①オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」
今回は「すばらしい新世界」です。ネタバレガンガンしますので注意
オルダス・ハクスリーという作家をご存じだろうか。
こういっておいてなんだが、私もそう詳しいというわけではない。「小説家というより思想家やエッセイストとして活躍した」とか、「イギリス人で、20世紀に活躍した」とか、その程度である。
ただ、この作家の名を、私は今後一生忘れないのではないか。
そう思ってしまうほど、彼の「すばらしい新世界」は衝撃的であった。
簡単に分類すると、この作品は「ユートピアもの」に分類されるであろう。
「ユートピアもの」を私なりに定義すると、「人間にとって最高と思われる世界を、登場人物を現実に生きる人間を登場人物として描く小説」である。
ユートピアもののミソ、というか面白いところは、理想郷と思われた世界が、実は最悪な世界(の1つ)(ディストピア)である、というところにある。
例えば、全ての犯罪を根絶するには、どうすればいいだろうか。人格を潰せばいいのである。というか、それしかない。人は、人格があるから、自分に良いように物事を進めようとする。しかし、誰かの幸せは他の誰かの不幸せになっているのだから、矛盾が生じ、犯罪が起こる。争いが起こる。
ゆえ、人間にとっての「平和」という最善を突き詰めた場合、最終的に待ち受けるのは、人間の無思考化である。
しかし、それはどう考えてもおかしい。
だから、我々は各々の考えを尊重しつつ、矛盾が生じたときにはその解決に努めなければならない、という結論が導き出される。これがオーソドックスなユートピアもののストーリーの概要だ。
しかし、このような普通のユートピアものの展開に、私は違和感を少し覚えていた。
確かに、思考実験として、「人間の善の追求」は面白い。ただ、その結果導き出される、「極端は良くないよね、程度の問題だよね」という結論は、あまりに淡泊というか、人間にとって考えることの重要性を考えさせはしても、それ以上のものを与えないのではないか、と思ってしまう。
もちろん、中庸の徳の重要性は、古代ギリシャの哲学者を引くまでもなく、多少は分かっているつもりだ。
しかし、分かっているからこそ、ユートピアものが、いつまでも多様性をもてず、この昔から続く偉大なストーリーの中でぐるぐると回っていることに、閉塞感や、ユートピアものの限界、そして退屈を覚えてしまうのだ。
では、「すばらしい新世界」はどうなのか。
この作品の世界を正確に、要点を押さえて説明するのは、若輩の自分には極めて難しく、かなり大雑把な記述になってしまうのだが、なんとか頑張りたい。正直に言うと、もしこの文章を読んでいる人が「すばらしい新世界」未読ならば、先に軽く読んで世界観を頭に入れておくことをお勧めしたいくらいだ。
予防線はこのくらいにしよう。
舞台は、ユートピアが既に完成された世界である。出生が国によって管理され、幼い時から国に逆らわないような刷り込みをされる。性欲をはじめとする肉体的快楽は解放されている一方で、精神的快楽は厳しく管理されている。本や映画は底の浅い娯楽しかない。また、快楽を得られる薬品が国から定期的に支給され、人々はそれに夢中だ。
人々は死ぬまで健康で、楽しいことを好きなだけ享受できる。
街で生きる人たちがいる一方で、自然の中で野蛮人として生活する人もいる。ただ、「野蛮人」と「文明人」は、互いに干渉せず、それぞれ独特の文化を築いている。
少し話はズレるのだが、世界を維持する仕組みの1つとして「身分制度」が存在しているのも興味深い設定だ。人々は、自分の身分を当然と受け入れ(それも刷り込まれる)、その中での幸福を求める。この指摘は非常に面白いと思うが、ただ、本筋から離れるため、ここでは深く追究しない。
さて、こんな洗脳世界は言うまでもなくおかしい。異常である。この小説の中でもそう思った人はおり、彼らがメインキャラクターとして行動する。
この「彼ら」がまた面白いのだ。
3人いるのだが、1人は、見栄っ張りだ。「俗世を嫌う俺かっこいい」という薄っぺらい性格でしかなく、本気で世界に愛想を尽かそうとしているわけではない。ようはかっこつけたがり。
別の1人は、もう少し賢い。彼は大学の教員で、したがって多くの情報を集めることができ、世界を、普通の人よりは冷静に判断できる。ただ、彼は世界の異常さを理解しつつも、革命を起こす気はあまりなく、この理想郷を楽しんでいる。
最後の1人は、野蛮人の少年である。若いころに間違って街から出てきてしまい、自然の中で生きていかざるを得なくなった母の昔話と、唯一手に入れたシェークスピアの全集に夢中になり、見たことが無い文明社会に思いをはせる。
この3人が文明社会の中で出会い、様々な経験をし、次第に社会のおかしさを真剣に考え始める。特に最後に紹介した1人は、理想を抱いていただけに、落胆ぶりと怒りは大きかった。彼は事件を起こし、そして、最後にはこのユートピアを創り出した張本人の1人と対決する。
野蛮人の少年は、文明社会の人々が人間として生きていない、と激しく糾弾する。
そこで明かされた世界の秘密が衝撃的だった。
実は、支配者たちもそんなことはとうの昔に考えていたのである。彼らは、人類の進歩や善い生き方、理性的な生き方(作者はこれを化学と呼ぶ)と、表面的な快楽を天秤にかけ、人間にとっては後者こそが必要なのだと結論づけ、この世界をつくったのだ。全ては人間のため、だったのである。
少年はそのことに動揺しつつも、シェークスピアを引きながら、なんとかそれを批判する。他の2人もそれを応援する。
支配者はその批判に落ち着きをもって答える。
確かに、化学的真理を愛してやまない人にとっては、彼らの言う生き方の方が良いかもしれない。
しかし、本当に、全ての人にとって、快楽以上に求めるものなどあるのか?
