と尋ねた。ロドニーは、『こんなデッケエの、どこで売ってんだろうな。うまいぜ。お前も食ってみろよ』と言った。トニーはその言葉で、そのチョコレートを『ロドニー宛に届いた贈り物』と判断したようだ。ロドニーがそのままオフィスを出ていったため、トニーは返礼役を任されたと思い、半分を返礼用、残りを隊員たちへの分配用に切り分けて冷蔵庫に仕舞った。チョコレートは九割方は残っている。じゃあな、セレン。ガル坊の手当てを頼んだぞ」
「はいは~い。言われなくても、ちゃ~んとお手当してあげるわよ~。ばいば~い」
グレナシンの雑な返事に、退室しかけていたシアンはくるりと振り向いた。
「いい加減な手当てだったら、お前の顔にも同じ傷をつけてやるからな?」
「分かってるわよ、このブラコン! さっさと帰んなさいよ! 情報部だって暇じゃないんでしょ!?」
「そっちこそ、飼い犬はきちんと躾けておけよ。余計な仕事を増やさないためにも」
「うっさいわね! これでも適宜やってんの!」
にらみ合う両名。しかし、アリジゴクとカラカルの目力対決はそう長く続かない。実際、二人は非常に忙しい。いくら過保護なお兄ちゃんといえども、年がら年中監視カメラを眺めているわけにはいかないのだ。
互いに大人げなく中指を立て、鼻を鳴らして背を向ける。
そしてこの頃になって、ようやく、ゴヤとレインの戦いにも終わりが見えてきた。
「いい加減にしろよ馬鹿! 今の聞こえてたろ!? 俺たち喧嘩してる意味ないじゃん!」
「そっちこそ、もう原因が私じゃないってわかったんですからやめてくださいよ!」
「はあっ!? レインが殴ってくるから応戦してるだけだろ!?」
「それはこっちのセリフです! 私だって、本当はゴヤと喧嘩なんかしたくありません!」
「俺だってそうだよ!」
「ゴヤ!」
「なに?!」
「好きです!」
「俺も!」
「やめましょう!」
「うん!」
二人は同時に攻撃をやめ、まったく同じタイミングで手を広げて進み出た。
「疑ってごめん!」
「感情的になってしまいました、ごめんなさい!」
「レイン!」
「なんです?」
「大好き!」
「私もです!」
そしてガシッと抱き合って、互いの背中をバンバンと乱暴に叩き合う。
彼らは体育会系なのだ。馬鹿がつくほど正直で、ストレートな感情表現しかできない。
こんなやり取りは見慣れているはずのキールとハンクも、あまりに熱い抱擁に溜息を吐いている。
「頼むから、人前ではやめてくれよ……」
「目のやり場に困る……」
彼らの性的嗜好がノーマルなのは分かっているのだが、あまりにも馬鹿正直に「好き」と叫ぶものだから、聞いているほうが恥ずかしくなってしまう。
グレナシンも、うんざりした顔で首を振っている。
「なぁんでうちの隊員って、どっか残念な子しかいないのかしら……」
なにはともあれ、これにて一件落着。
と、言いたいところなのだが。
「で? 夕方からのロドニーの任務、誰が代わりに行くのよ?」
空気が凍った。
ロドニーが単独指名される任務は、たいていが調停案件だ。人狼族の長の息子が間に入ることで、顔を合わせることすら拒絶している二者間に、話し合いの場を設けさせるのである。
前提条件が『人狼族の長の顔を立てて』ということなので、誰一人、代役が務まらない。無理にでも代役を立てるとしたら、王族のマルコか、女王の寵愛を一身に受けるベイカーしかいないのだが――。
「……マルコがこれ見たら、メチャクチャ怒るわよね……?」
ボロボロのゴヤとレイン。
散らかったオフィス。
泡を吹いた黒犬とオオカミ。
一同、無言で頷いた。
そして次の瞬間、全員そろって壁のスケジュール表に目をやる。
「今夜から明日の昼までは面会予約なし、と。問題は午後ね?」
「えーと、この式典だったら、騎士団の『エライヒト』なら誰でもいいやつッス。俺が団長の息子ってことで挨拶すれば、全然大丈夫ッス!」
「OK! 明日の深夜まで予定が空いたわ! キール! ハンク! マルコが帰ってくるまでにオフィスの中キレイにしておいて!」
「はい!」
「了解!」
「レインとゴヤは、ロドニーとトニーを連れて医務室に行ってらっしゃい! 制服も予備のほうに着替えて! いい? アンタたちはちょっとした口論しかしていない! 殴り合いなんてなかった! それで押し通せるくらい小綺麗にしてくんのよ!」
「ウッス!」
「行ってきます!」
「それじゃ、アタシは……」
グレナシンは軽く呼吸を整え、物騒に微笑んだ。
「隊長室に突撃よ……!」
集団生活を送るうえで、最低限守らなければならないルールとマナーがある。けれどもそのルールとマナーは、出身地域、生活環境、経済状況等によって大きく異なり、他の集団のそれと互換性のない、『ご当地ルール』なる規範も存在する。
この口論も、そんなご当地ルールに起因するものであった。
「予定変更!? 今から地方任務って……どうして俺が!?」
「どうもこうもないの! 変更と言ったら変更よ! ポール! アレックス! 全員分のスケジュールの微調整、お願いね!」
「はーい」
「かしこまりました」
「お、おい! 二人とも! なんで副隊長のほうに従うんだ!?」
「え? だって隊長、隊員のスケジュール管理は副隊長に丸投げじゃないですか」
「日頃から担当されている副隊長のほうがよくご存知ですから。副隊長が隊長を適任者と判断されたのでしたら、私はそれに従います」
「右に同じでーす」
「だ、だからって、そんな……っ!」
「はい隊長。ロドニー先輩に渡すはずだった列車の乗車券と、現地案内図と、ホテルの宿泊券と朝食クーポンです。どうぞ」
「こちらが偵察用ゴーレムと護衛用ゴーレムの呪符です。あとは呪詛除けの護符と、こちらが非常時に逃げ込めるセーフハウスの一覧。あ、最寄りの騎士団支部は上層部に汚職疑惑が出ているところですので、できるだけ近づかれないようお願い申し上げます。現在、情報部で内偵中とのことですので」
「い、いや、その、あの……お前たち……っ!?」
「いいですか、隊長。こういうの、自業自得っていうんですよ? 面倒臭いことを副隊長にばかり押し付けるから、いざというとき部下がついてこないんです。たまには反省してくださいね」
「うぅ、ポールが手厳しい……」
「ヘコんでないでさっさと支度してちょうだい! 隊長だって、マルコにバレたらヤバい事くらいわかるでしょ!?」
「あ、ああ……マルコの説教は長くて堅くて重いからな。並みの鈍器より、脳へのダメージがデカい……」
その後もブツブツと文句を言っていたベイカーだったが、結局、マルコに説教を食らうよりは地方任務のほうが数倍マシであると判断した。
最優先されるべきはマルコの説教回避――それは特務部隊員たちの共通認識であり、ほかの何よりも遵守すべき『ご当地ルール』である。
ベイカーは渋々旅支度を整え、トボトボと隊長室を後にした。
マルコ・ファレルは知らない。
彼が把握している特務部隊のドタバタ大騒動は、全体の一割にも満たないということを――。