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妹女神

作者: 青山 真夏

序章 妹女神登場


ある時 天上界に いたずら好きの女神がいました

女神は今日も空中に指を走らせて 姉女神に似た地上の若い女性に

バナナの皮を踏んでコケさせるいたずらを仕掛けていました

それが終わると あくびを一つして午睡の床につきました


午睡から覚めると 女神はすぐに大神のところへ連れて行かれました

姉女神も居ました

運命の女神は 仕事の邪魔をされて 不機嫌な顔で立っていました

死神は 思わぬ獲物が手に入りそうになったので

嬉しそうな顔をしていました

大神は 自分の娘である妹女神をじろりと見てから口を開きました

「地上で問題が起きた 

 まだ死ぬ運命でない者が死にそうになっておる そこで」

大神は女神の姉妹に向かって命じました

「そなたらは 直ちに地上に行き その者の運命を元に戻してくるのじゃ」


第一章 地上へ


大神の命令を受けた姉妹の女神は 人間に見られないよう姿を消して

一直線に地上へ向かい 患者の病室に着きました

病室では 姉女神によく似た若い女性がベッドに寝ていて

家族が心配そうに見守っていました

その中に盲目の少女が居るのを見て 妹女神は驚きました

何年か前 ふざけて天上を走り回っていて足をすべらせ

雲の切れ目から地上に転落した時 あわてていたために

姿を消し忘れた妹女神を見てしまったのが その少女だったからです

神の姿を見た人間は 目の光りを失わなければなりません

それは絶対の掟でした

でも女神は その少女を心から哀れに思っていました


ベッドに横たわる女性の脈拍を示すモニターの数字が下がっていき

とうとうゼロになって ピーッという音がしたとたん

それまで患者の枕元に立っていた姉女神が まるで寝袋に入り込むように

患者の肩口から体の中に入り込みました

すると 信じられないことに 蒼白だった顔に突然血の気が差し

目がパチリと開いて なんと ムックリと上体を起こしたではありませんか

悲嘆に暮れかけた矢先に奇蹟を見せられた家族は 驚きのあまり言葉も失いました

それでもしばらくすると 大喜びで女性の周りに集まり

わけても盲目の少女は 姉にしがみついて離れようとしませんでした

「さあ 帰るわよ」姉女神が言いました

けれど 妹女神は少女が気になっていたので もう一日地上に残ることにしました


第二章 盲目の少女


少女は盲学校に通っていましたが これまでの努力と家族の献身的な支えが実り

中学二年の二学期からは 普通学校に通えることになったのです

そして その二学期が明日から始まるのです


翌朝少女は家を出ました

女神はその後を少し遅れてついて行きました

この日に備えて少女は 母親と一緒に 数えきれないほど通学路の道順を

練習してきました

その背中には自信と喜びが溢れていました

それを見た時 女神はこの少女を限りなくいとしく感じました

その思いが強くなり過ぎて 女神は 少女に何かいたずらをしたくなりました

「そうだ この子の体に入ってみよう」

女神は後ろから少女にどんとぶつかり 体の中に入ってしまいました

少女は何が起こったのか分かりませんでした

突然体が熱くなったかと思うと 次には まるで清水で体中を満たされたように 

どこまでも澄みきった感じになりました

「私 どうなったのかしら」

少女は これまで経験したことのない違和感で調子が狂い 学校への道順を

間違えてしまいました

「あれ ここで左に曲がれるはずだけど 変だわ 道がないわ

 どうしよう 分からなくなっちゃった

 学校に遅れてしまう どうしよう」

目の見えない少女はすっかり戸惑い 道の真ん中で立ち往生してしまいました

この時の少女にとっては 無事に学校に着くことが 世界中のどんなことよりも

一番大事なことでした

女神は哀れに思い 知恵を授けました

「そうだわ 分かるところまで戻ればいいんだわ」

そうして正しい道まで戻り 校門にたどり着くことができました


この頃 少女のクラスではホームルームが開かれていて クラス委員が

「秋の文化祭でウチのクラスは『野ばら』の合唱をします

 今から一回目の練習をしますので 全員音楽教室に移動してください」

