第八話 「『“おかえりなさい”あったかい家族の味。』」
「じゃーな、シロサクぅ!また明日!」
校門近くで振り返ると、相模がバイクに跨がり俺の横を走り抜けた。バイクに描かれた模様が白線状に俺の瞳に飛び込み、バイクは坂を駆け抜けていった。俺は横髪を押さえてエナメルを背負い直し、坂をゆっくりと下り始めた。
周りには、ちょうど帰る途中の他校の高校生が、横並びでおしゃべりしながら歩いていた。俺は下を向き、エナメルの紐を、自分に手繰り寄せながら、坂を駆け下りた。
◇◆◇◆
西学園地区駅から約十五分。四駅離れた吉舎布駅で、俺は電車から降りた。見慣れた商店街が、俺の眼前に広がる。俺は足取りも軽く、商店街の中を突き進んでいった。 歩くこと十分。少し人気の少ない場所に、俺の家はある。
その名も『らぁめんよつば』。
ここ首都郊外地域では結構有名ならぁめん屋だ。店に掲げられた看板に書かれたキャッチコピーは、『“おかえりなさい”あったかい家族の味。』。ここで俺と母さんが暮らしている。
暖簾をくぐって、俺は客が入る店のエリアを通り抜け、居間を通り、階段を上がり、右に曲がって突き当りの俺の部屋に入り、エナメルを置く。赤Tシャツに、黄色地に緑色の文字で『らぁめんよつば』と書かれたエプロンを羽織り、部屋から出て店エリアへと向かう。
「いらっしゃいませー!」
俺は店に入ってきた客を出迎え、席へと案内する。
「お帰り、朔。今帰って来たの?」
母さんが空の食器を運びながらそう聞く。俺は「ああ」と答えた。
「今日は入学式だったから、疲れてるでしょ? 今日は休んでもいいのよ?」
母さんは心配そうに俺を見る。
「疲れてるでしょ?」
「大丈夫だよ、母さん。疲れてなんかいないって。それに、俺がいなかったら、この後の食事時の人手が、足りなくなるだろ?」
俺は、母さんから食器を受け取り、流し台でそれを洗う。
この『らぁめんよつば』で、つまり俺の自宅で、店の手伝いをすることが、俺の日課だ。 母さんと俺の他にも、バイトの人がいるけれど、中々、混む時間帯には忙しくなる。三人でも少し厳しいくらいだ。
「いらっしゃいませー!」
俺は入って来た客を迎える。
「よぉ、兄ちゃん。今カウンター、空いてるか」
入って来た客は、この店の常連の、東郷丈助さんだった。
俺は東郷さんの指定席ーすなわち、いつも、東郷さんが好んで座る、お気に入りの席を見る。今はだれも座っていない。
「空いてますよ」
「そりゃァよかった」
東郷さんはそう言うと、いつもの、出口近くのカウンター席に座る。
「いつもの」
俺は、東郷さんのいつものメニューであるみつばらぁめんときなこ餅をオーダーすると、カウンター横の椅子に座った。
今は、さほど混んでいる時間帯ではなく、人も少なくて暇なのですることがない。そういう時は、こうして休憩するのだ。
しばらくして、みつばらぁめんときなこ餅が完成し、俺はそれを東郷さんへ運んだ。
「みつばらぁめんときなこ餅、お待ちっ!」
「おォ、来た来た」
東郷さんは、割り箸を箸立てから一膳抜き出し縦に割り、「頂きます」と手を合わせる。ズルズルッと勢いよくらぁめんをかきこむ。
「東郷さんは、いつも本当に旨そうに食べてくれますよね」俺は何気なくそう言う。
「まァな」
東郷さんはスープを啜りながら言う。
「実際、旨ェしな」
東郷さんはフフ、と笑う。
「そう言うお前さんだって」
「何です?」
俺は尋ねる。東郷さんの口元が緩んでいる。
東郷さんは、カタ、とレンゲを置いて言った。
「このラーメンを食うときにゃ、いつも楽しそうに笑って食ってるぜ」
◇◆◇◆
東郷さんは、俺の父親の旧友だ。昔から父さんと知り合いだった…らしく、父さんがいなくなった今でも、こうして俺達家族に、しょっちゅう会いに来てくれる。
「お前さんの父も、そういう風に笑うヤツだったなァ」
東郷さんは目を細める。
「いつもはおっかねェ顔して、誰に対しても厳しい、昔ながらの父親みたいなヤツだったけどよ。お前さんら…朱美さんとお前さんの顔を見るなり、顔綻ばして、赤んぼみたいに笑顔振りまいて…俺たちゃ、笑いを堪えるのに必死だったさ」
朱美、というのは、俺の母さんの名前だ。
「お前さんは覚えてねェんだろ?…まァ無理もねェか、もうあれから八年経つんだもんなァ」
東郷さんはそう言って寂しそうにはにかんだ。
俺の父さんは、八年前のある夏の日、俺達が前住んでいたマンションの、ベランダから飛び降り、死んだ。
俺はそれを確実に目撃していたはずなんだが、八年という歳月が、俺の記憶を風化させてしまったのか、それともトラウマとして、無意識の内に、俺自身がその記憶を消し去ってしまったのかは分からないけれど、俺の記憶に、父親の顔は残っていなかった。
時折見る悪夢では、俺は父さんの顔を見ることができない。父さんの顔は黒く染まり、誰なのか判別することはできない。けれど、確かに八年前、俺は父さんの死にゆく顔を、この目で直に、見たに違いない。
――――やっぱり、思い出せない方が幸せなのかも知れない。
「すまん、暗い話になっちまうな。…けどな、兄ちゃん」
そう言って、東郷さんは人差し指で俺の鼻先をちょん、とつついた。
「お前さんの父親は、いつでも、自分の心向きだけは変えない男だった。兄ちゃんも、たとえ自分がどんな状況に置かれても、自分の心向きだけは、変えるな」
東郷さんは、不敵な笑みを浮かべた。
「お前さんの父親は立派な男だったんだ。それだけは忘れてくれるなよ」
そう言って東郷さんは、最後のきなこ餅を、ひょいと飲み込んだ。
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