第二十話 「六刃公園」
「――――ダリア」
二人だけになり静まり返った第三音楽室に、宇治川海山の頼りなげな声が響く。ダリア、と宇治川海山は繰り返した。長椅子に横になった女生徒は、動く気配を見せない。
「本当に寝ているのか? 起きてくれ、ダリア」
宇治川海山は有田千鶴を揺り起こした。有田千鶴はゆっくりと目を開け、辺りを見回す。
「どうだった、間違っていなかったか」
有田千鶴は上半身だけを起こした。胸にかけていた制服のセーターがずり落ちる。
メガネ、と有田千鶴が言うと、宇治川海山は机の上に置いてあったメガネを手に取り、有田千鶴に渡した。有田千鶴はしっかりとメガネをかけて、目を閉じた。
「……概ね。だけど途中で私に交代したから」
「ああ、それはその、いやしかし、いくら何でもあんなに長い文章、覚えきれるものではない」
「完璧じゃない」
ぐ、と宇治川海山は呻いた。有田千鶴は細目を開け、宇治川海山の表情を見る。
「見栄を張るのはやめたら」
「それは駄目だ。部長という大役を授かった以上、先代や相槌先輩に申し訳が立たない」
よくわからない義務感だ、と有田千鶴は思った。先代も相槌先輩も、こんなにきっちりした人では無かった。
先輩達がこの部に戻って来たら、何とお堅い部活になったのだろう、と思うだろう。少なくとも先代がいた頃は、私が長椅子で寝ていても、揺り動かすような人はここにはいなかった。
これからずっとシーマンはこんな調子なのかと思うと、有田千鶴は溜め息を吐かずにはいられなかった。
◇◆◇◆
俺はそのまま家に帰ろうかと思っていた。けれど、俺は実習棟の一階から出たときに、あるものを発見した。
鬱蒼と繁る木々がそこにはあった。静かに風が通り抜け、互いの葉が互いの葉を擦って音を鳴らし、心地よい音色を奏でている。奥の方から、ジーーという虫の鳴き声が聞こえた。
敷地内にある森。すなわちこれが六陵高校の有する巨大な自然公園、六刃公園であった。全国の高校では最大レベルの公園。この時代、高校の中に公園があるのは珍しく無いが、ここまで大きいのは珍しいそうだ。面積にして15ha。1haがどれくらいなのか分からないが、相当大きいらしい。
俺は純粋な好奇心に刺激され、六刃公園の中へと入っていった。日はかなり傾いていて、森の中は薄暗い。十分ほど歩道を歩いていった。虫の鳴く声が大きくなる。虫の姿は見えない。歩道には外灯が疎らにしか無かった。
そこからさらに十分ほど歩くと、外灯がたくさん点いた場所に着いた。外灯に円形に囲まれた真ん中には噴水があったけれど、その噴水は鉄製のフェンスで両断されていた。そのフェンスは途切れることなく横に延びていた。暗闇に目を凝らしても、その端は見えない。
外灯の下のベンチの一つに、人が項垂れて座っているのが見えた。
「越貝か?」
俺はベンチに項垂れている越貝に近付いた。越貝は頭をもたげる。
「白詰か。どうしたこんな時間に」
「それはお前も同じだ。どうしたんだ、こんな場所で何をしてるんだ」
「知っているか、白詰」越貝は質問に答えず喋り出した。
「野球部の顧問が誰だか」
「いや、知らない」
「星野臣人…『鬼星人』だ」
そう言って越貝は長く息を吐く。心底参った、という表情で。
鬼星人。今日の四時間目、準備運動で俺達にグラウンドを何十周もさせ、俺を殴り倒した先生だ。
「……野球部に仮入部に行ったのか?」
ああ、と越貝は頷いた。「他にも、うちのクラスの体育委員の星井も行った。惨劇だった」
惨劇。
何だそれは、と俺が問う。越貝はそのじゃりっぱげの頭を抱えながら言った。
「準備運動でグラウンド二百周」うえ、と越貝は吐くような動作をした。「モドしたヤツもいた」
「それは……ハードだな」「ああ、ハードだった」
越貝は腕を組んで顎を乗せた。
