四、宴の裏側—密談と駆け引き
宴が最も盛り上がりを見せている頃、道三は紘一に小さく合図をした。誰にも気づかれないような、わずかな目配せだった。だが、紘一はそれを見逃さなかった。道三が、何か二人だけで話したいことがあるのだろう。
しばらくして、道三は席を立った。「少し、外の空気を吸ってくる」そう言って、広間を出ていった。紘一も、適当な理由をつけて席を外した。「お手洗いを……」
廊下に出ると、道三が待っていた。「こちらへ」道三は、紘一を別の部屋へ案内した。その部屋は、小さな書院だった。壁には書物が並べられ、机の上には筆と墨と紙が置かれている。窓からは、城下町の夜景が見える。無数の灯りが、闇の中で瞬いている。冬の澄んだ空気の中、その灯りは美しかった。
部屋に入ると、道三は扉を閉めた。そして、紘一と向かい合って座った。二人きりだった。護衛も、側近もいない。ただ、道三と紘一だけ。
「田邊殿」道三は、口を開いた。その声は、宴の時とは違っていた。計算された穏やかさではなく、より直接的で、鋭い声だった。「率直に聞く。お前は、何者だ」
紘一は、予想していた質問だった。だが、それでも緊張した。心臓が、速く打つ。呼吸が、わずかに乱れる。だが、表情は冷静を保った。「私は、田邊紘一です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「嘘をつくな」道三の目が、鋭くなった。「お前の知識は、尋常ではない。戦術、外交、農業、そしておそらく、他にも多くのことを知っているだろう」道三は、続けた。「記憶を失った男が、そんなに多くのことを知っているはずがない」
紘一は、じっと道三を見た。この男は、本気で紘一の正体を探ろうとしている。そして、おそらく、ある程度のところまで推測している。
「では、道三様は、私が何者だと思われますか」紘一は、逆に質問した。
道三は、少し考えてから答えた。「いくつか可能性がある」道三は、指を折りながら言った。「一つ、お前は他国からの間者だ。高度な教育を受け、様々な知識を持ち、神崎家に潜り込んだ」道三は、続けた。「二つ、お前は何らかの理由で隠遁していた学者か軍師で、記憶を失ったことをきっかけに神崎家に仕えることになった」道三は、三つ目の指を立てた。「三つ、お前は……」道三は、言葉を止めた。
「三つ目は?」紘一は、尋ねた。
道三は、わずかに笑った。「三つ目は、馬鹿げている。だから、言わない」
紘一は、道三が何を考えているのか、推測した。おそらく、「未来から来た」とか、「神の使い」とか、そういった非現実的な可能性を考えているのだろう。だが、道三のような現実主義者は、そんなことを真剣には考えない。だから、口にしない。
「道三様」紘一は、真剣な顔で言った。「私が何者であれ、神崎家に忠誠を誓っています。それだけは、確かです」
「それは分かっている」道三は、頷いた。「お前の行動を見れば、神崎家への忠誠は本物だと分かる」道三は、窓の外を見た。「だが、それでも、お前の正体は知りたい」
「なぜですか」紘一は、尋ねた。
「お前のような人材は、貴重だ」道三は、率直に言った。「お前がどこから来たのか、どうやってその知識を得たのか、それを知れば、わしも同じような人材を育てられるかもしれない」道三の声には、野心が滲んでいた。「お前一人だけでなく、お前のような知恵者を、複数抱えられれば、美濃だけでなく、天下も取れる」
紘一は、道三の野心の大きさを改めて理解した。この男は、美濃の統一だけでは満足しない。天下を狙っている。そのために、あらゆる手段を使う。人材を集め、育て、利用する。それが、道三のやり方だった。
「道三様」紘一は、言った。「私は、ただの一介の家臣です。特別な存在ではありません」
「謙遜するな」道三は、首を横に振った。「お前は特別だ。それは、誰の目にも明らかだ」道三は、紘一の目を見た。「だからこそ、わしはお前を欲しい」
紘一は、息を呑んだ。ついに、本題が来た。
「神崎家を離れて、わしに仕えないか」道三の声は、誘惑に満ちていた。「わしは、お前に相応しい地位を与える。家老でもいい。軍師でもいい。お前が望むなら、領地も与えよう」道三は、続けた。「神崎家は小さい。だが、斎藤家は大きい。お前の才能を、もっと大きな舞台で発揮できる」
紘一は、予想していた提案だった。だが、実際に聞くと、その誘惑の大きさに驚いた。地位、権力、領地。この時代の武士が望むすべてが、そこにあった。
だが、紘一の答えは決まっていた。
「申し訳ございませんが、お断りします」紘一は、はっきりと言った。
道三の目が、わずかに細くなった。「理由を聞かせてもらおう」
「私は、神崎家に恩義があります」紘一は、答えた。「広綱様は、記憶を失った私を受け入れてくださいました。疑うことなく、信頼してくださいました」紘一の声には、感謝が込められていた。「その恩を、裏切ることはできません」
道三は、しばらく黙っていた。その目は、紘一を観察している。本気なのか、それとも演技なのか。それを、見極めようとしている。
やがて、道三は笑った。「義理堅い男だな」道三の声には、賞賛が込められていた。「だが、それもいい。義理を重んじる男は、信用できる」道三は、立ち上がった。「今回は諦めよう。だが、いつか気が変わったら、いつでも来い。わしは、お前を歓迎する」
紘一も、立ち上がった。「ありがとうございます。ですが、その日は来ないでしょう」
「それは、分からぬ」道三は、意味深に言った。「人生は長い。何が起こるか、誰にも分からない」
二人は、部屋を出た。廊下に戻ると、まるで何もなかったかのように、宴の場に戻った。だが、紘一の心には、道三との会話が重く残っていた。
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