明日も桜が咲くのなら_藤乃 未桜
春。
私の大好きな季節。
空気は優しいし、あったかいし、
桜が咲くから!
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「おい、チビ!お前、毎朝毎朝おっせーんだよっ。」
いつも通りの彼の大きな声。遅いのが嫌なら私なんか置いて先に行けばいいのに、それでも彼は毎朝こうして家の前で待っていてくれる。
「毎朝毎朝うるさいんだけど、俊輔ー。」
いらだつ彼に、私は毎朝同じ答えを返す。
「お前がいっつも遅いからだろっ。また結局遅刻しそーな時間じゃん!ほら、急ぐぞ。」
そう言って彼、沖野 俊輔は走り出す。そのあとを私も続く。
こうして彼の大きな背中を見ながら走ってると、身長の差を改めて感じる。俊輔は2学年の中でも身長はかなり高いほうで、175cmはとっくに超えていた。
そういう私は、自分で言いたくないけどかなりのチビ。150cmにぎりぎり1cm届いてない……。
でも、いいのっ。まだ成長期がきてないだけなのっ。
郵便局の手前にある角を曲がる。ここをずーっとまっすぐ走れば5分で学校に着く。
いつも通りの道。だけど今日は、明らかに昨日とはちがうとこがあった。
「ねえ、俊輔っ。桜!桜咲いてるよ!」
私が叫ぶと、俊輔も走りながら前方にある大きくて古い木を見上げた。
この小さな道の脇には、ちょっとした空き地がある。なんでこんなとこに植えられてるのかは知らないけど、とにかく本当に昔から、この空き地には大きな
桜の木がどしんと構えている。
「昨日はちょっと花が咲き始めただけだったのに、一晩でこんなにかわるんだねー。」
まだ少し緑が残ってるけど、昨日と比べると花の量の違いは一目瞭然だった。
「あの木は何年たってもかわらないよな。」
俊輔のつぶやきに答えようとして、荒い呼吸に阻まれた。酸素が足りない。そろそろ女の私の体力は限界だ。
そう思ったとき、急に俊輔が止まった。
「あーあっ。これはもう間に合わねえな。しょーがないから歩くかっ。」
そう言って俊輔はゆっくりと歩き出す。本当にゆっくりとしたスピードで。
私はちらっと自分の左手首にあるオレンジの腕時計を見る。 たしかに歩いては無理だけど、走れば十分間に合う時間だった。
気ぃ使って、くれたのかな。
私が疲れてるのに気づいて、止まってくれたんだろうな。
俊輔は昔からそういう奴だった。誰にでも優しいってわけじゃないけど、とりあえず幼なじみの私には優しくしてくれる。
昔から私が無理してることに1番最初に気づくのは俊輔だった。
でも俊輔は私が負けず嫌いの頑固者ってことを知ってるから、あえて何も言わずに自分のペースを落としてくれる。
そのたびに胸が優しく痛むようになったのはいつからだったんだろう。気づいたときにはもう遅かった。
「俺ら遅刻これで何回目ー?」
俊輔は自分のななめ後ろを歩く私をちらっと見た。その目を直視してしまってまた胸が高く鳴る。
「……24回目っ。」
緩む頬を抑えないで、思い切り笑った。ちらっと俊輔の横顔を見上げてみると、その顔も笑っていた。
俊輔はたぶん、私のことは幼なじみとしか思ってない。……下手したら妹かも。
だって私たちの毎日は、その……恋、っていうのには本当にかけ離れていて。
同じ剣道部の仲間。17年間ずっといっしょにいた幼なじみ。頼って頼られる兄弟。
ただそれだけ。それ以上も以下もない。
時々それが悲しくなるときもある。仲間でもなく、幼なじみでもなく、妹でもない「私」を見てほしくなる。
でも、私は幸せだった。
彼が笑って、それを見て私も笑って。俊輔の笑顔が好きだった。だから私も笑顔になれた。
だから、今はこのままでもいいのっ。
だってこんなに幸せな片想い、きっと今しかできない。
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「未桜は甘いっ!」
そう言って親友・理沙は、人差し指をびしっと私の顔の前に突き出してくる。
理沙とは中学も同じで、クラスは今年を含めて4年間いっしょ。もはや腐れ縁としか思えないなぁ。
今は10分間の休み時間。5分前まで受けていた数学の授業で爆睡していたせいか、あくびが止まらない。
「甘いって……。何が。」
私が低い声でたずねると、彼女はわざとらしく肩ごと腕を上げ、はあーっと大きなため息をついた。名づけて「あきれたポーズ」。
「あんたねえ、言っちゃ悪いけど沖野ってモテてんの。背ぇ高いし、性格もまあまあだし、顔もそれなりにいいし。」
そして睨むような目で私を見た。
「ついでに言うとあんたも意外にモテてんのっ。……あーもー、言ってるとイライラしてくるわっ!」
そう言って私の髪をわしゃわしゃと乱す。あわてて防御に徹しても、理沙の身長は165cm。つまり15cm差はある。
私を見下ろす彼女からの攻撃を防ぎきれるはずがなかった。
「やーめーろー!!」
私がそう言ったからか、もうこれ以上私の髪はぐしゃぐしゃにならないと判断したからか、理沙は手を止めてにっこりと微笑んだ。
だけどその目の冷たさは変わらない。
「とにかくね。あんたたちはお似合いなの。どう考えても仲良すぎるし、こっちから見たらさっさと付き合えって話よ。
なのにこのままでいいとか甘いこと言ってると、そのうちほんとに沖野がほかの子にとられるね、うん。」
自分で言って自分で納得し、最後にまたにっこりと笑ってこう言った。
「なんなら、すこーしだけ手伝ってあげても……」
「いい、1人で大丈夫。」
理沙が言い終える前に私は強くその言葉を遮った。こいつにやらせたらどうなるか、目に見えてる。
「はいはーい。余計な手出しはしませんよー。―――でもね、」
ちょうど理沙が言葉を区切ったところで、乾いた電子音が鳴った。もう授業が始まる時間だ。
そそくさと席に戻りながら理沙は言葉を続ける。
「好きなら好きって言えるうちに言っとかないと、後悔すんのは未桜だからね!」
理沙の言葉に答えられず、とりあえず席に着く。私が座ったのと国語の教師が教室のドアを開けたのはほぼ同時だった。
次は現国か。つまんないけど寝るのにはちょうどいいや。
起立、と男子の学級委員が声をかける。みんなが立つのに1テンポ遅れて私も立った。
お願いします、という学級委員の声の後に、半分くらいの生徒が小さな声で続く。私は言わないほうに分類される。
再び席に座って教科書をてきとうに開いてから、校庭を眺める。私の席は窓際の1番後ろ。よく日が当たっていて、けっこう気に入ってる席だった。
体育の授業がないのだろうか。今はだれもいない校庭。ただ春の暖かな日光が、校庭の砂を温めていた。
校門の横にある桜の木が風にゆれている。あの空き地にある大きな桜と違って、学校の桜の木は少し小さいし、まだ花よりも緑が多いように見えた。
毎年、あの大きな桜の木は、この辺のどこにある木よりも早く花を咲かす。
なぜかはわからないけど、あの木は毎年1番最初に満開になり、1番綺麗に花を咲かせる。
――――後悔すんのは未桜
理沙の言葉が、不意に頭に響く。
後悔する日なんて、ほんとに来るのかな。
彼の笑顔をずっと見てきた。そのたびに満ち足りた優しい気持ちになれた。
そしてそれは今もこうして当然のように続いてる。私はずっと幸せだった。
こんな日々を、後悔で終わらせることなんてあるの?
