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夏椿の怪

作者: 古千谷早苗

 踏み入れた境内は初夏の清涼に満ちていた。


 千歳(ちとせ)の視界を埋めつくさんとばかりに咲き誇る紫陽花の色合いは青、白、紫。どれも寒色だ。

 いつもはもう少し遅い、お盆の頃に訪れるから分からなかった。


 左右を紫陽花が彩る石畳の奥には神社の拝殿がそびえる。

 千歳は冷えた敷石を真新しいスニーカーで擦って進むと、賽銭箱の前で立ち止まった。


 ここでいつも小銭をくれる祖母はいない。

 今年に入ってからずっと、体の調子が良くないのだ。


 夏休みに来るつもりだった母方の実家だが、昨日、突然母親が「明日はねい婆ちゃん家に行くよ」と言ってきた。

 小学校にも今朝になってから休みの連絡を入れていた。聞けば父親も、夜には来るという。


 久し振りに会った祖母は寝所で伏せっていて、布団から千歳の頭を撫でた腕は棒きれのように細かった。


 今年で十つになる千歳だが、なんとなく、一昨年に祖父が亡くなったときと同じ匂いを感じていた。



 二人が一人になった。

 それだけでひどく静かに感じられる。辺りには誰もおらず、千歳のみ。鳥の鳴き声一つしない。


 千歳は母親から小遣いで貰った百円玉を賽銭箱に放った。小さな光が木箱を転がり落ちていく。

 チャリーンと高い音がした後で、銅鈴をごろりと揺らし、二礼、二拍手。そうしてから、小さな手のひらを合わせた。



 ねい婆ちゃんが元気になりますように。


 そう願えば、チリーン、とまた高い音が鳴った。



 投げた賽銭は落ちたはずだ。あれ、とまんまる目を見開ければ、また同じ音がする。



 ここじゃない、もっと遠く。


 しっかり一礼した後、清廉な音に誘われるようにして、千歳は普段――祖母とは行かない拝殿の裏手へと出た。



 背の高い木が多く、森に近い。

 チリン、チリンと千歳を惹きつける音は奥へ行くほど大きくなる。スニーカーを露草で濡らしながら音の出所を探ると、じきに一本の木に辿り着いた。


 表皮がはげかかった、つるりとした幹。白い花を抱えてもたげる枝葉が、千歳の小さな体を外界から隠す。


 空は明るい今日だが、日陰にくると肌寒い。半袖から覗く少し日焼けた腕が粟立っているのを感じながら、千歳はまた同じ音色を聞いた。

 すぐそこにいる。思わず手で幹に触れた。


『誰だ』


 突然聞こえた男の声に驚き、千歳は一歩後ずさる。


 間が空いて再び、誰だ、と声が降った。その落ち着いた声音の主に、千歳は恐る恐る口を開く。


「誰かいるの?」


 そう言って木の上方を見上げれば――

 彼は、ゆっくりと姿を見せた。




 幾重にも重なった葉々の向こうに、(もや)がかかっていく。

 千歳の頭上で次第に濃さを増し、霧から滴を経て。やがて一つになったその集まりは、大人一人ほどの大きさにもなる。


 蜜にも似た半透明のそれは、どろり、と木から垂れるようにして、千歳の足元へ滴り落ちた。



 不安定に揺らぎ立ちのぼる蜜の柱は、千歳が驚き固まっている間に人の形をなしていく。

 半透明が不透明になり、やがて幼子の小さな背丈を見下ろすように造られたのは、一人の青年。


 千歳はそれを見て、生きる美術品だ、と思った。


 まとう狩衣はおろか、髪の毛、睫毛の一本一本、はては瞳の虹彩まで。彫像のようにすべてが真っ白。それでいて、艶めかしい絵画のような柔らかさがある。


 明らかに人ではないが、これには人のような生きる温度があると、千歳は目だけで分かった。




 恐怖より好奇心が勝ったか、千歳は眼前に現れた清々しい白にしばらく見入っていた。長らくじっと見つめ合った後、物の怪の薄い唇が流れるように動く。


「どうした。こんなところで」

「……鈴の音が、聞こえて」


「ああ、やはり届くのか」


 落ち着いた、人ならざる者の言葉に返すと、相手は右手を軽く持ち上げた。無表情の白顔の前でただ一つ、白ではない黄色い鈴がチリンと鳴る。毛羽立った太紐に繋がれたそれはオモチャに付くような代物だ。