と言いました

生徒がゾロゾロと廊下を歩いていく中で 三浦翔という少年が

サッカボールを小脇に抱えてそっと抜け出しました

「へん なにが野ばらだ やってられるか」

少年は校庭に降りて行きました

その時 校門の方から 初めて見る女生徒の影が近付いてきました

その生徒は左手に鞄 右手に白い杖を持ち 急いで歩いてきたせいか

色白の頬がバラ色に染まっていました

真新しいセーラー服に身を包み 清らかな輝きに満ちた少女の姿に

少年は目を奪われました

我を忘れてじっと見入ってしまいました

人の気配を感じた少女が「あの・・」と言った時

少年は恥ずかしさのあまり駆け出しました

ざっざっざっと校庭の砂を蹴っていく足音が少女の耳に残りました

ここまで見届けた女神は 少女を離れ天上に帰って行きました


夕食の時 母親が聞きました

「学校どうだったの ちゃんと行けた?」

「うん ちゃんと行けた」

娘は 途中で迷って少し遅刻したことは黙っていました

母親の方も 朝から心配でそっと後を付けていたことは言いませんでした

娘が迷って立ち往生していた時は 胸が張り裂けそうでしたが

じっと我慢をして 彼女が校門にたどり着いたのを見届けて帰ってきたのでした

「勉強の方はどう ついて行けそう?」

「大丈夫 易しすぎるくらいよ それにノンちゃんが居るの

 お母さん覚えてるでしょ あのノンちゃんが隣の席なの」

「まあ そうなの それはよかったわね」


第三章 あの日


食事の後 一人テーブルを前にして 母親はあの日のことを思い出していました


あの日の夕方 娘は帰るなり 台所にいた母親のところへやってきました

どんな時でもドタバタ歩かない どんなに狼狽しても顔に出さない

それは 若い頃鉄の女と呼ばれ畏怖された 母親譲りの芯の強さでした

この日もそれは変わりませんでしたが 目が尋常ではありませんでした

体も 意思に反して震えていました

「どうしたの」母親が聞きました

「変なもの見たの」

「変なもの?なーに」

「絵画教室からの帰り いつものように土手道を歩いてたら

 急に目の前が明るくなって 私みたいな女の子が

 金色の光の中に現れたの

 私がびっくりして見てたら すぐ スーッと消えちゃったの

 あんなの生まれて初めて見た

 私なんだか怖い お母さん 私怖い」

母親は 鉄の女の本領を発揮して冷静さを保ちました

「それは・・あれじゃないの・・ほら・・白昼夢っていう・・

 芸術家などがよく見ると言われてる それじゃないの・・

 聖子は絵が上手だから きっとそれを見たのよ」

母親は そのように出まかせを言って 娘を安心させようとしました

娘も昔から母親の言うことは何でも信じるのでした

そして 自分が選ばれた人間だと思い 気分がよくなって

上機嫌で夕食を食べ 二階に上がって行きました


一方 母親は不安に襲われていました

十代の頃読んだ西洋の本の中に「自分の幻を見た人間は死ぬ」という言葉が

あったような気がしたからです

その夜は 寝床に入っても まんじりともできませんでした

しかも こういう時に限って 夫は学会に出席するため京都に行っていて不在です

やがて ポツリ ポツリと降り始めた雨が 急に豪雨に変わって

屋根と窓を激しく打ちました

カッと見開いた彼女の目には その豪雨の中を 大鎌をかついだ真っ黒の死神が

我が家に向かって麦畑をかき分け ずんずん歩いてくる姿が浮かびました

 来る 来る 来る

 ドンドンドン

玄関の戸が激しく打ち叩かれました

 来たー

彼女は寝床から飛び上がりました

「おーい智子オレだ 開けてくれ」

死神は兄の哲司でした

智子が急いでドアを開けると 兄は全身びしょ濡れで立っていました

哲司は 最近しでかした仕事上の失敗を取り返すべく 徹夜の連続で

頑張っていましたが 結局この日の夕方の人事で左遷が決まり 

やけ酒を飲んで泥酔していたのです

「おーい聖子 伯父さんが来たぞ 下りといで」

若い頃画家を志したこともある哲司は 絵の天才少女と呼ばれている聖子を

ことのほか可愛がっていました

「伯父様いらっしゃい うわーびしょ濡れっ」

智子がタオルを持ってきました

「なーに大したことはない ゴホッゴホッ」