春はいつか終わる。どんなに私が好きな季節でも。
桜は咲いて、そして散る。どんなに綺麗に咲いても、結局は無様な姿を木の下にさらす。
私はいやな気持ちを振り払うために、頭を小さく横に振った。
彼の笑顔を見ていられれば、私は幸せ。
その笑顔が彼から消えることはきっとない。私が絶対に守る。
だから、――――私は幸せ。
今日も明日も。
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今日は午前授業で、しかも部活は休み。いつもは部活で遅くなるから明るいうちに帰るのは久々だった。
いつも一緒に帰る剣道部の女子グループと帰ってたけど、いつもどおりの交差点で私は抜ける。
この方面はわりと同じ歳の人が少ない。近所に住んでるのは俊輔だけだと思う。だからかなあ、昔から俊輔と仲良かったのは。
そんなことを考えてたら、あの桜の木が見えてきた。
「そーいえば……」
昔、もう死んじゃったおばあちゃんに、こんな話を聞いたことがある。
桜の花びらが地面に落ちる前に自分の手でキャッチできれば、その花びらが願いを叶えてくれる。
その話を信じてるわけじゃないけど、今の私は正直暇。
「……やってみますかっ。」
木の下にスクールバックを置き、制服のブレザーを脱いだ。やるからには絶対とる!
運動神経には結構自信があるし、今日は風も弱い。とるのに20分もかかんないでしょ。
――――のつもりだったんだけど。
「とれないし……。」
正直、こんなに難しいと思ってなかった。つまりは甘く見ていましたごめんなさい。
立ち止まって膝に手をつく。肺が必死に酸素を求めていて、自然と肩が大きく上下する。意外に飛んだり跳ねたり走ったりするから、体力の消費も激しい。
疲れた。正直、こんなのくだらないと思う。でも―――
私、無駄に負けず嫌いなんだよねー。
「もーちょっとがんばろ!」
膝から手を外して、大きく伸びをする。その時だった。後ろから声がしたのは。
「お前、いつまでやんだよー。」
「え、……俊輔?!」
後ろを振り向くと、制服姿の俊輔がいた。
「って、いつから見てたの?!」
私は急いでぐちゃぐちゃの髪を手で直す。なんか急に恥ずかしくなってきた。
「5分前から。」
そう言って彼はにやっと笑う。これはもうからかう気満々だ。
「見てるんなら声かけてよっ。」
「いや、見てておもしろかったもんでー。ただの花びら相手に、すかったりつまづいたり悔しがったり。」
あー、ほんとむかつくっ。私は思い切り俊輔を睨む。
「まあまあ、そう怒るなって。」
私の睨みに気づいて、俊輔は「お手上げ」と言うように小さく両手をあげた。それでも顔のにやつきは変わらない。
この顔だと、5分前っていうのはたぶん嘘だ。本当はもっと前から居たんだ、こいつっ。
「……このストーカーめっ。」
せめてもの抵抗。どうせ俊輔のことだから、うまく言い逃れるんだろうけど。
そう思ったのに、俊輔の答えは予想外のものだった。
「……はいはい、悪かったねストーカーで。じゃあもうちょっと見させてもらいましょーかねー。」
そう言うと、彼は空き地の塀に背を預けて地面に座った。
「って、ストーカーは否定したほうがいいと思いますけど。」
私がつっこむと、俊輔は目を細めて笑った。そんな彼の仕草にどきっとする自分がちょっと悔しい。
「ばーか。俺が未桜のストーカーなんかになるわけないだろっ。」
前言撤回。やっぱこいつむかつく。
「あー、もう!黙って見てろっ。桜の花びらぐらい、すぐにキャッチしてみせるんだから!」
そう言って俊輔に背を向け、もう1度作業に集中する。さっきまであんなに疲れてたのに、もうほとんど回復していた。
闇雲に動き回っても疲れるだけ。追いかけても翻弄されるだけ。それなら、1つに狙いを定めて。追いかけるのではなく待ち受ける。
私は桜の木をじっと見上げた。枝の先で風に揺られる1片を見つける。
ゆらゆらとゆれる花びらは、今にも枝から巣立っていきそうだった。心の中で小さく数を数える。
1
2
3―――
風が一瞬、ほんのわずかだけ強く吹く。花びらは抵抗することなく風に流された。落ちないように必死に抵抗しても、その身は重力に逆らえず、ゆっくりと地面へ向かっていく。
きた、心の中でつぶやく。花びらは思ったとおりの軌道を描いて私の広げた手の中に誘い込まれていく。
もう少し、と思ったところでまた微かに風が吹いた。
薄いピンク色は私の手の少し上を横切る。
「……っ。」
反射的に後ろに体重をかけてジャンプした。左手に小さな小さな重みが伝わる。そのまま手を閉じた。やった、とつぶやく。
その瞬間、体が後ろ向きに重力を受けるのを感じて、思わず短い悲鳴を上げた。
「ひゃ……っ」
あ、これやばい。頭打つかも。
と思ってももう遅い。受身なんか心得てないし、どうすることもできない。衝撃を覚悟して目を閉じた。
――――でも。
「お前、あぶないだろ!」
衝撃の代わりに感じたのは、支えられたものの温もりと、俊輔の声だった。
「あ……。」
どうやら見学していた俊輔が助けてくれたらしい。ちびな私はその大きな腕に強く支えられていた。当然のように鼓動が早くなる。
小学生の時は身長も同じくらいで、私より俊輔の方がちょっと足が速いだけだったのに。スポーツだって同じくらいのレベルでやってたのに。
中学生になって、成長期の真っ只中な俊輔はとっくに私に大差をつけ、学年でも背がかなり高い方の部類に入ってしまった。運動能力も女の私とは比べ物にならない。
高校になった今では、もう当然のように私は男の俊輔に劣っている。
わかっていたはずなのに、こうやって支えられるとそれを本当に実感する。
変わっていくんだ、人は。時間という経験を積んで。
こんな時間も、きっといつか変わっちゃうんだ。
そんなことを考えながら顔を上げると、ちょうど俊輔とばっちり目が合った。
――――うわ、何この少女マンガみたいな体勢っ!