「お兄さんは――」


 何なの、と千歳が素朴な疑問を口にする前に、頬に冷たい雫が落ちた。薄い葉の先から千歳を打ったのは、雨。

 雨は静かに勢いを増し、庭園の草わらをサアサアと濡らしていく。


「降られたな」

「うん」

「雨宿りしていけばいい」


 このくらいなら走って本殿まで戻れば、と千歳は一瞬思ったが、その考えはすぐに捨てた。

 理由は、物の怪の瞳。変わらず無表情だが、千歳を映す瞳だけはどうしてか寂しそうに感じられたのだ。




 物の怪の誘いに乗り、少し湿った木の根元に座り込む。滑らかな幹にこてりと寄りかかれば、白の物の怪は隣へと腰を下ろした。


 枝を伝った雨粒が千歳の頭をポツポツと叩く。子どもらしい細い髪の毛を雨粒が伝い落ちていくが、それは数滴だけ。すぐに絹の風合いが千歳を包みこんだ。


 物の怪の狩衣の袖が、小さな千歳を頭から覆う。白く細い腕が頭上に伸び、なかば抱かれるような格好で、千歳は白の衣を被る。


 世界から自分の存在を隠されるようでもあったのに、不思議と懐かしい香りがする。

 千歳は少しだけ、体を横に預けた。




 一人ではない安心感を感じたのは、千歳だけではないようだった。


「人の子。名は何という」


「千歳」

「――ああ。いい名だ。人が願い、付けるからこそ」


 物の怪の横顔を窺うように見上げれば、心なしか先ほどより表情が和らいでいるように見える。

 真っ直ぐ遠くを見つめる彼の色彩は一色。それでも情が滲み出ているように思うのは、千歳の心によるものかもしれない。


「お兄さんのお名前は?」

「私の名か。……白蜜(しろみつ)と、呼ばれていたことがある」


 ――白蜜。


 千歳の頭にふと浮かんだのは、あの甘味。賽の目状の寒天がとぷんと浸かる、口に嬉しい甘い蜜。


 千歳はこてりと首を傾けた。正直、この涼しげな青年には似合わないのではないだろうか。

 そんな心中を見透かしたか、物の怪の青年――白蜜は、薄い唇をわずかばかり歪めた。


「美味しいらしいな」


 淡々とした物言いだったが、けして不快げではない。白の双眸が千歳を向く。


「名付けたやつが、先ほどの姿を見て決めたのだ。自分の好物の、白蜜のようだと。……だからといって、名付けるか?」


「ううん」

「やはりそうか」


 思った通り、あいつの感覚はおかしかったらしい。

 白蜜は小声でそう言葉を紡ぐと、くつくつと喉の奥で笑った――ように、千歳には見えた。




 どうやらにわか雨だったらしく、じきに雨音はやんだ。


 束の間の温もりと知っていたように、白蜜が袖を振る。しゅるりと、千歳の耳元で衣が擦れる音がする。


 音もなく腰を上げた白蜜に続いて、千歳は立ち上がった。お尻に付いた土を軽く払い、「ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をすると、初めて千歳の背を見た白蜜が口を開く。


