第三章 【拡張】 一、冬の訪れ—領地の発展と新たな課題
小山領の臣従が正式に成立してから、一ヶ月が過ぎた。
季節は冬に向かっていた。
朝、紘一が目を覚ますと、窓の外には霜が降りていた。白い霜が、庭の草木を覆っている。まるで、薄い雪が積もったかのようだ。息を吐くと、白い息が見える。部屋の中も冷えていた。この時代、暖房などない。囲炉裏があるだけだ。夜は特に冷える。紘一は、何枚も着物を重ね着して寝ていた。それでも、明け方には寒さで目が覚めることがある。
紘一は起き上がり、部屋の隅に置いてある火鉢に手をかざした。昨夜の炭火は、まだわずかに温もりを残している。だが、それも間もなく消えるだろう。紘一は新しい炭を継ぎ足し、火吹き竹で息を吹きかけた。炭が赤く輝き始める。その熱が、徐々に部屋に広がっていく。
外に出ると、空気が凛としていた。深く息を吸い込むと、肺が冷たさで痛む。だが、その空気は清々しい。汚れがなく、純粋だ。現代日本では、もう味わえない空気だった。空は高く、雲一つない青空が広がっている。太陽が昇り始め、東の空が薄く赤みを帯びている。その光が、霜に覆われた大地を照らし、キラキラと輝かせている。美しい朝だった。
だが、紘一の心には、懸念もあった。冬が来る。寒さが厳しくなる。この時代の冬は、現代とは比べ物にならないほど過酷だ。暖房設備はほとんどなく、食料も限られる。特に、貧しい農民たちにとって、冬は試練の季節だった。凍死する者もいる。飢える者もいる。病気が流行ることもある。
紘一は、屋敷の門を出て、村へ向かった。最近、紘一は頻繁に村を訪れるようになっていた。農民たちの様子を見るためだ。彼らが、どのように暮らしているのか。何に困っているのか。それを知ることが、領地経営の基本だと、紘一は理解していた。現代の教師としての経験が、ここでも役立っていた。生徒一人一人の状況を把握し、適切な支援をする。それと同じことを、領民に対しても行うのだ。
村に着くと、農民たちが冬支度をしていた。家の壁に、藁を詰めている者。屋根の茅を補修している者。薪を積み上げている者。皆、冬に備えて、必死に働いている。その顔には、不安が浮かんでいた。今年の冬は、乗り越えられるだろうか。食料は足りるだろうか。寒さに耐えられるだろうか。そんな不安が、彼らの表情に表れていた。
「田邊様」太郎が、紘一に気づいて駆け寄ってきた。太郎の顔は、以前より明るかった。間断灌漑のおかげで、今年の収穫は倍増した。十二俵の米が取れた。それは、太郎の家族にとって、奇跡のようなことだった。「おはようございます」
「おはよう、太郎さん。冬支度は進んでいますか」紘一は、太郎の家を見た。小さな茅葺き屋根の家だが、以前よりしっかりと補修されているようだった。壁の穴も塞がれ、屋根の茅も新しく葺き替えられている。太郎の収入が増えたおかげで、家の修繕にも手が回るようになったのだろう。
「はい、おかげさまで」太郎は、嬉しそうに答えた。「今年は、米がたくさん取れましたから、薪も買えました。食料も蓄えられました」太郎の声には、安堵が滲んでいた。「これで、冬を越せます」
だが、紘一は他の家々を見回した。太郎の家のように、しっかりと冬支度ができている家ばかりではない。壁に穴が開いたままの家。屋根が破れている家。薪が少ししか積まれていない家。そういう家も、まだ多くあった。間断灌漑を採用した農民は、まだ一部だけだ。多くの農民は、来年から試してみるつもりだと言っている。だから、今年の収穫は、例年通りだった。つまり、ぎりぎりだった。
「太郎さん、他の人たちの様子はどうですか」紘一は、尋ねた。
太郎の表情が、曇った。「正直に言うと、厳しいです」太郎は、声を低くした。「特に、源蔵の家は……」太郎は、村の奥を指差した。「源蔵さんは、もう七十を超えています。体も弱っています。今年の収穫も少なかったそうです」
紘一は、源蔵の家に向かった。村の長老格の男で、紘一が間断灌漑を説明した時、最初は半信半疑だったが、最終的には賛同してくれた男だ。その源蔵の家は、村の外れにあった。小さな、古い家だった。壁は土壁だが、ところどころ崩れている。屋根の茅も、古く、色褪せている。薪も、ほとんど積まれていない。