その瞳に映る自分の姿を見てやっと意識が現実に戻る。
「ご……っ、ごめん!」
無理に起き上がろうとして、また体勢を崩す。今度は俊輔の手も間に合わず、硬い地面に思い切り尻餅をつくことになった。
「いったぁ……。」
「お前、バカ?」
そう言って笑いながら、俊輔は私に手を差しだす。なんとなくそのままその手に頼るのが恥ずかしくて、私はその手には頼らずに自分で立ち上がった。
そんな私の態度に、俊輔はいぶかしげな目を向けてくる。
ああ、もう!何意識してんの、私っ。
あたふたしている私を見て呆れたのか、俊輔は深くため息をついてから言った。
「で?桜は?」
「あ!」
思い出して、固く握ったままの左手を自分の顔の前にもってくる。
胸がどきどきと鳴り始める。小さいころにやった、宝探しゲームを思い出す。あの時もこんな気持ちだった。
だけど、なぜか同時に不安でもあった。本当にこの手の中を見ていいのか。なぜか私は迷っていた。
変わるわけない。こんな小さなことで。
今まであたりまえだった日常が、変わるわけない。
どきどきしながら左手を開く。
そこにはたしかに、1枚の小さなピンク色があった。
その薄い桃色はとても優しい色で、小さな花びらは自己主張することなく私の大きな手に乗っていた。
ただ、それだけ。
それだけ、なのに――――
「なん、で……?」
まず口から自然に出た言葉がそれだった。
信じられない。こんなこと、あるわけない。
なのに、どうして否定できないの―――。
膝に力が入らない。ぺたん、とその場に座り込んだ。
俊輔が心配そうに、俯く私の顔を覗き込んでくる。でも、彼を安心させる言葉は何も出てこなかった。
変わってしまう。
変わっていく。
人も。心も。
そして私も――――。
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それは、ただの「予感」だった。
それ以下でも以上でもない。
今日はいいlことがあるかもとか、あの人に関わったらろくな目にあわないかもみたいな、本当に些細な予感。
なのに、どうして。
どうしてこんなにも鮮明で、ただの予感だと思わせてくれないんだろう。
4月20日、3日後の夕方。
私は車に轢かれて、死ぬ。
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部屋に入ってすぐ、ベットに倒れこむ。本当は制服を脱ぎたいとこだけど今はそれさえもめんどくさい。
とにかく疲労感が体中を満たしていて、もう立っていたくなかった。
あのあと心配そうな俊輔をなんとかごまかして、いや、たぶんごまかしきれてないけど。
とにかく何も考えたくなくて、足早に家に帰った。
だって、意味わかんない。
「なんで私が死ぬの……?」
口に出した瞬間、後悔した。信じたくなかった現実を改めて実感する。
予感。そう、ただの予感。
こんなので不安になるなんてばからしい。
でも――――
きっと私は、死ぬ。
涙が零れそうになる。
でも泣いたら、この予感を否定する手段が本当になくなる。
泣くな。私は死なない。
死にたく、ない――――。
「おい、未桜ー。」
どんどんとドアを乱暴にノックする音で起き上がる。優人だ。
「な……何?!着替えてるから入ってこないでよ!」
着替えてはないけど、いまの顔を見られるのはまずい。あわててついた嘘だったけど、どうやら優人は信じてくれたらしい。
「お前の汚い部屋なんか入んねえよっ。それより晩飯は?!」
「え、いま何時?」
机の上にある時計を見ると、もう7時。いつもならとっくに調理を始めてる時間だった。
「あー…、ごめん。いまからやるからっ。」
「はいはい。洗濯はしといたから。」
その声がだんだん遠ざかったのと、階段を乱暴に降りる音で、優人が1階に戻っていったのがわかった。夕食ができるまでいつもどおりテレビでも見るつもりなんだろう。
私は1回深呼吸をしてから制服を脱いで、動きやすい部屋着に着替えた。部屋を出る前に鏡を見て、いつも通りの顔か確認する。
大丈夫。ご飯、がんばってつくろう。
そう心の中でつぶやいて、私は部屋のドアをあけた。
優人の前で、情けない顔は見せられない。
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とん、とん、とん……
リズムよくトマトを切っていく。小さいころからやってきた料理は、今では体に染み付いてる。
もう時間もないし、今日の夕食は簡単に作れるオムライスとサラダにした。
後ろからは騒がしいテレビの音。たぶん毎週見てるお笑い番組だと思う。テレビからは笑い声が絶えないのに、優人は全く笑わない。
ちょっと音大きいな、と思って注意しようとしたけど、やめた。なんとなく進んで話す気分ではなかった。
優人は今年中3になった弟で、この無駄に広い家に住んでるたった1人の家族。
私がまだ12歳で、優人が9歳だったとき、お母さんが死んだ。元々体が弱かったらしく、子どもを2人も生むのはその体には大きすぎる負担だった。
お母さんが死んだとき、私は自分に誓った。お母さんの代わりにお父さんと優人を支えるって。
それから少しずつお父さんに家事を教えてもらった。1年かけてやっと人並みに家事ができるようになって、これからは本当に2人を支えられるんだと思った。
お母さんが死んだ2年後だった。お父さんが、死んだのは。
お金のことは心配ないと言われてたけど、子ども2人で生きていくのは心細すぎた。しばらくほとんどものが食べられない日が続いて、私は心身ともに弱りきっていた。
千切ったレタスときゅうり、トマトを皿にいれる。それから缶詰からだしたツナも加えた。
なんかいつもより少ない気がするけど、まあいっか。
次はオムライス。冷蔵庫からハムを取り出してそれを包丁で切っていく。
――――その時、何も言わずに私のそばについててくれたのが優人だった。
優人は私が落ち込んでいる間、見よう見まねで洗濯や掃除の家事をやってくれた。優人も私と同じで、不安なはずなのに。
優人は頼りない姉と2人で生きていく決心をしたんだと思う。その証拠に、お父さんが死んでから私を「姉」と呼ばなくなった。料理以外の家事をやるようになった。
そんな弟の姿を見て私は立ち直ることができた。優人の姿を見て、私も2人で生きていく決心ができたんだ。
それから私たちはずっと2人で生きてきた。
ぴた、と包丁を握る手が止まった。
―――じゃあ、私が死んだら?