そして、続ける。
「では、君が本当に化学的真理の方が大事ならば、それを追究できる場所に君を移動させてあげよう。ただ、我々はほとんどの人にとっては快楽こそが最も良いものだと考えているから、戻ってこれなくてもいいならそこに移してあげよう」
なんと、快楽よりも科学的真理を重んじた人は他にもいて、彼らは彼らで集められ、どこかの土地で研究を続けているのだ。そこに行きたかったらそれでもいいという。
ここで、究極的な選択が我々の前に現れる。
快楽と化学、どちらを「貴方は」「善い」と思うのか。
登場人物がどちらを選んだかも気になるが、ここではあえて、この問いを読者である我々に投げかけたい。
貴方ならどちらを選びますか?
オルダス・ハクスリーはここで、従来のユートピアの壁を越え、その先の問いにたどり着いた。
個人にとっての「善」とは何か。
我々自身は、何のために生きるのか。
もちろん、この問いは一種のマジックである。
たとえ個人にとっての善が快楽だとしても、社会にとっての善がそれと同じであるという保証はない。
研究者だけを隔離するというのは個人にとっての善さの判断でしかなく、研究結果を社会に還元するという要素が抜け落ちているために、それは人類全体を基準にしているとはいえない。
しかし、多くの市民が快楽を積極的に享受している現状において、それこそ革命を起こすこともできないのに、そして、支配者自身がそれを肯定的に捉える中で、果たして、化学の、理性の善さを唱え続ける意味とは何なのだろうか。
もちろん、選択をする人自身が快楽より理性を「本当に」重要視するなら、それでも良い。ただ、普通の快楽を好みながらも、理性によってそれではいけない」と考えている人は、どちらを選択するのだろうか。
そもそも、それほど理性や化学というのは偉いものなのだろうか?これらの限界を説く思想家は、現実にも多くいる。
果たして、正解はどちらなのか。
選択をしない、つまり、文明社会にいながらも理性を説き続けるならばどうだろうか。
それは最もわかりやすい正義だろう。理性という「本当の善」を心に抱き、それを自分だけでなく、他の人にも伝えようとする。しかし、先ほども述べたような状態だから、大衆は変わらないだろう。それはたやすく予想できるから、結局は快楽に逃げたことを誤魔化しているに過ぎない。
では、直接支配者を殺して、社会のシステムを変えればいいのではないか。
どうやって?それは現実的ではない。生まれてからずっと洗脳されているうえに、快楽を捨ててわざわざ立ち上がる人が果たしてどれくらいいるのか。
そしてまた、最初の問いに戻る。
「我々は何のために生きる?なぜ快楽を望んではいけない?理性とは何のためにあるのだ?」
ここまでの主張に、こう反論する人がいるかもしれない。
「この小説では、選択することを強いられており、現実では中庸を選ぶことができる。この選択は面白い思考実験ではあるが、お前の言う『ユートピアの壁』とやらは越えていないではないか」
しかし、私はそうではないと思う。
私は、この本質的な二択は、実は、実際の世界でもなされていることだと思う。
つまり、我々誰もが、無意識のうちに問いを自らの中に投げかけ、その結果、どちらかを選んでいると思うのだ。そして、私を含め、圧倒的多数が快楽を選んでいると思う。
そう考えて「すばらしい新世界」の世界を振り返ると、物語的な誇張は含まれているものの、実は、この世界とは極端を描いているようでいて、現実の世界を描いていることに気がつく。
いや、もっと過激に意見を述べるならば、この現代は、実は「極端な世界」そのものだ。
凡庸なユートピアものでは、誇張が強い世界を描き、我々に、「今の世界ってこれよりはマシだ」と錯覚させ、中庸の難しさを覆い隠してしまう。
しかし、「すばらしい新世界」は、その霧を晴らす。
この時、この作品はユートピアの壁を越えた。ユートピアものでありながら、アンチユートピアでもある。
ゆえ、私はこの作品を極めて優れた作品であり、もっと読まれるべきものだと思う。