哲司は怪しげな咳をしました

「兄さん 大丈夫?」

「大丈夫だ 熱いコーヒーをくれ ゴホッゴホッ」

「伯父様すごく具合悪そうよ 早く帰って寝た方がよくないかしら」

哲司はコーヒーを飲むと タクシーで帰って行きました


翌朝 ほとんど眠れなかった母親は 我慢して起きました

朝食の支度をしていると 長女の愛子(姉女神によく似た女性)が下りてきました

「おはよう」

「おはよう 聖子はどうしたのかしらね 起こしてきて」

愛子は二階に上がったかと思うと 血相を変えて下りてきました

「お母さん大変 あの子 体が火のように熱いわ」

母親の顔色が変わりましたが 落ち着いて救急車を呼び

少女は直ちに病院の集中治療室に入れられました

病状は予断を許しませんでした

家族にとって この子を失うなど想像もできないし 

絶対受け入れられないことでした

母親の頭の中では 西洋の不吉な予言が渦を巻いており

顔面蒼白になりながらも 強い意志の力で不安を押さえつけていました

そして三日目の夕刻 担当医が言いました

「命は助かります ただ視力に問題が生じるかも知れません」

家族は喜びと悲しみが交錯し 顔を覆いました

四日目の朝 少女の意識は戻りましたが 目の光は失われていました

その日から 少女を襲った闇との長い闘いが 家族ぐるみで始まりました

母親を先頭に 父と姉が完全武装で少女を防護し 

少女は少女で甘えることなく どんな試練にも勇敢に立ち向かいました

絵の道を絶たれるという 十才にして自分の将来を そして存在意義を

否定されてもなお生きていくという最大の試練を乗り越えることができたのは

少女の強い精神力に加え 家族の支えと励ましがあったればこそと

言うほかはありません

そして四年 闘いの果てに少女は普通学校に戻りましたー笑顔で 希望を持って

果たしてこれでよかったのか かえって娘に苦労をかけるのではないか

彼女には分かりませんでした

分かっていたのは どちらにしても試練は続き 本人も家族も

それに耐え続けるしかないということでした

一方で この四年間 自分がある意味幸せであったことにも気付いて 

小さく溜め息をつきました


少女は夜の勉強前に 必ず一枚の写真を手に取ります

視力を失う前 十才の夏休みに写生に行った川のほとりで

お母さんが撮ってくれたスナップ写真

夏の日差しを浴びてはじける笑顔

自分が一番気に入っている写真です

背景に空と川と夏の野の花

そして通りすがりの少年のとびきりの笑顔が写っています


第四章 少年


翔はサッカーの練習をして日暮れに帰った

自分の部屋に入り カバンを放り出して

普段ならサッカーマガジンを手にするところを 今日は 

ベッドに仰向けになって 長い間じっと天井を見ている

部屋の壁には 人気サッカー選手のポスターが貼られ

床にはサッカーボールがころがっている

本棚は「サッカー少年」や「ジュニアサッッカー」などで占拠され

僅かばかりの教科書は 申し訳なさそうに隅っこに並んでいる

参考書の類は一冊もない

やがて夕食が出来たという母親の声がした

母親に対する息子の態度はそっけないが それでもボソッと

「いただきます」と言って食べ始める

食べている息子の横顔にくっきりと見える火傷の跡を見つめる母親の目は

いつまでたっても悔悟と謝罪の気持ちに満ちみちて

今にも泣き出しそうである

翔がふと立ち上がって台所に行くそぶりを見せると 弾かれたように立ち上がり

「何が欲しいの 牛乳?」と聞いて

「うん」という答えを待たずに冷蔵庫に突進する

息子を台所に入れまいとする母親の態度に 病的なまでの頑なさがあるのは

何故だろう 火傷の跡と台所には何か関係があるのだろうか


もともとこの一家は 裕福でこそないが 笑いの絶えない幸せ一杯の家だった

父親は会社の課長で草野球チームのピッチャー 母親は専業主婦で趣味は庭いじり

そして息子は勉強・運動・容姿の三拍子が揃った人気者の優等生だった

これが運命の女神の目にとまる原因となった

この女神の仕事は 幸せな人間の運と不幸せな人間の運を時に入れ替え

時に足して2で割ったりしてバランスをとることだが 時には気まぐれで

悪い人間でも好みなら最後まで運のよい人生を送らせてやったり

逆に たとえ善良でも 女神の嫌いなタイプの人間には