いままでは2人で生きてきた。お互いが、唯一残されたたった1人の家族。
それさえもいなくなったら―――どれだけ寂しいんだろう。
また涙が零れそうになる。
泣くな。泣いちゃだめだ。
私は姉なんだから。しっかりしなきゃいけない。
とにかく今は料理に集中しよう。考えることは優人がいないあいだにすればいい。
でも結局この日の夕食は、散々なものになった。
オムライスのチキンライスにはハム以外の具を入れ忘れて、サラダのドレッシングが切れてることも忘れてた。
優人は文句を言いながらも食べてくれたけど、やっぱり私の様子がおかしいことに気づいてるみたいだった。
でも特に何も言おうとしないのが優人の優しさで、変わろうとしている世界の中でも優人は優人なんだと感じて、少し安心した。
変わらないものは、きっとここにある。そう信じたい。
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今年もあの桜の木に、小さな花がたくさん咲いた。
俊輔。覚えてますか。
私にとってあの桜の木が特別になった理由。
お父さんの死を、乗り越えられた理由。
あれはちょうど、花も死んでいってしまう時期だった。
どんなに綺麗に咲いても、結局は散ってしまうと。終わりは必ず訪れると。
幼かった私はまちがった形で覚えてしまった。
生きるのはくだらないと、思ってしまっていた。
でも、私は救われたよ。
俊輔。覚えていますか。
あの、約束を。
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意識がだんだん、現実に戻っていく。
戻りたくない。このまま眠っていたい。
それでも、もう目は覚めてしまっていた。
あれから3日たった。今日は4月20日。
―――その朝は、いつもどおりやってきた。
「ごめん、優人っ。寝坊したー!」
そう言いながらリビングのドアを開けると、優人はソファーに座ってゲームをしていた。
時間はもう午前9時。藤乃家のルールを今年初めて破ってしまった。
休日でも平日でも必ず朝7時には起きる。それが昔からの藤乃家のルール。
優人はびっくりするくらい目覚めが悪いから、このルールを破るのはしょっちゅうだ。でも私はほとんど破ったことがなかった。
なのに今日破ってしまったのは、やっぱり昨日寝れなかったからなんだろうなあ。
「別にいんじゃねーの。とりあえず腹減った〜。朝飯はもーいいから、昼飯多めにつくって。」
「わかった。いまから作るから、ちょっと待って。」
キッチンに入り、かけてあるエプロンを着た。少し前かがみになって背中のヒモを結ぶ。
このキッチンからはリビングが見えるようになっている。ゲームに熱中する優人の背中が見えて、胸がずきんと鈍く痛んだ。
この3日間のあいだに、この死の予感はだんだん鮮明なものになっていっていた。
最初は今日の夕方ということしかわからなかったのに、いまは詳しい時間までわかる。
今日の午後4時30分、私は死ぬ。それはもう、きっと決まっていることなんだと思う。
見たわけじゃないし、聞いたわけじゃない。ただ感じただけ。
でもわかる。私が死ぬときの、真っ赤な夕日の色が。見てないのに、まぶたの裏に張り付いて離れない。
もう1度、優人の背中を見る。
優人も最近背が伸びてきた。お母さんがいなくなって落ち込んでいた優人の面影はもうない。彼はもう1人で堂々と立っている。自分の足で、自分の意思で。
優人はもう十分に大人だった。
だけどその代わり、彼は我慢することをまちがえて覚えた。自分の感情を押し殺すこと。それが彼にとっての我慢。
優人は不器用で、自分の感情を使い分けることが苦手。周りからは無愛想と言われることが多かった。
――――私が、今優人にしてあげられることはなんだろう。
でも、私は知ってる。優人は不器用なだけで誰よりも優しいってこと。優しいからこそ自分を押し殺してしまうこと。
そんな彼に、私は何をしてあげられるんだろう。姉として。たった1人の家族として。何を残せるんだろう。
「優人。」
その名前を、呼ぶ。いつもなら背中を向けたまま答えるのに、今日はわざわざゲームを中断してこっちを見た。
やっぱり、私の様子が変だってことくらい気づいてるんだろうなあ。
そんなことを思いながら、無言でこっちを見続ける優人に提案をしてみる。
「ねえ、料理してみない?」
優人は洗濯と掃除はするけど料理だけはやらなかった。やらせなかった、とも言えるかもしれない。
いつも優人は1人で無理をする。誰にも頼らないで生きていこうとする。
だから料理だけは教えなかった。ほかのことは私じゃ頼りないと思うけど、それくらいは姉として、彼を支えたい。
だけど、それももう終わり。こんな些細なことも、私はもうできなくなる。
「なんでだよ。料理は未桜の担当だろ。」
優人の声は不機嫌そうだった。
でも、そんなのは関係ない。私は問答無用で予備のエプロンを優人に投げる。
「ほら、早く!お腹減ったんでしょー?」
優人がくるまでに冷蔵庫を開け、メニューを考える。
牛肉が少しと、野菜がけっこう余ってる。時間はかかってもいいから、初心者でもおぼえられて割と簡単につくれるもの……。
「何作るんだよ。悪いけど俺、料理なんて全くしたことないからなっ。」
ぶつぶつ言いながらも、きちんとエプロンを着て手を洗っている。
まあ、基本的に器用な奴だし、たぶんこれくらいなら作れるでしょ。
「……カレーとサラダ!それならたぶん作れるでしょ?」
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優人は普段、何でも器用にこなしてしまう奴だった。
だから、料理もいい線いくと思ったんだけど……
「ねえ優人。まだじゃがいも終わんない?」
使うじゃがいもは4個。私のほうが慣れてるし、優人には1個だけ皮を剥いてもらうことにした。
「うっせえなっ。今、集中、してん…の!」
最初に教えるって言ったのに、優人は私の言葉を「家庭科で習ったから」と言って断った。断るんだからそれなりに包丁は扱えるのかと期待したけど、どうやらそれはただの意地だったらしい。
優人の手の中にあるじゃがいもには、優人の奮闘の跡が残っていた。深くへこんでいると思えば皮が筋のように残っていて、まさにでこぼこだった。
右手で持った包丁も、さっきから危なっかしい動きを何度もしてる。いつ手を切るんだろうと緊張の連続だ。
あ、ほら。今のはかなり危なかった。勢いのついた包丁をかわせたのは、優人の運動神経のよさの賜物かもしれない。
「……優人ー?私、血の入ったカレーは食べたくないなぁ。」
「…………。」
そのカレーが出来上がってしまう可能性を自分でも感じていたのか、優人は何も言わずに包丁を慎重に進める。
まったく。変なとこでまじめで、頑固な奴。
心の中で笑いの混じったため息をつく。それから優人の背後にまわった。
「ほら、手ぇ貸して。」
優人の手の上からじゃがいもと包丁を握る。後ろから抱きしめてるカンジになっちゃうけど、まあ兄弟だし。これならもうちょっとスムーズに料理も進む。
そのまま優人の右手ごと動かそうとする。
「あのー。そんなに硬くなられるとできないんだけど。」
私が手に触れた瞬間、優人はがちがちに固まってしまった。人にこんなに近寄られたら、緊張するのも当たり前かなー。
優人は力を抜いてくれそうもないので、私も少し力を入れて、でも丁寧に手を動かす。
「いい?優人は包丁を動かしてるだけなの。こういうのは切るものを動かさなきゃだめ。無駄に包丁を動かすから、でこぼこになんの。」
私の言葉に頷く余裕はできたみたいだった。無言で頷きながら少しずつ自分でも手を動かす。
とりあえず残っていた皮は剥けた。ぱっと手と背中を離し、残ったにんじんを洗う。
「はい、じゃあ次はおんなじ要領でこれやって。」
洗ったにんじんを渡すと、 優人はその皮を丁寧に剥き始めた。まだ動きはかなりぎこちないけど、さっきよりはぜんぜんマシ。
とりあえず血生臭いカレーはできないかな、と苦笑する。
優人がにんじんと格闘しているあいだにまな板と包丁をもう1組出す。3つのじゃがいもを適当な大きさに切っていき、切ったものは水を張ったボウルに入れる。
残っていたたまねぎの皮も取っておこう。
「できた。」
その作業が終わったと同時に、優人も皮を剥き終えたみたいだった。その声には少しだけ自信も混じっているように聞こえた。
その手にあるにんじんを見てみるとその自信も納得できた。身はかなり少なくなってるけど、さっきのじゃがいもと比べれば天と地の差だった。
「ん、優人にしては上出来。」
私の言葉に反論できないからか、優人は何も言わずに睨んできた。その瞳を完璧にシカトする。
「じゃあ次、じゃがいも切るよー。」
にっこりと微笑む。優人は再び訪れた試練に、顔をしかめた。
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「うん、とりあえず血の味はしないし、合格!」
「そりゃどーも。」
優人はそっけなく答えるけどいつもより食べるペースが速い。やっぱ自分で作った料理って、それだけで嬉しいんだと思う。
たしかにカレーは成功だった。ちょっと具が崩れちゃったけど、まあたいした問題じゃない。初めてにしては上出来。
「……これで優人も、料理ができるようになったかあ。」
カレーを見つめてつぶやいた。言ってはいけないことだったと思い、あわててカレーを口に運ぶ。
優人は何も言わずにカレーを食べ続け、部屋に響くのは皿とスプーンが合わさる乾いた音だけになる。
弟が初めて作った料理。慣れない手つきで包丁を握る大きな手が、優人の成長を表していた。
味はたしかにとびきりおいしいというわけではない。
でも、私は心の底から幸せを感じていた。
一口食べるたびに胸の奥が暖かくなるような感覚。その暖かさが、私に独りじゃないと告げている。
私は優人にこんな暖かさをあげられたのかな。支えたいと思っていた弟の心を、安心で満たしてあげることができたの?