家の前に立つと、中から咳の音が聞こえた。激しい咳だ。紘一は、戸を叩いた。「源蔵さん、田邊です」
しばらくして、戸が開いた。出てきたのは、源蔵の娘だった。四十代くらいの、痩せた女性だった。顔色が悪く、疲れ切っている。「田邊様……」女性は、驚いた顔をした。「こんなところまで、わざわざ……」
「源蔵さんの様子を見に来ました。具合はいかがですか」紘一は、尋ねた。
女性の顔が、さらに曇った。「父は、風邪をこじらせてしまって……」女性の声が、震えた。「咳が止まらないんです。熱もあります」女性の目に、涙が滲んだ。「医者に診せたいのですが、お金がなくて……」
紘一は、胸が痛んだ。この時代、医者にかかるのは贅沢だった。特に、貧しい農民にとっては。医者の診察料は高く、薬代も高い。だから、多くの農民は、病気になっても医者にかからず、自然治癒を待つしかなかった。そして、治らずに死んでいく者も多かった。特に、老人や子供は。
「中に入ってもいいですか」紘一は、尋ねた。
「はい、どうぞ」女性は、紘一を中に案内した。
家の中は、薄暗く、寒かった。囲炉裏に火は燃えているが、それだけでは家全体を温めることはできない。床は土間で、その上にわずかな藁が敷かれているだけだ。奥の部屋に、源蔵が横になっていた。
源蔵は、筵の上に横たわり、古い布団をかぶっていた。その布団も、薄く、破れている。源蔵の顔は、青白く、汗が浮かんでいた。呼吸は荒く、時折、激しく咳き込む。その咳は、胸の奥から絞り出すような、苦しそうな咳だった。
「源蔵さん」紘一は、源蔵の側に座った。
源蔵は、薄く目を開けた。その目は、濁っていた。「田邊様……」源蔵の声は、か細かった。「こんな姿を、お見せして……申し訳ございません」
「いえ、謝らないでください」紘一は、源蔵の額に手を当てた。熱い。かなりの高熱だ。これは、ただの風邪ではないかもしれない。肺炎の可能性もある。この時代、肺炎は死病だった。抗生物質もない。適切な治療もない。ただ、安静にして、体力が回復するのを待つしかない。だが、源蔵のような高齢者にとって、それは厳しい戦いだった。
紘一は、立ち上がった。「すぐに医者を呼びます。そして、薬も用意します」
「いえ、そんな……」女性が、慌てて言った。「私たちには、お金が……」
「お金のことは心配しないでください」紘一は、断言した。「私が払います」
「そんな、田邊様にそこまでしていただくわけには……」女性は、涙を流した。
「いいんです」紘一は、優しく言った。「源蔵さんは、この村の大切な長老です。村を支えてこられた方です。その方を、見捨てることはできません」
紘一は、すぐに屋敷に戻り、使いを出して医者を呼んだ。この地域には、医者が一人だけいた。隣村に住む、名を宗安という老医者だった。七十歳近い年齢だが、まだ現役で診療を続けている。紘一は、宗安に源蔵の診察を依頼し、診察料と薬代を前払いした。
その日の夕方、宗安が源蔵を診察した。診断は、やはり肺炎だった。「かなり進行しています」宗安は、深刻な顔で言った。「高齢ですし、体力もない。正直に言って、厳しいです」宗安は、薬を処方した。漢方薬だった。この時代、西洋医学はまだ日本に入ってきていない。医療は、すべて漢方だった。「これを煎じて、一日三回飲ませてください。そして、温かくして、安静にさせること。栄養のあるものを食べさせること」
紘一は、さらに指示を出した。米を源蔵の家に届けさせた。薪も届けさせた。そして、鶏を一羽、持っていかせた。「鶏のスープを作ってください。それを、源蔵さんに食べさせてください」
女性は、涙を流しながら何度も頭を下げた。「ありがとうございます。ありがとうございます」
だが、紘一の心には、無力感もあった。医療が、あまりにも貧弱だ。現代なら、抗生物質を投与すれば、肺炎など簡単に治る。だが、この時代には、それがない。ただ、漢方薬と安静と栄養。それだけが、治療法だった。そして、それでも助からない命が、たくさんあった。
紘一は、屋敷に戻りながら考えた。医療を改善できないか。衛生環境を良くできないか。栄養状態を改善できないか。冬を越すための支援を、もっとできないか。課題は、山積みだった。
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