最後まで冷たくすることがあった

この家については 女神は最初 父か息子に交通事故で大怪我をさせようかと

考えたが それではかえって家族の結束を強めてしまい 逆効果だと思い直して

夫婦が毎月買っている宝くじで一千万円を当てさせてみた

すると その使い道と言うよりも それを息子ためにどう使うかを巡って

早速意見の食い違いが表れた

今までは経済的余裕がなかったため 我慢をして口に出さなかったが

実は息子の将来に関して 夫婦の考えはもともとかなり違っていたのだ

しかも 夫婦はどちらかと言うと平均的人間であるのに対して

息子の素質があらゆる面で優れすぎていたために 二人がそれぞれ

抱く期待には 実に大なるものがあった

父親はかねてより息子の肩の強さに注目しており どうせお遊びで終わりそうな

サッカーよりも 野球で甲子園を目指せるよう 名門のリトルリーグに

入れたがった それは自分が果たせなかった夢でもあったのだ

それに対して母親は 野球もサッカーも競争が激しく 息子が成功するとは

限らないので 将来一流の会社か官庁に入れるよう 今のうちから評判の塾なり

思い切って家庭教師を雇うなり 勉学方面にお金を使いたがった

二人とも自分のことは二の次で 息子を愛する余りとはいえ

夜な夜なその人生進路を巡って言い争ううちに かつてあれほど

和気あいあいとしていた家庭が すっかり殺伐としたものに変わってしまった

ここまでは 運命の女神の目論見通りだったが 次に起きた悲劇は

さすがに女神の目論見を超えるものであった


少年は 家庭内の雰囲気の悪化にもめげずに勉強とサッカーに励んでいたが

ある晩 台所で父母が激しく言い争う声が聞こえてきて しかも

その声の中に不吉なものが感じられたので 急いで下りていって

「ねえ お願いだから 喧嘩やめてよ」と懇願した

しかし 興奮しきった二人は子供の声に全く耳を貸さず 一段と大声で

怒鳴りあって 遂には 夫が火から下ろしたヤカンを妻がひったくった瞬間

煮えたぎった湯がこぼれて 少年の顔にバシャリとかかってしまった

夫婦はハッとして息子を見た

少年は「痛いよ 痛いよ」と手で顔を押さえ 足をバタバタさせて

台所の床をころげ回った

夫婦の狼狽ぶりと その後にやってきた愁嘆場について 語る必要はないだろう


運命の女神が悪意の一石を投じたのが始まりで 善良な家族が

女神の目論見以上の悲惨な目に遭わされることになった

結果責任は 明らかにこの女神にあったが 女神はいつもの通り

自分が招いた結果には全く無頓着だった

そもそもこの女神は 人間界でこそ大層恐れられてはいるが

天上界での序列は決して高い方ではなく 他の神々からは

死神とほぼ同格と見られており それがまた

この女神には我慢ならない屈辱であった

一方 人間からすれば この女神の気まぐれで大変な目に遭わされることが

あっても 女神の手の内にある間は 少なくとも「生かしてもらえている」

訳であり ライオンの餌を狙うハイエナのように 女神の手からこぼれた命を

死神に持って行かれるよりは よほどましなのである


それはさておき 事件をきっかけにこの家は 希望の消えた 

変に静かな家に変わった

父親も母親も深く反省し お互いや息子の意思を以前より尊重するようになった

しかし 文武両道の美少年だった息子は 火傷によって顔が変わってしまった以上

外見に関係なく実力だけで勝負できる世界しか残されていないと考えるようになり 

心に闇を背負いつつ サッカーにのめり込むとともに 

学業はおろそかになっていった

翔が十才の秋のことだった


第五章 教室


二学期が始まって10日が過ぎた

少女は しっかり者のノンちゃんこと高橋典子の助けもあって 

順調に学校生活を送っていた

少年は 出会った日以来まだ一度も少女の顔をまともに見れずにいる

最初に見た顔がまぶし過ぎたし その静かな立ち居振る舞いが

もっと軽微なハンディにすら負けている自分を諭しているようで 

気後れしたからだ

一方で 自分がこの少女にどう思われているのか 少なくとも自分の話し声は

聞かれているし 典子からどんな風に吹き込まれているのかも

気になって仕方なかった

(少女にこの顔を見られないのは幸運だと思っていた)