優人には聞かない。……聞けない。
でも、過ごしてきた年月は決して不幸せなんかじゃなかった。私はそれだけは胸を張って言えるよ。
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「じゃ、私部活行くかんねー。」
家を出る前にリビングに寄ってみる。相変わらず優人はゲームをやっていた。
「…………。」
いつもならどんなにゲームに夢中になっていても短い返事くらいはするのに、今日は何も言わない。テレビを見ていてこっちに背中を向けているから、その表情も伺えなかった。
―――こうやって話すのも、最後だ。
私は死ぬ。頭が、心が、直感が、逃れられない運命だと悟っている。なんでかはわからない。でも、私は私が今日死ぬことを当然だと思っている。
「優人っ。」
だから、残したいと思った。たった1人の家族に。これから1人になってしまう彼に。
「料理。ずっと私がやってきたけど、これからは自分でやんなさい。」
その背中に語りかける。
「これからね、優人にはまだ辛いことがいっぱい残ってると思う。でも、優人はちゃんと乗り越えられる人だから。」
優人は強い。いっしょに生きてきたからわかる。優人ならきっと、この悲しみも乗り越えてくれる。
「だから――――」
あんたを1人にしてしまうけど、決して独りではないから。
だから、幸せになって。
優しくて不器用な優人と、家族になれてよかった。
「………っ。」
心の中の言葉は口から出てこない。替わりに嗚咽が零れそうになって、結局何も言えない。
ふとテレビ画面を見てみると、そこには「GAME OVER」と表示されていた。その両手もゲームのコントローラーから離れている。それでも、優人は何も言わずに背を向けたままだった。
真っ白な沈黙が流れる。このまま何も話さなければ変わらないですむかもしれない。そんなことを思わせる、沈黙。
でも、ここで幻想に甘えちゃだめだ。 私は優人の姉。ずっと強いお姉ちゃんとしてすごしてきた。なら、最後までそんな存在で在りたい。
すうっと息を吸い込み、目を閉じる。
さあ、行こう。―――もう迷わない。
願った笑顔は、意外なほどあっさりと出てきた。
「……行ってくるっ。」
床に置いてあった荷物を引っ掴み、小走りで玄関に向かう。履き古したスニーカーを引っ掛け、重い扉を開けた。
「―――みおっ!」
扉が閉まる直前、私を呼ぶ声が聞こえた。
でも、振り返らない。
私が迷ってたら、きっと優人は前に進めないから。
ただ、―――さよなら。
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練習は顧問の都合で3時から。土曜日にしてはかなり遅い時間だった。でも正直行く気分じゃない。
死ぬのはもう怖くない。だって死は、こんなにも近くにあった。いまもその手が私の首筋をなぞっている。
もう少しだ、と囁く。
「……どこに行こう。」
口に出してみたけど、もう答えは決まっていた。
桜。桜を見に行こう。それからあの約束を想い返そう。
ねえ、俊輔―――?
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寒い。頭が痛い。吐き気がする。震えが止まらない……。
かぶっている毛布をもう1度顔まで引っ張る。もう冬は終わったのに、なんでこんなに寒いんだろう。
カーテンの隙間から太陽の光が覗いている。 閉めたはずなのにいつのまに隙間があいてたんだろう。閉めたい。でも、あの光に近寄りたくない。
かわりに目をぎゅっと瞑った。見たくないから。見なくてすむように。
カチ、カチ、カチ、カチ―――
響くのは時計の乾いた音だけ。息を潜めてるからか、自分の心臓の音さえ聞こえない。いや、もう私は死んでいるのかもしれない。それなら心臓の音がしないのは当然だ。
この4日間何も食べていない。そのせいか、体が自分のものとは思えないほど重かった。もしかしたらいつの間にか餓死したのかも、なんて考える。
でも、怖くはなかった。悲しくもない。だって、人はいつかは必ず死ぬ。どんなに頑張って生きても、最後にはすべてなくなる。それなら、今こうして息をするのも無駄だと思う。
いつかは必ず消える。その証拠にお父さんは1週間前にいなくなった。お母さんだってずっと前からいない。すべて消えてしまった。私と優人だけを残して。
――――寒い。震えがとまらない。
どうしてみんな気がつかないんだろう。全部無駄なのに。無意味なのに。どんなにがんばっても、いつか死ぬときにそれは全部消えるのに。
――――頭が痛い。割れてしまうんじゃないかと思うほど痛い。
もう全部消えちゃえ。全部無駄なんだから。どうせ消えるなら今でも何十年後でも同じこと。
――――吐くものもないのに吐き気がする。吐いてしまいたい。そしてそのまま、死にたい。
感情が暴走する。精神が腐っていく。暗く、黒く、心が染まっていく。
自分の暴走を止める体力さえ私には残っていなかった。
――――死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
私なんか死んじゃえばいいのに。私なんか……
「みおーっ。なあ、出てこいよっ。」
きつく閉じていたまぶたが反射的に開いた。
今日も来たんだ……。
「みーおーっ。」
昨日も一昨日もその前も、学校を休んでる私の家の前に俊輔は来た。そして私の部屋にむかって叫んでいく。
当然、私は全て無視している。いまは俊輔と話せるような状態じゃないし、話したくない。
「なあ、未桜っ!でてこいよっ。」
どんなに叫んでも、全て無視される。明らかな拒絶。なのに彼はめげずに毎日やってくる。
やめればいいのに、彼は優しいから。だからきっと私をほうっておけない。
私は恐る恐るベットから足をおろした。体を動かせたことにほっとする。しかしその瞬間、膝に力が入らなくてそのまま崩れ落ちた。
ずきずきと硬い床に打った膝が痛み出す。全てが嫌になっってきたけど、ここであきらめるわけにはいかない。
きっと俊輔は、今日も夜までずっと叫んでるつもりなんだろう。そんなのを1週間も続けてたらいつかは風邪を引いてのどを痛める。
気合を入れて、ベットに手をかけて一気に立ち上がる。それでもやっぱり力はあまり入らなくて、足取りはふらふらとしたもの。
ドアノブに手を掛け、そっと開いた。壁に寄りかかりながら一階に下りていく。かすかにテレビの音がするからたぶん優人はリビングにいる。
私は自分で外に行く気はなかった。強引な俊輔のことだ。外に出てしまえば弱っている私くらい、抱えてでも連れて行かれてしまうだろう。
だから、優人に伝言を頼もうと考えていた。優人の俊輔に対しての無愛想すぎる物言いに俊輔は家に近寄る気もなくすだろう。
あの2人の仲の悪さは気になっていたけど、今はそれが都合よかった。
リビングのドアを開ける。部屋の中の音が廊下に流れ込む感覚に目眩がする。倒れそうになる体を壁の力も借りて必死に支える。
「未桜?」
霞む視界の中に洗濯物を畳む弟を見つける。その声を聞いて少しだけ意識がクリアになった。
「大丈夫か?」