「……越貝は、『この高校を全国大会に導く』って言ってたよな」
「ああ」
越貝はうなずく。そして顔を上げ、俺の顔を見た。曇った表情だ。
「もしかして白詰は、俺が野球部入りを諦めたと思っているのか」
「……違うのか」
そんなメチャクチャな所、入りたいと言う方がどうかしている。
「俺の夢は変わらない」
越貝は俺を真っ直ぐに見つめる。
「俺の夢は、六陵高校野球部を全国大会へ連れていくことだ」
その目は憧れや夢を追う者の目では無く――――
決心した者の目だった。
ちょうど、長年求めた謎への答えへの鍵を、今まさに鍵穴に挿そうとしているかのような。
「俺は帰る」
越貝はそう言って立ち上がった。全身から草と土と、汗の臭いがする。漢の臭いだと思った。
「またな、白詰。達者でな」
唐突にその場を去っていった越貝の背中には、恐いものは何もないような頼もしさが感じられた。
「……マイペースだな」
俺はそう呟いて越貝が腰掛けていたベンチに座った。
胡散臭いあのチビ男よりも、越貝の方がよっぽど力を与えてくれそうだ。
俺はふっ、と空を見上げた。木々の間から何億もの星々が瞬き、神秘的に夜空を彩っている。
今夜は星が降るそうだ。
◇◆◇◆
「七時十五分です、部活終了の時間ですよー!まだ校内に残っている生徒は早く帰ってね~!」
外灯に付いたスピーカーから、我らが担任つくね先生の声が聞こえる。最終下校時刻十五分前か。
俺はエナメルを持って立ち上がり、六刃公園を後にした。帰り道は行きより暗くて静かで、後ろを振り返ると誰かが飛び出して来そうで、知らず知らず俺は早足になっていた。
「おっ、白詰じゃんか」
校門を出た所で後ろから声が掛かった。酉饗だ。制服のカッターシャツを第二ボタンまで開け、首に薄手のタオルを巻いている。スポーツタオルというやつだろう。
「家まで送ってくれよ」にひひ、と笑う。「男だろ」
「酉饗、そんなこと言ってると男子から煙たがられるぞ」
俺がそう言うと、酉饗はあからさまに肩を落とした。
「やっぱ、そうだよなぁ」
どうやら酉饗は本気で落ち込んでしまったようだ。
「……何かあったのか? 男子に何か言われたとか」
「二枚目の先輩がいたんだ、陸上部に」
酉饗の話によると、その生徒というのは陸上部のエース的存在であり、六陵高校の生徒会長でもある五位鷺醍醐の事であるらしかった。彼は運動神経抜群で三年生首席であり、まさに文武両道の具現者だという。
「先輩は助言をくれたんだ、『貴女にはテニスの方が合っていますよ』って。これってどう思う?」
「どう思うって……まぁ合っているような気がする」
「きっと嫌われたんだ、先輩に」酉饗はそう言って頭を垂れた。
「もしかして酉饗、恋……しちゃったのか」
俺は因循しながら酉饗の顔色を窺った。彼女は小麦色に焼けた頬を紅潮させた。
「何だ、悪いのかよ?」
「いや、悪くはないけどさ」
俺は返答に窮する。酉饗は居た堪れず頭を乱暴に掻く。
「……じゃあ明日はテニス部に行こう」
え、と俺が言うのもお構い無しに、酉饗は続ける。
「先輩直々のお達しなんだ、それが当然だろ?」
「俺は、酉饗の好きなようにすればいいと思うけど」
「もちろん、明日は白詰も一緒だぜ」
俺はもう一度え、と言った。「何でだよ?」
「白詰はガッツがあるし」と酉饗は言う。「陸上部に付いてきてくれなかったからな」
「何だよそれ……我が儘な理由だな」
もしかしたら酉饗は、意外に寂しがりなのかもしれない。
断る理由も無かったし、俺はお人好しだもんで、仕方なく明日のテニス部への同行を受け入れた。
これは、酉饗に言うと怒られるんだろうけど――――
俺は、酉饗を男友達のように身近に感じた。
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