二十四、出陣の朝—神崎領からの旅立ち
まだ夜明け前、空がわずかに白み始めた頃、紘一は目を覚ました。昨夜はほとんど眠れなかった。何度も寝返りを打ち、浅い眠りと覚醒を繰り返した。夢の中で、戦場の光景が蘇る。松永との戦いの記憶。血の匂い。悲鳴。そして、あの若者の顔。
紘一は起き上がり、身支度を整えた。着物の上に、簡素な鎧を着る。この時代の鎧は、現代の時代劇で見るような豪華なものではない。革と鉄の板を組み合わせた、実用的なものだった。重いが、それが戦場では命を守る。胴当て、籠手、脛当て。一つ一つ、丁寧に装着していく。
鎧を着終えると、刀を腰に差した。広綱から授かった短刀も、懐に忍ばせる。そして、槍を手に取った。この槍で、また人を殺すかもしれない。その現実が、紘一の胸に重くのしかかった。
部屋を出ると、廊下にはすでに何人かの兵が歩いていた。皆、鎧を着け、武器を持っている。その顔には、緊張が浮かんでいた。だが、同時に決意もあった。
中庭に出ると、二十名の兵が集まっていた。全員が完全武装していた。槍を持つ者、弓を持つ者、刀を帯びる者。訓練の成果が、その姿勢に表れていた。背筋が伸び視線は真っ直ぐ前を向いている。
平吉もそこにいた。鎧を着た平吉は、いつもより大人びて見えた。その顔には、決意が宿っていた。
「おはようございます、田邊さん」平吉が声をかけた。
「おはよう、平吉。準備はできているか」
「はい」平吉は力強く頷いた。
権助も紘一に挨拶した。「田邊様、我々、準備万端です」
紘一は兵たちを見回した。二十名。この二十名を無事に連れて帰らなければならない。その責任が紘一の肩にのしかかった。
「皆、よく集まってくれた」紘一は兵たちの前に立った。「今日から我らは道三様の軍に参加する。戦場に出る」
兵たちは真剣な顔で紘一を見ていた。
「戦場は厳しい。恐ろしい」紘一は正直に言った。「だが、我らには訓練がある。仲間がいる。そして、守るべきものがある」紘一の声には力が込められていた。「家族を守るために。領地を守るために。我らは戦う」
「はい!」兵たちは一斉に答えた。
「そして、何より重要なことがある」紘一は続けた。「それは、全員が無事に帰ることだ」紘一は一人一人の目を見た。「生きて帰る。それが最も重要な任務だ」
兵たちの目に、涙が滲んだ。紘一の言葉が心に響いたのだ。
その時、広綱と広信が現れた。広綱は杖をつきながらも、しっかりとした足取りで歩いてきた。広信はその横に付き添っている。
「田邊」広綱が声をかけた。「準備はできたか」
「はい」紘一は深く頭を下げた。
広綱は兵たちを見回した。「皆、よく聞け」広綱の声は威厳に満ちていた。「お前たちは、神崎家の代表として、戦場に出る」広綱は続けた。「恥じぬ戦いをしろ。だが、無理はするな」広綱の声が震えた。「必ず、無事に帰ってこい」
「はい!」兵たちは、力強く答えた。
広信も前に出た。「皆さん、武運を祈っています」広信の声は、真剣だった。「そして、田邊さん、必ず無事に帰ってきてください」
「ああ、約束する」紘一は広信の肩を叩いた。
馬が用意されていた。二十一頭。紘一の分と各兵の分。質素な馬だったがよく訓練されていた。紘一は自分の馬に跨った。他の兵たちも次々と馬に乗る。
伊藤が紘一のところに来た。「田邊殿、気をつけて」
「はい。領地のことお願いします」
「任せろ」伊藤は力強く頷いた。
佐々木も来た。「田邊殿、道中の安全を祈っています」
「ありがとうございます」
屋敷の門の外には、多くの領民が集まっていた。太郎、源蔵、そして寺子屋の生徒たち。皆、出陣する兵たちを見送りに来ていた。
「田邊様、頑張ってください!」太郎が叫んだ。
「無事に帰ってきてください!」源蔵も声をかけた。
子供たちは、手を振っていた。「田邊先生、頑張って!」
