二、広信の教育—若き当主の成長と葛藤
その夜、紘一は広信に呼ばれた。いつもの字の稽古の時間だった。だが、今夜の広信は、いつもと様子が違った。机の前に座っているが、筆を持っていない。ただ、窓の外を見ている。その横顔には、何か深い考え事をしているような表情があった。
広信の部屋は、屋敷の中でも比較的立派な部屋だった。畳が敷かれ、床の間には掛け軸が飾られている。掛け軸には、「文武両道」という文字が書かれていた。広綱が、広信のために選んだものだろう。文を学び、武を磨く。それが、領主に求められることだ。部屋の隅には、広信の刀が立てかけられている。美しい拵えの刀で、鞘には家紋が入っている。だが、その刀は、まだ実戦で使われたことはない。広信は、まだ戦場に出たことがないのだ。
机の上には、紙と筆と墨が用意されていた。いつもなら、広信はすでに文字の練習を始めている時間だ。だが、今夜は違う。広信は、何も書いていない。ただ、ぼんやりと外を見ている。
「広信様、どうかされましたか」紘一は、声をかけた。
広信は、はっと我に返った。「あ、田邊さん。すみません、ぼうっとしていました」広信は、苦笑した。だが、その笑顔には、無理があった。何か、心に引っかかっていることがあるのだろう。
「何か、お悩みですか」紘一は、優しく尋ねた。
広信は、少し躊躇してから、口を開いた。「田邊さん、今日、村に行かれたそうですね」
「はい。源蔵さんが病気だと聞いて、様子を見に行きました」紘一は、答えた。
「そして、医者を呼んで、米や薪も届けられたと」広信の声には、何か複雑なものが込められていた。
「はい。源蔵さんは、村の長老です。見捨てることはできませんでした」紘一は、真剣に言った。
広信は、深くため息をついた。「田邊さんは、本当に領民のことを考えておられる」広信の声には、尊敬が滲んでいた。「私は、恥ずかしいです」
「恥ずかしい?どうしてですか」紘一は、驚いた。
「私は、領主の息子として生まれました」広信は、自分の手を見つめた。「ですが、領民のことを、本当の意味で考えたことがありませんでした」広信の声が、震えた。「彼らが、どれほど苦しんでいるのか。どれほど貧しいのか。冬をどうやって越しているのか。そんなこと、考えたこともありませんでした」
広信の目に、涙が滲んだ。「私は、ただ、屋敷の中で、温かい部屋で、美味しい食事を食べて、それが当たり前だと思っていました」広信は、拳を握りしめた。「でも、田邊さんが来てから、気づきました」
「領民たちが、どれほど苦しんでいるか」広信は、紘一を見た。「私は、領主になります。いずれ、父上の後を継ぎます」広信の声には、決意が込められていた。「ですが、私に、領主としての資格があるのでしょうか」
紘一は、広信の苦悩を理解した。この若者は、真剣に自分の責任と向き合っている。それは、素晴らしいことだった。多くの領主が、領民を年貢を納める道具としか見ていない時代に、広信は違う。領民を、人として見ようとしている。
「広信様」紘一は、静かに言った。「その問いを持つこと自体が、すでに領主としての資格を示しています」
「本当ですか」広信は、不安そうに尋ねた。
「はい」紘一は、頷いた。「多くの領主は、そんな問いすら持ちません。領民のことなど、考えもしません。ですが、広信様は違う。領民のことを考え、自分の資格を問うている」紘一は、続けた。「それこそが、真の領主の第一歩です」
広信の目が、明るくなった。「そうでしょうか」
「はい」紘一は、微笑んだ。「そして、広信様は、これから学んでいけばいいのです」紘一は、窓の外を指差した。「領民のことを知ること。彼らの生活を理解すること。そして、彼らのために何ができるかを考えること」
「ですが、私には、まだ力がありません」広信は、自分の無力さを嘆いた。「父上が病で倒れた時、私は何もできませんでした。すべて、田邊さんが解決してくださいました」
「それは、当然です」紘一は、首を横に振った。「広信様は、まだ十八歳です。経験も、知識も、まだ十分ではありません」紘一は、続けた。「ですが、それでいいのです。今は、学ぶ時です」