少年にとっては あの時の少女が 毎日自分のすぐそばに当然のように居るなどと

いうことは まるで光の国の妖精が自ら進んで我が家の鳥かごに入ってきたかの

ように信じがたいことだった

そしてまた クラスの生徒たちがこの少女にあまり関心を示さないことが

不思議でならなかった

かくして 少年の席が一番後ろで その前がノンちゃん そして

その右隣が少女という位置関係のおかげで少年は その凛とした後ろ姿を

毎日ほとんど一人占めできている喜びで満足していた

ところがある日 ふと顔を上げた拍子に 少女の顔をまともに見てしまった

そして むこうがこちらを意識する余裕など全然無く 

自分のことだけで精一杯な様子であるのを 瞬時に見てとった

顔も あの時のような輝きは見られず むしろどこにでも居そうな

普通の中学2年生の女の子に見えた

少年は驚き かつ 率直に言って落胆した

彼が目を奪われたあの輝きは 普段は少女の心の奥深くに仕舞われていて

見えないので そういう気持ちになったのも仕方のないことかもしれない

他の少年なら ここで少女への関心が終わってしまったかも知れないが

彼は違っていた

 この子は これだけのハンディを負っているのに 何故

 こんなにも生き生きとしているのだろう

 典子をはじめ何人もの友達と楽しそうに話せているのだろう

 未来に希望を抱いた笑顔を浮かべることが出来るのだろう

 普通ならオレのように もっと暗くなるものではないのか

少年は典子を苦手としていたが 少女について知りたい一心から 思い切って

声をかけた

「ちょっと聞きたいんだけど 新田とは昔から知り合いなのか」

「そうよ 聖ちゃんが十才の秋に視力を失って盲学校に移るまでは

 幼稚園の時からずっと一緒よ」

十才の秋ー少年はあまりの偶然に絶句した

「なんで失明したんだ」

「それが ある日突然高熱が出て 熱がひいたと思ったら 

 目が見えなくなってたんだって・・私だって驚いたわよ 

 でも聖ちゃんは負けないで頑張ったの

 天才と言われてた絵の道をあきらめなくちゃならなかったのによ

 信じられる?すごい精神力 

 それと 私が尊敬するのはあの家族の団結力よ お母さんだけじゃなくて

 家族全員が協力して彼女を励まして 普通学級に入ってこれたんだもの

 だから私 あの子のことを考えると いろいろな思いが浮かんできて

 涙が出てくるの 君も聖ちゃんに親切にしてあげて いいわね」

典子の最後の一言は余分だったが これが典子の口癖であったし

何よりも少年は 貴重な情報を得ることができたのである


少年は典子から聞いたことを何度も思い返した

そして 先日感じた印象よりも 初めて会った日に自分が抱いた印象の方が

やはり正しかったのだと分かって嬉しかった

特に 天才と言われていたほど上手だった絵を諦めなくてはならなかったのは

死ぬほど辛かっただろうに それを乗り越えたなんて本当にすごいと思った

同時に あの少女を心から理解できるのは 種類こそ違え同じ十才の年から

ハンディを背負わされた自分だけなんだ いわば二人は戦友なんだという

甘酸っぱい幸せな気持ちに包まれた


第六章 改心


少年は 少女が困っているときは必ず助けてあげる決心をした

戦友ならそれが当然だと思った

しかし そのためには 今のような捨て鉢な生活態度では駄目で

何事にも素直で積極的だった頃の自分に戻る必要があると思った

少年は態度が変わった

授業をよく聞くようになり ノートもとるようになって 

長い間ヘディングにしか使わなかった頭を勉強にも使うようになった

参考書を買いたいと言ったとき 母親は泣き崩れんばかりに喜び

それを聞いた父親は 目を真っ赤にして大きくうなずいた

少年の突然変異は クラス中の評判となった

「ヘディングのし過ぎで頭がおかしくなったんだろう」というのが

大方の一致した意見だった

こういう話は 自然と少女の耳にも入ってきた

今まで意識の中になかった斜め後ろの席の男子生徒が話題になっていると

知ってからは この生徒が気になりだした

少年が変わった原因が自分にあるなどとは夢にも知らない少女は

後ろを振り返って見る訳にもいかず(どっちみち見えない)次第に自分なりの