心配そうな顔をした優人が駆け寄ってくる。最近はこんな表情の優人しか見ていない。その原因が自分なんだってことを考えると胸が痛む。
でもその表情は、少しだけ嬉しそうだった。部屋から1歩も出ず、ずっと食べ物を拒んでいた私がリビングに来て、きっと優人は私が食事を摂ってくれると思ってるんだろう。
でも私には食事をする気はさらさらなかった。
「……大丈夫。」
「何か食え!お前ずっと何も食ってないだろ。このままほんとにずっと食べなかったら……」
そこまで言ったところで、優人は急に口を閉ざした。後悔するように目を下に伏せて、そのまま何も言わずに私の体を支えてソファに座らせた。
ずっと食べなかったら、普通の人間はどうなるか。……そんなのわかりきってる。
「死んじゃうね、きっと。」
キッチンに向かった優人の背中に、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でつぶやく。
優人は何も言わなかったけど、きっと私のつぶやきは聞こえたんだろう。その背中がほんの僅かに反応するのを感じた。
――――みおーっ。
遠くから俊輔の声が何度も聞こえる。その度に胸がずきんと痛む。
ごめん、と心の中で何度も謝り続ける。何度言えば、彼はあきらめてくれるんだろう。
「ほら、水。いまりんごすってくるからとりあえず飲んで。」
目の前に水の入ったコップを差し出される。私は黙ってそれを受け取った。
「待って。お願いがあるんだけど。」
「何?」
優人もこの俊輔の声が聞こえているはずだから、たぶん大体はわかってるんだろう。俊輔と話すのが嫌なのか、少しだけ顔をしかめている。
「俊輔、止めてきて。何日もあんなこと続けてたら体壊す。」
私が言葉にした瞬間、優人は思いっきりいやそうな顔をした。……少しだけ俊輔に同情する。なんでこんなに嫌われてるんだろう。
「はいはい。……追い返すから、ちゃんと用意するもん食って。」
それだけ言って、優人は俊輔を止めにしぶしぶ玄関に向かっていく。玄関のドアが開き、閉まる重い音が聞こえた。その音にほっと胸をなでおろす。これで俊輔ももう来ないでくれるだろう。
少しだけ胸が痛かった。私のなんかのために毎日来てくれる幼なじみ。その声に応えてあげたかった。……でも。
いまの私は、だめ。きっとこれからもこのままなんだと思う。
死にたいとばかり願ういまの私。こんな私を俊輔に見せたくない。
私は生きる希望に満ち溢れていたあのころの未桜として彼の想い出になりたい。だから、今の未桜は姿を見せちゃいけない。
―――ガチャッ
突然聞こえた玄関のドアが開く音と乱暴に廊下に入ってくる足音に、思わず肩がびくっと飛び上がる。
「おいっ―――。ちょっと待てよ!」
優人の怒鳴り声で、この足音の主が優人ではないことを知る。逃げなきゃ、と思ったときにはもう、リビングのドアは開けられていた。
「みお……っ!」
俊輔の顔がぱあっと喜びの笑顔に包まれた。だけど私の様子を見て、その表情は一瞬で心配に変わる。
「飯、食ってないのか?」
ずきん、と胸が痛む。
笑うときに幸せそうに細める瞳。口から覗く八重歯。性格は十分大人なのに幼さが残る俊輔の顔のつくりは、本当によく笑顔が似合っている。
そんな俊輔に、こんな顔をさせてるのは私だ。
誰よりも彼の笑顔が、好きなのに。
「……みおっ。」
応えようとしない私に待ちくたびれたのか、俊輔が口を開いた。その声に俯いていた顔を少しだけ上げてみると、すぐそこに俊輔の顔があった。
「すぐ帰るから、ちょっと姉貴借りるな、優人。」
俊輔はそのまま私を抱きかかえて、開けっ放しだったリビングのドアの横にいつの間にか立っていた優人の横を通り抜けた。
「ちょ……っ。優人!」
反射的に優人に助けを求めたけど、優人は俯いて立ち尽くしてるだけで、私の方を見もしなかった。その唇が悔しそうに噛み締められているのを一瞬見たような気がして、口から言葉は出てこなくなった。
どうして。
どうして、私が笑っていてほしいと願うひとは、みんな
私のせいで、笑っていないんだろう。
どうして私は、俊輔にこんな顔をさせてるんだろう――――。
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俊輔がやっと私を下ろしてくれたのは、昔からある大きな桜の木の下だった。
私はこの木が昔から好きで、毎年桜が咲くと俊輔やお父さんと優人と見に来たりしていた。
でも、もうこの木は桜とは呼べなかった。ほんの数日前までは綺麗に枝の先で咲き誇っていた花はいまはもうない。
一昨日強い雨が降ったからか、散った花びらは泥にまみれ、無様な姿を地面の上に晒していた。その姿はグロテスクで必然的に死を連想させる。
「今年、まだ見に来てなかっただろ。毎年来てんのにさ。」
俊輔は木を見上げて微笑んだ。まるで、そこに小さな花が咲いてるかのように。
「……もう、散っちゃってるよ。」
なのに、どうして。
どうしてそんな、満ち足りた顔で眺めることができるの。
死んだ花に、美しさの欠片もないのに。
「そーだな。今年は来るのが遅かったか。」
それでも、俊輔の優しい微笑みは崩れない。
こんなに近くに死を感じているのに、微笑むなんておかしい。
俊輔は死の意味を理解してない。だから幸せなんだ。
――――私がこんなに苦しんでいるのに。
不意に黒い感情が湧き上がる。それは瞬く間に増殖していった。
壊してやりたい。死ぬっていうのはもっと残酷だっていうことを、わからせてやりたい。そうすれば俊輔だって笑えなくなる。私みたいに。
どうして俊輔だけ幸せなの。お母さんもお父さんも生きてるの。ずっとずっと、俊輔は私の1番近くにいてくれたのに。どうして「同じ」になってくれないの。
自分勝手な感情。それを知っているのに、止めることができない。
「未桜。」
彼が呼ぶ。みお。たったの2文字に、どうしてそんなに優しさを持たせることができるんだろう。
逆立っていた心が、すうっと落ち着いていく。
「……桜、散っちゃったんだね。」
無意識に自分の口から零れ出た呟きを、俊輔は微笑みで受け止めた。そしてまた木を見上げる。
「ああ。でも、来年も咲くよ。」
その次の年も、また次の年も。
必ず桜は咲くと。俊輔は桜を見上げながら言った。
「らい、ねん……?」
「そう、来年。花は死んでもまた咲く。生まれ変わってく。そうやっていのちは巡っていくって、ばーちゃんが言ってた。」
お婆ちゃんの受け売りだということに少し照れたのか、俊輔は少しだけ俯き、また視線を木に戻した。そのしぐさを横目で見たときはっと気づいた。
――――俊輔のおばあちゃんは、たしか小6のときに亡くなった。
その横顔を眺める。俊輔の微笑みは変わらない。
とくん、と。
鼓動の音を、久々に聞いた。生きているおと。
私は、生きてる。
――――いのちは巡っていく
「生きてるんだ。……みんな。」
呟く。ずっと否定していたことを。生きている。――――生きていく。
不意に、俊輔がこっちを向いた。一瞬ひどく心配そうな顔をしたあとにまた微笑んで、私の頬をその手でなでた。
「あ……。」
違う。なでられたんじゃなかった。俊輔は、知らないあいだに流れた涙をぬぐってくれたんだ。