紘一は、立ち上がった。「広信様、明日、一緒に村を回りましょう」
「村を、ですか」広信は、驚いた顔をした。
「はい」紘一は、頷いた。「領民の生活を、実際に見てください。彼らと話してください。そうすれば、領主として何をすべきか、見えてきます」
広信は、少し考えてから、頷いた。「分かりました。明日、一緒に行きましょう」
その夜、二人は字の稽古をした。だが、いつもとは違う雰囲気だった。広信は、真剣だった。ただ字を学ぶのではなく、領主としての学びとして、字を学んでいた。一画一画、丁寧に書く。その姿勢には、覚悟が感じられた。
紘一は、広信の成長を感じた。この若者は、変わろうとしている。領主として、人々のために尽くそうとしている。それは、この時代では稀有なことだった。多くの領主が、自分の利益だけを考える中で、広信は違う道を選ぼうとしている。
翌日、紘一と広信は、朝早くから村を回った。広信にとって、領民と直接話すのは、初めてに近い経験だった。普段、広信は屋敷の中にいる。外に出ることはあっても、それは武芸の稽古か、狩りか、あるいは他の武家への訪問だった。農民たちと話す機会など、ほとんどなかった。
最初、農民たちは戸惑っていた。若殿が、なぜここに来たのか。何か、悪いことでもしたのか。そんな不安が、彼らの顔に浮かんでいた。だが、広信が優しく話しかけると、徐々に心を開き始めた。
太郎の家を訪れた時、広信は衝撃を受けた。家の中は、質素だった。床は土間で、藁が敷かれているだけ。家具もほとんどない。囲炉裏があるだけだ。だが、それでも、太郎の家は村の中ではマシな方だった。間断灌漑のおかげで、収入が増えたからだ。
「若殿様、よくぞお越しくださいました」太郎は、深く頭を下げた。
「いや、こちらこそ、突然訪ねて申し訳ない」広信は、丁寧に言った。「少し、話を聞かせてもらえないだろうか」
太郎は、驚いた顔をした。若殿が、自分のような貧しい農民に、話を聞きたいと言っている。それだけで、太郎は感激した。
「冬支度は、進んでいますか」広信は、尋ねた。
「はい、おかげさまで」太郎は、答えた。「今年は、田邊様の教えてくださった方法で、収穫が倍になりました。ですから、薪も買えましたし、食料も蓄えられました」
「それは良かった」広信は、微笑んだ。だが、その笑顔の裏には、複雑な思いがあった。領民たちが、こんなに苦労しているとは知らなかった。薪を買うことすら、大変なのだ。
次に、源蔵の家を訪れた。源蔵は、まだ床に伏せていた。だが、薬のおかげで、少し良くなっているようだった。咳は、まだ出るが、以前ほど激しくはない。熱も、少し下がっている。
「源蔵さん、具合はいかがですか」広信は、源蔵の側に座った。
源蔵は、目を開けた。その目には、驚きがあった。「若殿様……こんなところまで……」源蔵の声は、か細かった。
「いや、当然のことだ」広信は、言った。「源蔵さんは、この村を長年支えてこられた。その方が病に倒れているのに、見舞いに来ないわけにはいかない」
源蔵の目に、涙が滲んだ。「もったいないお言葉です」
広信は、源蔵の手を握った。その手は、冷たく、骨ばっていた。長年の農作業で、固くなった手だ。だが、今は力がない。「必ず、良くなってください。村には、源蔵さんが必要です」
源蔵は、涙を流した。「ありがとうございます」
その後も、広信と紘一は、いくつかの家を回った。そして、広信は、領民の生活の厳しさを、身をもって知った。冬を越すことが、どれほど大変か。食料を確保することが、どれほど困難か。病気になることが、どれほど恐ろしいか。
屋敷に戻った時、広信は疲れ切っていた。だが、その目には、新しい光があった。「田邊さん、ありがとうございました」広信は、深く頭を下げた。「今日、多くのことを学びました」
「広信様、これからも、領民のことを学び続けてください」紘一は、言った。「そうすれば、必ず、素晴らしい領主になれます」
「はい」広信は、力強く頷いた。
初めての作品になります。励みになりますので、高評価ブックマークをよろしくお願いします。