勝手な想像をふくらませて 一方的に好意を持つようになった

「ねえ聞いてお母さん ウチのクラスにね 今まで厄介者だったのが

 突然改心して模範生になった男の子がいるの なんか素敵だと思わない?」

「あらあ ほんとね その子がどんな子か見てみたいわ」

その子を見たことがない母と娘は それぞれ好きなように美化した容姿を

頭に描いて 笑みを浮かべていた

少女は少年を見たことがなく 少年は少女と話したことがない二人の縁を

とりもったのは 意外にも運命の女神だった

ただし 少年の一家を好んでいないこの女神らしい 意地の悪いやり方でだった


第七章 再生


一限目の授業が終わったとき 少女はいつものように立ち上がり

ノンちゃんと一緒にトイレに行こうと歩きだした

ところが 最近改心した少年はまだ必死にノートをとっており しかもこの日は

以前の悪い癖が出て 通路に足を投げ出していた

この足につまずいて少女は倒れ どこで切ったのか 

額から鮮血がパッと飛び散った

ノンちゃんは「あっ」と言って抱き起こし 体を支えてあげながら

教室を出て行った

「なんだ どうしたんだ」

「新田さんがころんだのよ」

「血がいっぱい出てたぞ」

教室中が騒然となり いろいろな声が飛び交った

助ける筈が逆に怪我させてしまった少年は 心を千々に乱し 

青ざめてただ座っていた

 やばい やっちゃった どうしよう 母さん 怖いよ

教室内で少年をなじる生徒は一人もいなかったにもかかわらず

彼は生徒たちの話し声が 全て自分の非を咎める言葉のように聞こえた

頭に包帯を巻いた少女がノンちゃんに付き添われて教室に戻ってきたとき

少年はすぐに立って行って少女に謝った

「ごめん 本当にごめん」

少女はすでにノンちゃんから自分が倒れた原因を聞いていたらしく

「ううん よく注意しなかった私が悪いの もう気にしないで 私平気だから」

と言った

本心からの 気遣い溢れる声だった

教室中の目が一斉に注がれたが 少年は そんなことより 

少女を傷つけてしまったショックに耐えるのに必死だった

今まで経験したことのない種類の試練に懸命に耐えていた時

突然両親の顔が目に浮かんだ

 台所で僕が火傷した時 父さんも母さんも 今の僕と同じ気持ちだったんじゃ

 ないだろうか

 ああ きっとそうなんだ 父さんも母さんもきっとすごく辛かったんだ

 なのに僕は今まで 自分の気持ちしか考えなかった

全然そんなつもりはなかったのに よりによって一番大切な人を

傷つけてしまった人間の苦しみを 身をもって知った少年は 

これっぽっちも恨み言を言わなかった少女の強さと優しさに触れて

深く心を揺さぶられた

そして これまで両親に恨みを抱いてきたことへの反省と謝罪の気持ちとで

みるみる涙が溢れだした

次々と流れ出る涙がようやく止まった時 少年は 長かった心の闇を抜けて

素直で穏やかな顔に変わっていた

少女によって救済され 再生した魂は この時から新たな脈動を始めた


第八章 夢


何日か経ち 少女の包帯もガーゼとテープに変わって 土曜日が来た

その日の夕食は親子3人が揃い 久しぶりに会話もはずんで楽しいものとなった

少年は 以前とは全く違う柔らかい笑顔で サッカーや友だちのことを

生き生きと語り 両親は心から嬉しそうにそれを聞いていた

「明日また試合でしょ 早く寝るのよ」

少年は言われたとおり早めにベッドに入った

しかし寝付けなかった

何故かこの日に限って これまでの短い人生の色々な思い出が

次々と頭に浮かんできて 目が冴えてしまったのだ

数を数えてみても駄目 何も考えないようにしてみても駄目で

明け方近くになって ようやく浅い眠りについた


その眠りの中で少年は 少女と並んで川の土手に座っている夢を見た

少女は 目が見えない不自由にも増して 生きている素晴らしさ 

家族や友人の優しさなどを語っていた

少年は黙って聴いていた

五月の風が時々二人の頬を撫でた

足元にはタンポポが黄色い絨毯のように敷き詰められ 

菜の花が二人を取り囲んでいた

花の間を無数の蝶々が飛び回り ミツバチが羽音をブンブン言わせ

天まで上がったヒバリがピリピリと鳴いていた