泣いていることに気づいたせいか、涙腺が一気に緩む。
「や…、ごめ……っ」
あわてて目を押さえようと動かした手は、俊輔によって止められた。
「来年も、見にこよう。その次も、その次も。」
真正面から俊輔の顔を見る。優しい微笑みは私に「生きろ」と言っているようだった。
どうしてこの微笑みを、壊したいなんて思ってしまったんだろう。
生きたい。この微笑みをずっと見ていたい。死にたくなんかない。死なないでほしい。
「花はちゃんと咲くから。だから、いっしょに見よう。」
約束、と俊輔は言った。その言葉にまた涙があふれる。
――――笑いたい。笑っていて、ほしい。
嗚咽で言葉を出すことができない。それでも、この気持ちを伝えたくて。
思い切り微笑って、大きく頷いた。
急に眠気が体を満たしてきた。まぶたが強制的に落ちていく中、最後に瞳に映ったのは俊輔の微笑みだった。
生きていれば必ずいつか死ぬ。そしてまた巡っていく。それは避けられない。
でも、私はまだ死にたくない。
あの微笑みと約束が、胸の中で輝くから――――
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桜の木の下でその姿を見上げた瞬間、体が金縛りにあったかのように動かなくなった。動きたくなかったのかもしれない。
樹は、大きかった。そして優しく微笑んでいるように見えた。
その大きな身長を生かして町全体を優しく見守る母のように見えた。
「こんなに、大きかったんだ。」
17年間、まるで気がつかなかった。
こんなにも近くで―――
「見守って、くれてたんだね。」
桜は咲く。
もしかしたら明日、散ってしまうかもしれない。
それでもきっと咲き続けるんだろう。私と俊輔の約束も、見守ってくれていたはずだから。
「約束は今日で終わりだけど、どうか」
――――咲き続けていて。
私が一緒に見に来ることは叶わない。
もうあの笑顔を見られないから。
どうか。
「どうか、彼の笑顔を、見守っていて……」
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会いたい、と思った。
このまま死んでしまう前に。会えなくなってしまう前に。
少しでいいから、あの笑顔を見たいと思った。
でも。
「――――そんなの、だめ。」
今の私はきっとうまく笑えない。涙をこらえることができない。
それじゃあきっと、俊輔は心配する。
私は彼の笑顔さえあれば幸せ。だから守ると自分自身に誓った。
それを、自分の手で壊したくない。
だから。
ここで、桜を見上げよう。それだけでいいの。
――――そう、思ってたのに。
「……みお?」
大好きな声。愛しい声。
そしていま1番聴きたくなかった声。
ゆっくりと振り向いてみる。
そこにはやっぱり、大好きな笑顔があった。
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「未桜?今日部活だろ。こんなとこでどーした。」
そう言う俊輔も同じ剣道部のはずなのに、私と違って手ぶらだ。まあ、もう4時だから今から行っても完全な遅刻なんだけど。
「……臨時休業。」
そっけなく答えると俊輔がははっと笑った。そしてそのまま桜の木を見上げて口閉ざした。
こっそりその横顔を見つめる。当然のように胸がどきんと高鳴った。
"好き"
ずっと我慢していた言葉が口からこぼれそうになる。
"好きなんだよ"
知ってほしい。もっと私を見てほしい。私だけに笑ってほしい。
好きと言ってほしい。
「………っ。」
だけど同時に、何をいまさらと思う。
ずっと幼なじみとして過ごしてきて、それで幸せだったのに。彼さえ笑っていてくれれば幸せだったのに。
どうしていまさらになって、こんなに胸が痛むの。
「みお。約束、覚えてるか?」
桜を見上げたまま黙っていた俊輔が不意に口を開く。
「……うん。」
約束っていうのは、さっきまで私が思い返していたあのことだろう。
こうして覚えていてくれたということは、俊輔にとっても大切な約束として心に残しておいてくれたのかな。
そう考えたけど、俊輔の右手を見て頭の中が凍りついた。
「なんつーかさ。毎年、こうしていっしょに見てきてるけど。」
右手でぽりぽりと後頭部を掻きながら俊輔は話している。
これは、何かに困っているときにいつもでる俊輔の癖だった。
「俺たち、ただの幼なじみなのに、」
言わないで。
その言葉の先を聞いたらきっと、
「――――こういうのって、やっぱ変かなって思って。」
私は、夢から覚めてしまう。
「変……だよね、やっぱ。」
こんなこと言いたくないのに。私の口は勝手に言葉をつむぐ。
「だってただの幼なじみなのにこんなに私ばっかり俊輔に頼って。いい加減もう離れなきゃ変だよね、子どもじゃないんだし。
私ももう1人で大丈夫だから。だから、俊輔も私に気ぃ使わないでいいから……」
言いたくない。本当はそばにいたい。
――――だけど。
きっと、これが1番いい決断。どうせ私は死ぬんだから、俊輔を私から解放してあげなきゃいけない。
ずっとこのままじゃいられない。時間は動く。私たちは歳をとって大人に近づいてゆく。
全て変わってしまう。
変わっていく中で捨てなくちゃいけないものもある。……俊輔は私を捨てなくちゃいけない。
だから俊輔ができるだけ傷つかないように、私から別れを告げよう。
「いままでごめん。もう私は大丈夫だから、私のこと助けなくていいから……」
だめだ。涙が出てしまう。涙を見せたらこの言葉は嘘になる。優しすぎる俊輔は遠ざかれなくなる。
さっと振り返って走り出した。どこでもいい。早くここから離れなくちゃいけない。
「……待てよっ!」
なのに、彼が私の右腕を掴んで邪魔をする。必死に逃れようとしても男の腕力には敵わない。それでも私は腕を振り回して抵抗をやめない。
私はもう立ち止まっていられない。こんなにこの人の笑顔を見ていられない。
「はな……っして!」
一瞬俊輔の力がゆるんだ。その隙をみて逃れようとして、失敗する。何に阻まれたのかを確認したとき、かっと熱くなっていた頭がすうっとさめていくのを感じた。
私を阻んだのは、私の体を包んでいる優しい温もりと、後ろから回された大きな腕だった。
――――だめ。これ以上はだめ。これ以上、この人に触れちゃいけない。
体は動かない。初めての「抱きしめられる」という感覚に緊張して硬直している。
「お前、なんか勘違いしてる。」
俊輔がぽつりと耳元でつぶやく。私の肩に置かれたその顔の表情を見ることはできない。
――――いまさらこんなの、ひどいよ。
「……ずっと、好きだった。」
雫が頬を伝う。ずっと我慢していた涙はこんなにも簡単に流れた。
――――ずっとここにいたいと、心が願ってしまう。
時間はもう、ほとんどなかった。
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どれだけ時間が過ぎたんだろう。沈黙を破ったのは、私だった。
「……ごめん。」
嗚咽を飲み込んで、懸命に搾り出した声の弱さに驚く。どんなに強がっても涙は止まらない。
自分の弱さに吐き気がした。こんなに好きな人を困らせるしかできない自分が、いやだった。
