港
小説や散文などと違って詩はよく「言魂」をつづったもの、つづるべきものと云われます。わたしに云わせればこうもなるでしょうか。彼の「若きウエルテルの悩み」のごとき青春時の、疾風怒濤期のおさえることのできない真・善・美への想い、人生のなんたるかを求める探求心のほとばしり…とでも。にも拘らずその未熟な若さゆえに真実やイデアなどははるか霧の彼方です。そこに懊悩が生まれ、失念し、自虐し、真・善・美やイデアなどとは真反対の、あらぬ悪魔派などへの指向性も生じがちです。それをひとことに換言するならばランボーの踏襲とでもなるでしょうか。ではひとつ、ランボーを求めたわが青春の軌跡をご覧ください。
港だ、夜の。
風が頬に冷たい。
停泊中の船の灯りが美しい。
波に照り映えてゆらゆら揺れるその様は
海に金色の帯をながしたようだ。
遠くからウインチの音が聞えてくる。
人夫たちのかけ声も。
さても今
港は眠っている。
波の揺り籠にゆられ、夜の闇に包まれて。
俺も帰って寝ることとしよう。
波の音がいかに心地よくとも
潮の香がいかに芳しくとも
今は帰ることとしよう。
港よ、お前もそのまま眠り続けるがいい、
静かに…
だがもし、
太陽が天空の真ん真ん中に来、
人々が薄地の服を纏うようになったら
港よ、甦れ!
すべての活気を取り戻せ!
その時俺は行く。
聖なる都パリへ、フランスへ。ランボーとなって!
見るもの、手に触れるもの、ものみななべて新鮮で、発見の連続という幼児にはとてもかないませんが、青春時における感受性というものにも、そこにはおのずから詩性というものがあるのだと思います。社会人としてなるべきものにまだなっていないがゆえに、その守備範囲も広い。逆に云えばまだ完成されていない未熟者なのですが、すでに各々の視点を持ったわれわれが遠の昔に失った、未熟であるがゆえにこそ抱ける事象への異なる視点というものがそこにはあり、カオスに裸で立ち向かって行こうとする潔さがあります。成人して各々が業界人となりかつての青春時を思うなら、そこには甘酸っぱいような哀愁や切なさ、あるいは愛しさを感じるのはその詩性を見ればこそのことだと思います。ですから、年に関係なく真の詩人というものは、またそのあるべき姿勢は、年輪とともに重ねた経験や知識に固まるのではなく、むしろそれをともなって感性を逆行すべきものと考えます。理想は幼児時のそれまで。しかしまあ、とは云うもののはたして疾風怒涛期だった青春時にさえ及ぶかどうか、詩の生命で争えるかものかどうか、定かではありません。もしこの先もこの拙詩集をお読みいただけるならば、壮年・実年を経て老年にいたったわたしの詩群と見比べてみてください。とにかくここでは青春の神、ランボーなずらった詩群をお楽しみいただいた次第です。以降の人生詩集もよろしくご高読のほどをお願い申し上げます。