遠くでサッカー少年達の黄色い声とコーチの怒鳴り声が聞こえた

雲がゆっくりと流れて つがいのキジバトが二人の頭上を飛び去った

「今 魚が跳ねたわね」 「うん」

「きっとスズキよ 最近はスズキがよく川を遡上してくるっていう記事が

 出てたって お母さんが言ってたもの」

「顔にケガさせて本当にごめん」

「ううん あれは本当に私が悪いのよ だからもう言わないで」

それでも申し訳ない気持ちで少年が何か言おうとした時 

二本のほっそりとした腕が少年を抱き 白い顔が近づいてきて 

少年の火傷の跡に少女の怪我の跡が静かに押し当てられた

すると不思議なことに 二人の傷跡が消え 閉じられていた少女の目が開いて 

澄んだ二つの瞳が少年の目をじっと見つめた

少年は感動し「ああ最高に幸せだ 生まれてきてよかった」と思ったその時に

夢が覚めた

あたりを見回すと 寝ているのは自分の部屋のベッドで 

窓には朝日が差し込んでいた

台所で朝食の支度をしている母親に父親が話しかけ 

二人で笑っている声が聞こえた


第九章 運命の日


その日は 昼から天川あまがわ河川敷のグラウンドで 隣町の中学校との

練習試合が行われた

両チームとも攻守に精彩を欠いた挙げ句 相手のオウンゴールで1-0と

リードしたところで前半を終了した

チームメイトは喜んでいたが 少年は ミスした生徒の姿が以前少女をケガ

させた自分の姿とダブって 喜ぶ気になれず 一人離れて川の方を

ぼーっと眺めていた

その時 少女が土手道を歩いてくるのが見えた

少年は 寝不足の胸が突然早鐘のように打ち始めるのを感じて苦しくなった

少女が慣れた足取りで歩いていると その横を誰かに追われている様子の

男子中学生が身をくねらせるように走り抜け 少し遅れて醜い3人の不良高校生が

バカ声で「待てー」とわめきながらバタバタと追いかけ 少女を追い抜きざま 

下品な声で「どけっ」と言って 汚い手で土手下に突き飛ばした

純真無垢な少女は無言で土手下から川の中にころがり落ちた

少年は直ちに全速力で駆けつけ 靴を脱いで川に入ったとたん 

ズボッと深みにはまって 一気に水面下まで沈んでしまった

彼はカナヅチで 全く泳げなかったのだ

あわててムチャクチャに手を掻き 足を蹴っていたら 

少しだけ水面上に顔が出て すぐそばに少女がバチャバチャもがいて

沈みそうになっているのが見えた

溺者救助の方法などもとより知らない少年は 

何も考えずにそれを抱き寄せてしまった

すると少女は 夢の中で優しく抱いてきたのとは正反対に 

死に物狂いの力で抱きついてきた

溺れる者は藁でも掴むとは まさにこのことだった

少年は両腕の自由を奪われ 二人はダンゴ状態になって水中を浮きつ沈みつして

このままでは二人とも溺死は避けられないように見えた

しかし少年は したたか水を飲みながらも 出来るだけ少女が水面上に出るように

自分が下になって足をムチャクチャに蹴り続けたところ 

少女の額が岸辺のコンクリートにゴツンと当たり 少女は無我夢中で手を伸ばして

壁をつかんでゼイゼイと息をした

だが この時少年は既に力尽きて 岸辺をゆらゆらと漂い始めていた

薄れてゆく意識の中で 彼は何を思っていたのだろう

川を流れていくその顔は 誓いを果たし終えて全てから解放された安らかさを

湛えていた


翌日の朝刊は次のように報じている

「20日午後2時頃 東京都田園区を流れる天川の丸木橋付近で 

 少女が川に転落したのを見た区立天川台中学2年の三浦翔さんが 

 少女を無事救出したものの 自身は力尽きて死亡した

 三浦さんは泳ぎは不得手だったが 勇敢に救助に向かったもので

 警視庁は三浦さんに警視総監感謝状を贈ることとし 遺族に連絡した」


大神は 少年の魂を天上に召して神々の列に加えるよう天使に命じた


第十章 奇跡


あれから1年が経ちました

少女には 特別の計らいで盲導犬が付きました 

3才になるラブラドール・レトリーバーのオスで 名前をアベルと言います

パピーウォーカー(注)や訓練士のお陰で 少女のよきパートナーとなって

います(注:盲導犬となる子犬を生後2ヶ月から1歳まで引き取って

育ててくれるボランティア)