「なんだ。家で伏せっている者でもいるのか」

「ねい婆ちゃん……お婆ちゃんの具合が悪くて。お参りのためにここに来たんだ」


「ああ。――成る程」


 「成る程」と白蜜はもう一度、噛み締めるように言った。白の瞳は穴があくほどに千歳を見据えている。


「一つ頼まれてくれないか。……これをその、ねい婆ちゃんとやらに届けて欲しいのだ。見舞いだ」


 どこから出したのか、白蜜が差し出したのは頭上のものと同じ枝木だった。


 花器に挿すのにちょうど良さそうな小ぶりのそれは、新緑の葉の中に、ころころと清楚な白い花が付いている。

 花びらの中に収まる黄色い花芯が、飾らない愛らしさを添えていた。


「年に一日しか咲かぬ花。夕方には落ちる。それも首から」


 千歳はその意味を知らない。

 ただ目を瞬かせるだけの十つの子に構わず、白蜜は続ける。


「人からすれば縁起でもない花だろうが。鈴の音が繋いだ縁だと思って、どうか」


 青年の声音は懇願にも近かった。

 雨宿りもさせてもらったし、断る理由もない。

 見舞いの気持ちは大切なものだと知っていた千歳は、「いいよ」と微笑んで、その枝木を受け取った。



 *****



「人に流れる時は分からん」


 千歳が去った後。


 白雨(はくう)で濡れそぼった庭園の隅で一つ、白蜜は呟いた。天を仰げば、日の光が薄い雲を貫くようにして、町の方々へ差している。


「もう、そんな歳か。孫が生まれ……天に召されるほどの年月か」





 白蜜。わたし、来年からはここには来ないわ。


 ――どうして。


 秋に嫁ぐことが決まったの。

 伴侶がいるのに、貴方に会いに毎年通うなんて……できないわ。


 ――私と人間を一緒にするな。


 わたしの気持ちの問題よ。

 ……お参りしに、境内までは来るから。この時期は毎日来るから。

 だから、咲いたその日は。貴方がいる一日は、この鈴を鳴らしていて。

 わたしはそれを聞いて、ああ、貴方がいるんだなって、想うから。





「最後に会いたいのは、私の我儘だ。――(ねい)



 *****



 千歳が帰宅すると、お昼のためだろう、台所から食事の匂いがする。真っ直ぐ祖母の寝る和室へと向かうと、部屋の障子の前に母親がいた。


 エプロン姿の母親の手にはスプーンの入った空のガラス器。千歳は最初に着いたとき、祖母があんみつを食べたいと言っていたことを思い出した。


 「おかえり」と声をかけた母親は、千歳の持ち帰った枝木に目を留めた。そこに付く花をまじまじと見た彼女の表情が、あからさまに曇る。


「千歳……この花の意味、分かってるの!」


 何かまずかったのか。眉を吊り上げる母親に、千歳が謝ろうとしたとき。



 チリーン。


 あの鈴の音が響いた。

 母親はもちろん、千歳だって持ち合わせていない。預かった覚えもないのに、どこから。


 二人が首をかしげるより前に、障子越しに祖母の声がした。


「――白蜜?」


 どうしたことかと母親が障子を開ければ、布団の中の祖母は首だけをこちらに向けていた。

 千歳と、彼が持つ花木に気付くと、その痩せこけた頬が優しく緩む。


「ああ。やっぱり、白蜜だ」


 ゆっくりと絞り出された声には、どこか懐かしむような響きがあった。


「ねぇ椿(つばき)、枕元にその木を活けてくれないかしら」

「でも、お母さん」

「それがいいのよ」


 「お願い」と頼む祖母の表情に悲観めいたものは一切なく、母親は戸惑いながらも千歳から枝木を受け取って、洗面台へと向かった。


 祖母は千歳と目を合わせると、くしゃりと笑う。薄く白みがかった瞳に滲むのは、淡い喜び。


「今思うと、わたしは幼かった。……連れてきてくれてありがとう、千歳」



 母親が花瓶に活けて戻ってくると、「しばらく二人だけにしてね」と祖母は言った。

 二人という言葉に母親は不思議がっているが、千歳には何となくその意味が理解できる。


 母親と連れ立って部屋を出る間際。


 千歳が振り返ると、祖母の傍らで白の狩衣が揺れたような気がした。

 瞬きしてもう一度見たが、そこにはただ白い花が佇むばかりで。立ち止まっていた千歳は母親に促され、何も言わず部屋を後にした。





 その日の夕方に、祖母は息を引き取った。


 千歳が部屋に着いたとき、枕元の花はすべて首から落ちていて、祖母の冷たい体に寄り添う姿は言い尽くせない哀しみを湛えていた。

 祖母の頬と同じ白。その花びらの中に一つ、雫が浮かぶ。



 祖母は最後に白蜜を見たのだろうか。

 名を知っているなら、どんな関係だったのだろうか。


 千歳には知るよしもないことだったが、それでも、瞼を閉じる祖母の表情は(やわ)く、穏やかなものに見えた。

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