紘一は胸が熱くなった。こんなに多くの人々が、自分たちを見送ってくれている。その期待に応えなければならない。
「では、出発する」紘一は号令をかけた。
馬が、ゆっくりと動き出した。二十一頭の馬が、列を成して進む。その蹄の音が冬の朝の静寂に響く。
紘一は振り返った。屋敷が徐々に遠ざかっていく。広綱と広信がまだ手を振っている。領民たちも手を振っている。
「必ず、帰ってくる」紘一は心の中で誓った。
一行は、神崎領を後にした。北へ向かう道を、進んでいく。冬の道は厳しかった。雪が残り風が冷たい。だが、兵たちは黙々と進んだ。
道中、紘一は兵たちと話をした。緊張を和らげるために。そして、士気を保つために。
「平吉、母上は元気だったか」
「はい。少し心配していましたが、俺が必ず帰ると約束しました」平吉の声には、決意があった。
「権助、子供たちは」
「はい。まだ小さいので何も分かっていないようでした。それが、かえって良かったかもしれません」権助は苦笑した。
兵たちは、それぞれの家族のことを話した。妻のこと、子供のこと、親のこと。その話を聞きながら、紘一は改めて思った。この兵たちには、守るべきものがある。だからこそ、必ず無事に帰さなければならない。
昼過ぎ、一行は小さな村で休憩を取った。馬に水を飲ませ、兵たちも食事を取る。持参した握り飯と、干し魚。質素な食事だが、体を温めてくれた。
「田邊様」一人の若い兵が、紘一のところに来た。名を新吾という、十八歳の若者だった。初陣ではないが、まだ経験は浅い。「俺、怖いです」
紘一は新吾の肩を叩いた。「怖いのは、当然だ。俺も怖い」
「田邊様も、ですか」新吾は、驚いた顔をした。
「ああ」紘一は正直に答えた。「戦場は、誰でも怖い。それが、普通だ」
「でも……」
「だが、恐怖に負けてはいけない」紘一は、真剣に言った。「恐怖を感じながらも、やるべきことをやる。それが、勇気だ」
新吾は深く頷いた。「分かりました。頑張ります」
休憩が終わると、一行は再び出発した。夕方には、斎藤領に入った。道が、徐々に良くなってきた。整備された街道。それが、斎藤家の力を物語っていた。
日が暮れる頃、一行は予定していた宿場町に到着した。そこには、すでに斎藤家の兵が待機していた。
「神崎家の者か」斎藤家の兵が、尋ねた。
「はい。田邊紘一と申します」紘一は答えた。
「聞いている。こちらへ」
一行は、宿場町の中にある大きな建物に案内された。そこには、すでに他の小領主からの兵たちも集まっていた。総勢で百名ほどだろうか。皆、明日、道三の軍に合流するために集まっていた。
建物の中は、広かった。土間に藁が敷かれ、そこに兵たちが座っている。火が焚かれ、部屋は温かい。食事も用意されていた。
紘一たちも場所を確保して座った。疲れた体を休める。
「田邊さん、ここには色々な領地の兵がいるんですね」平吉が周囲を見回しながら言った。
「ああ。皆、道三様の軍に参加するために集まっている」紘一も周囲を観察した。
他の領地の兵たちは、神崎家の兵を好奇の目で見ていた。特に、紘一に注目が集まっていた。松永を破った知恵者。小山領を戦わずして臣従させた男。その噂は、すでに広がっているようだった。
食事が配られた。雑穀の粥と、漬物と、干し魚。質素だが、温かい食事だった。兵たちは、黙々と食べた。
食事が終わると、兵たちは横になって休んだ。明日からが、本番だ。体力を温存しなければならない。
だが、紘一は眠れなかった。窓の外を見ると、月が出ていた。満月に近い、大きな月。その光が、雪に覆われた大地を照らしている。
「明日から、戦いが始まる」紘一は呟いた。
そして、再び、あの悪夢が蘇ってきた。血の匂い。悲鳴。若者の顔。だが、紘一は目を閉じて、深呼吸をした。
「乗り越える。必ず、乗り越える」
紘一はそう自分に言い聞かせた。




