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第二話 「飛び降り」

 


 次の朝、午前六時。

 目覚ましをワンコールで止め、俺はむっくりと起き上がる。制服に着替え、らぁめんを啜り、歯を磨き、髪を整え、仏壇に手を合わせる。

 そうやって、いつも通りの朝の日課をこなしていると、なんだかひどくおかしくなった。今日は俺の人生の分かれ目だっていうのに、いつもと変わらず日々は進んでいく。この世界は、なんてのどかなんだ。と俺は思った。それを俺が思ったところで、世界が変わることはない。




 そしてその二十分後。


「ヤバいな……」


 俺はきょろきょろと辺りを見回す。同じようなビルの群れが、にょきにょき並んで立っている。見分けがつかない。

 俺は今、完全に迷子になっていた。試験会場に向かう途中の道のどこか

で、間違った方向に進んでしまったようだ。


「ここはどこなんだ? 目印もないし、どっちに行けば……」


 俺は焦って辺りを見回す。黄色に光る看板、目まぐるしくその色を変える三色の信号機にぶら下がった道路表示。しゃれた服に身を包んだ人達、それらはどれも見覚えの無い物だった。

俺はふと、弾かれるように、いや、導かれるように、上を見上げた。すると、視界の端に何かが映った。


「―――何だ? あれは」


 道路の向こう側のビル群のうちの一つのビル。その五階の窓の外に、誰かが立っていた。

 窓の外の出っ張った部分に、統一制服を着た桃色の髪の女子中学生がいたのだ。

 明らかに様子がおかしい。眼は見開かれ、けれど全く眼に光がなくて……


 まるで――――死人のようだ。


 そいつは、どこにも焦点を結ばないまま、フラリと右足を一歩前へ進めた。

 刹那、そいつはぐらりと傾いた。右足が宙を踏んでいる。このままだと……


 “死ぬ”。


 その一語が、俺の脳裏をよぎった。


「何してんだ、やめろーッ!」


 言うが早いか、俺は自分でも気付かないうちに走り出していた。五階とは言え、ゆうに十mはある。あんなとこから落ちたら、無事では済まない。俺は、時速二百㎞の車が飛び交う中を、無我夢中で駆け抜ける。


「うおっ!!」


 俺の鼻先をスーパーカーがかすめる。俺の鼓動が全身に響き、血液が回転する音が聞こえる。死を逃れた感覚、とでも言うのだろうか。全身の感覚が研ぎ澄まされ、世界が遅くなったように感じる。そんなことがあるはずはないのに。


 ビルを見上げると、女子中学生は完全に逆さになり、自由落下を始めていた。彼女に当たる日の影は、一瞬毎に彼女を塗り潰していく。


「くそッ!」


 俺は死に物狂いで走りこみ、落下中の女子中学生の下に思い切り滑りこんだ。女子中学生は俺の背中に墜落し、トランポリンのように大きく跳ねる。

 俺は、その衝撃で、思い切り体と頭を舗装道路に打ちつけられた。血が全身から抜け落ちていく感覚に襲われる。俺の意識は、だんだんと俺から離れてゆく。頭の中を、黒く濁った粘液が覆い尽くした。


 ―――――そして俺の瞳が閉じた。

 

 

 ◇◆◇◆

 

 

 真っ青な空。真っ白な雲。遠くからやかましく蝉の声が聞こえる。

 夏だ。

 俺は、歩いて学校から帰ってきているところだった。夏休みの宿題が終わってないからという理由で、日曜日に先生に呼び出されていたのだ。

 とぼとぼと、俺は歩みを進めた。家に帰ったらお母さんに叱られるだろうな、などと思いながら。

 太陽はうざったいほどに俺に照りつけ、汗が俺の額を滴り落ちた。風は蝉の鳴き声におびえているのか、出てくる気配が全くない。少しだけ顔を覗かせても減るもんじゃないだろうに。建物の影を渡り歩き、空を睨む。


「アイス食べよう、そうしよう」


 俺はランドセルを背負い直し、一人で呟いた。最近近所にできた駄菓子屋のアイスがやたら安いと評判で、このころの俺は、毎日のようにアイスを買っていた。

 安いからといって不味いわけじゃない。どこにでも売っているアイスが少しだけ安く売られているだけだ。ちょっとしたことだが、そのもたらすものは大きい。


「アイスのおじちゃーん、いつものちょーだい!」


 俺は駄菓子屋のおっちゃんからバニラアイスを買い、歩きながらそれを食った。母さんがいたら絶対に怒られるから、歩き食いは下校時にしかできなかった。歩き食いは、見つかったら怒られるだろなーという、ちょっぴりのスリルがあって、そのとき食べたアイスの味は、なぜかいつもより少ししょっぱい味がしたのを覚えている。いや、甘い、の間違いだ。


 休日の学校からの呼び出しに鬱屈していたけれど、うまいアイスを食べて上機嫌になった俺は、鼻歌交じりにスキップしながら、俺のマンションへの角を曲がった。汗をぬぐって上を見上げると、俺たち家族が住んでいる部屋のベランダに誰かが立っていた。


「だあれー?」


 俺は“誰か”に向かって大声でそう言った。

“誰か”はこっちに気付いていないのか、どこか前方を見ながら、ベランダの手すりの上によじ登った。“誰か”の顔は、真っ黒く塗りつぶされ、見えない。


「ねー! そんなところで何してるのー?」


“誰か”は一向に気づく気配がない。手すりの上で、その体を不安定に揺らしている。


「……?」


“誰か”の様子がおかしい、と俺は気付いた。

 眼は見開かれ、けれど全く眼に光がなくて……



 まるで――――――――――――



 そのとき、急にびゅう、と風が吹いた。

“誰か”の体がぐらり、と傾く。

 俺の目の前で“誰か”は、マンションの前の舗装道路に吸い込まれていった。その“誰か”の見ている風景が、俺の記憶とともに、俺の視界に写る。

 遠くに見える湯屋の煙突、赤色の屋根の家、遥か遠くの遊園地、そして、マンションの近くの曲がり角で、立ちすくんでいる幼いころの俺。


“死ぬ”!

“××が…死ぬ”!


 誰の叫びともとれるような叫びが、俺の頭に響き、その一瞬後、ドン、と鈍く大きな音が鳴り、俺はその場に立ち尽くした。

 


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