それでも、どんなに弱くても。強がることはやめちゃいけない。
私は決めた。誰も傷つけずにこの世界から逝こうって。その決意を揺るがせるわけにはいかない。
「……なんで?」
優しい俊輔のことだから拒絶の言葉を少し言えば開放してくれると思っていたのに、俊輔の口からは予想外の言葉が出た。その腕の力は少しも緩まない。
「なんで、って」
そんなこと、言われても。
こんなありえない予感のことを話せるわけがない。かと言ってうまく俊輔をごまかせるほど嘘がうまいわけでもない。
「離して……。」
言葉が見つからず、つぶやくようにそう言った。それは俊輔のどんな風に聞こえたんだろう。答えるかわりに、俊輔は私をぎゅっと強く抱きしめた。
胸が高鳴ってしまうのが悔しい。俊輔の腕の中は暖かくて、ずっとここにいたくなる。
「未桜は!」
俊輔の声は、必死だった。その表情を見なくても分かる。何かを我慢するように、けれどできるかぎりのことを伝えるように。俊輔は必死に私に語りかける。
「未桜は、もうそんな顔すんな。」
そんな顔見んの、あの時期だけでもう十分だ。
そう、俊輔は小さな声で言った。その声が少しだけ震えていることに気づいたとき、感情を抑えていた最後の壁が音を立てずに崩れた。
「……たし、だって。」
頬を涙が伝う。涙はこんなにも自然に溢れてくるものなのかと、心の中で少し驚いていた。
「私だって、ずっと好きだったよ……!」
言ってしまった言葉はかけがえのない真実だった。だからこそ、とても重い言葉だった。
俊輔が息を呑む音がきこえた。そのあと、また私をぎゅっと抱きしめた。
回された腕に、そっと触れる。そしてその腕を強く握った。
私はまだここにいる。こうして大好きな人に触れている。そのことが何よりも嬉しかった。
そして私は、その温もりから離されることの寂しさを知ってる。大好きな人がいなくなったあとの孤独を知っている。
――――死ねない。
いなくなった人の死は絶対に無駄にはならない。必ずそこには綺麗な想い出が残る。
――――死にたくない。
でも、残された人は哀しいんだ。寂しいんだ。その人が大切で、かけがえのない存在であるほどに。
――――だから、死んでなんかやるもんか。
私はこの人の笑顔を守りたい。いっしょに笑っていたい。
何よりも大好きなこの微笑みを、壊したくない。
「……俊輔。」
くるっと後ろを振り向いて、少し後ろにある彼の顔を見上げる。そこにはちゃんと、大好きな微笑みがあった。
どのくらいのあいだ、抱きしめられていたんだろう。涙は気づかないうちに止まっていた。
「私、俊輔の微笑ってる顔が好きだよ。」
いつもなら照れて言えない言葉。でも、今ここで言えばそれはきっと「約束」になる。
抗うことは辛い。苦しい。あきらめてしまいたくなる。……でも。
その約束と彼の笑顔を守るために、私は生きよう。
生き抜いて、みせよう。
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ケータイで時間を確かめてみるともう4時32分だった。私が死ぬはずの時間はもう過ぎていた。
手をつないで歩き出す。どこに行くかは決めてない。ただ、日が沈もうとしている方向にまっすぐ歩く。
オレンジ色の光は小さな町も小さな私たちも大きな樹も包み込む。全てをオレンジ色に仕立てる。昼の終わり。夜の始まり。それを祝うというより、嘆くようなオレンジ色。
黒い2つの影は伸びていく。長く、長く、長く――――。
今まで生きてきた中で1番幸せな時間だった。右手には彼の大きな手。隣には彼の温かな存在。見上げれば大好きな微笑み。
けれど、後頭部がずきずきと痛んでいた。オレンジの光が濃くなっていくのに比例して、頭痛はだんだん増していく。
――――どうして。
時間は過ぎているはずなのに、心の中の大きな不安は消えない。それどころか大きくなっている。
もうすぐ。もうすぐ。もうすぐ―――死が耳元でささやく。ぞわっとする手つきで首筋を撫でる。
大丈夫。もう時間は過ぎてる。私は死なない。死なない……。
俊輔の手をぎゅっと握った。俊輔も握り返してくれる。右手だけは、温かかった。
キーンコーンカーンコーン……
近所にある中学校から寂しげな音が流れる。それは落ちていく夕日の景色にそっと溶け込んでいく。
――――ちがう!
その瞬間、決定的な不安が心を横切った。
32分なんて中途半端な時間にチャイムを鳴らす学校があるのか。その疑問が全てを物語っていた。
――――私のケータイ、時間ずれてたんだ!
ばっと反射的に後ろを振り向く。誰もいない。ただ1台のトラックが、私たちが歩いている左側の歩道に少しずつ寄りながら猛スピードで走ってくるだけ。
一瞬でこれから起こる事故が予想できた。歩道の左端を歩く私は、このままならきっとぎりぎりで助かるだろう。でも、その隣を歩く俊輔は……。
――――ずるいよ、神様。
――――こんなにも、生きたいのに。彼と笑っていたいのに。
俊輔の右手を思い切り引っ張る。気を抜いていた俊輔はあっさりと左後ろに倒れこんだ。
引っ張るときに全体重をかけたからか、私の小さい体もその勢いで倒れる。だけど、俊輔ほどの距離は稼げなかった。
――――ずるいよ……。
目に映るのは、オレンジの光と大きなトラック。
――――俊輔の笑顔を守るには、こうするしかないじゃない。
世界の音が消える。次に体を動かす力が消える。たぶん、意識ももう少しで真っ暗になるんだろう。
痛いと思っていたのに、痛いどころか感覚もなくなっていた。ただ体中が寒いような気がした。
それでも顔は無事だったみたいで、駆け寄ってくる俊輔の姿がかろうじて見えた。
彼は、泣いていた。ぼろぼろと涙が零れているのにそれをぬぐおうとはせず、ただ私の隣にひざまずいて何かを叫んでいる。
耳が聞こえなくなっていることが悔しかった。最後に彼の精一杯の叫びを聞いてあげたかった。
――――我が侭、なのかな。
その顔は必死だった。怖がっていた。怯えていた。
笑顔には程遠い表情。
――――そんな顔が、見たいんじゃない。
精一杯口を動かす。声帯を震わせる。話すことがこんなにも難しいのを初めて知った。
それでも。伝えたい。大好きな人へ。約束した人へ。
……もうそばにはいられないけれど。約束を破ってしまうけれど。
「わら……ってて。」
これが私の、最後のコトバ。
「―――、――――ら。」
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雨が、降っている。
冷たい雨だった。まるで何かを嘆くように。
強い雨だった。まるで何かを責めるように。
そんな中に、彼は傘もささずに立っていた。
彼は泣いていない。ただ立っているだけ。想っているだけ。
届かなかった想いを。失ってしまった彼女を。
彼はただひたすらに想う。
彼女は、泣いていた。
届いたはずだったコトバを想って。守れなかったモノを想って。
彼女は、泣いていた。
朝まで降り続いた雨で、桜の花は散った。
死んでしまった。
それでも、樹はそこに立っている。そして町を見守っている。
次の春が訪れ、いのちが巡ってくる日まで―――――。