少女の家族は今日まで 少年の月命日にはお宅を訪ねて 

お花とお線香をあげてきました

明日は少年の一回忌の日です

あの日以来 少女はあの写真を手にしなくなりました

今夜も 机の前に座ってすぐ勉強を始めました

しばらくすると 足下にいたアベルが突然少女の素足をペロッと舐めました

少女は「キャー」と嬉しい驚きの悲鳴をあげるとともに 可愛いアベルを

急いで抱きしめてあげたくなって 思いっきり上体を屈めた拍子に

額をイヤというほど机の上にぶつけてしまいました

目から火が出ました

少女は椅子からころげ落ち 気絶しそうなほどの痛みに耐えながら

「目から火が出るって本当なんだ」と変に感心していました

あまりの大きな音に驚いて 母親と姉が飛んで来ました

「どうしたの 大丈夫?」

「大丈夫 ちょっと机に頭をぶつけただけだから」

痛かったけれど強がりを言いました


翌朝少女が目を覚ました時 何かが違っていました

光の中に色々な影がチラチラ見えるのです

最初は 夕べ額をぶつけたせいで頭の中が壊れてしまったのかと 

恐ろしくなりました

ところが じっと目をこらしていると 見覚えのある懐かしい部屋の景色が

目に映っているではありませんか

視力を失っていた4年の間に 耳で聞き 手で触ったものを信じる習慣が

ついていたので 目に見えるものをすぐには信じることが出来ませんでした

そのため 机や椅子や本棚を次々と手で触って確かめたところ 

目で見たものと一致しました

有り得ないことのようですが もはや視力が戻ったのは間違いありませんでした

「お父さん お母さん お姉さん みんなちょっと来てー」

はやる気持ちを抑え 落ち着いた声で皆を呼びましたが

4年ぶりの家族の顔を見たとたん こらえきれなくなって

「眼が見えるの 見えるようになったの」と大声で喜びを爆発させました

「奇蹟だ 奇蹟が起きたんだ」父親が狂ったように叫びました

母親は 黙って息が出来なくなるほど強く娘を抱き締めました

姉は妹を抱いてピョンピョン跳ねました

家族全員が少女を囲んで抱き合って喜びました


故三浦翔君の一回忌の法要に新田家全員で参列した後 少女は一人で

三浦家を訪れ 改めて翔君に助けてもらったことへの感謝とお礼を

述べるとともに 視力が戻ったことを報告しました

そして少年の遺影に手を合わせ 開いたばかりの眼でじーっと見つめていた時

突然ハッとした表情になりました

顔を近づけ もう一度澄んだ瞳で写真をよく見てから 少年の母親に

「翔さんの小学生時代の写真を見せていただけませんか」と頼みました

母親は二階からアルバムを持ってきました

それを一枚一枚見ていくうちに 少女の顔がこわばり 唇が震え始めました

間違いありません 翔君でした

少女が絵の道を絶たれて生きる希望を失いかけていた時

生きていつか会おうねと 毎日写真の中から笑顔で励まし続けてくれた少年は

自分の命を捨てて少女を救ってくれた翔君でした

少女は身を震わせ 堰を切ったように泣き出し やがてそれは

慟哭に変わって 止むことがありませんでした


終章 天上の二人


天上界では 年に一度の神々の祭典が開かれていました

「お姉様 支度まだなの」

「まだ掛かるから 先に行ってて」

妹女神は 先に出かけることにしました

暫く行くと 見覚えのある少年神に出会いました

「あら」

「やあ」

「火傷治ったのね」

「うん 目が見えるんだね」

二人は並んで光の中を歩いて行きました

                           (完)






















           




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